第8話 そのままの確率

 平日の午後。


 外回りを終えた神谷直人は、駅へ戻る途中で人だかりに気づいた。


 通行の邪魔になるほどではない。


 歩道の端にスタッフらしい人間が数人集まり、カメラと照明機材を囲んでいる。


「撮影か」


 そのまま通り過ぎるつもりだった。


 だが、カメラの前に立っている女性を見て、足が少しだけ遅くなる。


 淡い色のブラウスに、細身のパンツ。


 長い髪が風に揺れていた。


 見覚えのある顔だった。


 水城凛。


 Instagramで何度か見たモデル。


 画面で見るより、ずっと華奢に見えた。


「もう一枚いきます」


 スタッフの声が聞こえる。


 凛が位置へ戻った。


 さっきまでスタッフと普通に話していた顔が、カメラを向けられた瞬間に変わる。


 笑う。


 少し顎を引く。


 視線を外す。


 撮影されている時間は数秒なのに、そのたびに表情が違った。


「はい、カット」


 一度確認が入る。


「ごめん、もう一回。髪がちょっと」


「はい」


 凛は嫌な顔をせず、スタッフに髪を整えられて、また同じ位置へ戻る。


 二回。


 三回。


 似た動きを何度も繰り返す。


 直人には、どの写真が良くて、どれが駄目なのか分からなかった。


 営業なら、相手の反応や質問で手応えはある程度読める。


 写真は分からない。


 ただ、仕事として同じことを何度もやり直しているのは分かった。


「……大変だな」


 腕時計を見る。


 会社へ戻る時間にはまだ余裕がある。


 もう少し見ていても問題はなかったが、見物人になる趣味もない。


 歩き出そうとしたところで、


「はい、一回休憩しましょう」


 スタッフの声が飛んだ。


 凛がカメラの前から外れる。


 誰かに声をかけられて振り返りながら、歩道側へ二歩ほど下がった。


 そのまま直人の進行方向へ出てくる。


「危ない」


「え?」


 直人が足を止める。


 凛も直前で気づき、身体を引いた。


「すみません!」


「大丈夫です」


「後ろ見てなくて……」


「ぶつかってないので」


 凛が一度頭を下げた。


 近くで見ると、やはりInstagramで見た顔だった。


 直人は数秒迷ってから口を開く。


「水城凛さんですよね」


 凛が顔を上げた。


「はい」


「Instagramで見たことあります」


「あ、本当ですか?」


 少し意外そうな表情になる。


「広告も出てましたよね」


「最近のですか?」


「たぶん。服の」


「ああ」


 凛が笑った。


「ありがとうございます」


「別に俺が出したわけじゃないですけど」


「分かってます」


 言ってから、凛が小さく笑う。


 直人も、自分の返しが少しおかしかったことには気づいた。


「凛ちゃん、そろそろお願いします」


 スタッフから声が飛ぶ。


「はい!」


 凛が返事をする。


 それから直人へ向き直った。


「すみません。戻ります」


「仕事中ですもんね」


「はい。じゃあ」


 軽く頭を下げて、スタッフの方へ戻っていく。


 直人もその場を離れた。


 十数歩歩いたところで、一度だけ振り返る。


 凛はもうカメラの前に立っていた。


 先ほどまで直人と話していた顔とは違う。


「切り替え早いな」


 それだけ呟いて、駅へ向かった。



 会社へ戻ってからは、特に変わったこともなかった。


 メールを返す。


 資料を確認する。


 電話を一本入れる。


 夕方になれば退勤する。


 水城凛と偶然会ったことも、その頃には意識の端へ追いやられていた。



 夜。


 駅から自宅へ向かう途中、直人はコンビニへ寄った。


 昼間の撮影場所から駅へ戻る途中にもある店だった。


 冷蔵棚からペットボトルのコーヒーを取り、弁当の棚へ移る。


 そのとき、横から声がした。


「あ」


 直人はそちらを見る。


 帽子を被った女性が立っていた。


 昼間とは服も髪型も違う。


 一瞬、誰か分からなかった。


「……ああ」


「その反応、今分かってなかったですよね?」


「ちょっと」


「ひどい」


 水城凛だった。


 撮影用の服ではなく、パーカーに細身のパンツ。


 手には、おにぎりと水。


「撮影終わったんですか?」


「さっき終わりました」


「結構長いんですね」


「今日はまだ早い方ですよ」


「昼からやってましたよね」


「朝からです」


「もっと長かった」


 凛が笑った。


「そういえば」


 少し首を傾げる。


「お名前、聞いてなかったですよね」


「神谷です」


「神谷さん」


「はい」


「私、水城です」


「それは知ってます」


「あ、そうだった」


 昼間と似たやり取りになって、二人とも少し笑った。



 レジへ向かう。


 直人の前に凛が並んだ。


 購入したのは、おにぎり二つと水、それから小さなカップスープだった。


 モデルの食事というものを勝手に想像していた直人には、少し意外だった。


 凛が先に店を出る。


 直人も会計を済ませて外へ出ると、入口の少し先に凛がいた。


 スマートフォンを確認している。


 直人に気づいて顔を上げた。


「神谷さん、こっちなんですか?」


「家が」


「私、駅戻るんです」


「逆ですね」


「ですね」


 それなら、ここで別れるだけだ。


 そう思った。


 ただ、凛はすぐには歩き出さなかった。


 直人も急いで帰る理由はない。


「今日の撮影、何の撮影だったんですか?」


「アパレルのウェブ広告です」


「じゃあ、そのうち見れるんですね」


「使われれば」


「使われないこともあるんですか?」


「ありますよ」


 凛は当たり前のように答えた。


「撮ったけど別のカットになったり、企画自体変わったり。いっぱい撮って、ほとんど使われないこともあります」


「無駄じゃないですか」


 口にしてから、少しだけ言い方が悪かったかと思う。


 凛は気を悪くした様子もなく笑った。


「そう見えるかもしれないですね」


「本人は思わないんですか?」


「思うときもありますよ。今日、何時間やったんだろって」


「じゃあ嫌にならない?」


「嫌になることと、辞めたいことは別じゃないですか?」


 直人は少し黙った。


 その言葉に覚えがあった。


「前に」


「はい?」


「オーディション落ちたって投稿してましたよね」


 凛の目が少し大きくなる。


「そこまで見てたんですか?」


「たまたま」


「絶対それ、便利な言葉ですよね」


「本当にたまたまです」


「はいはい」


 凛が少し照れたように笑った。


「ああいうの、普通に書くんですね」


「落ちたことですか?」


「はい。受かった仕事だけ載せた方がよくないですか?」


「そうかもしれないですけど」


 凛は手に持ったコンビニ袋を軽く揺らした。


「別に、落ちたの恥ずかしいことじゃないので」


「でも、仕事取れなかったってことですよね」


「そうです」


「何回も続いたら?」


「落ち込みます」


 即答だった。


 直人は少し意外に思う。


「そこは普通なんですね」


「何だと思ってるんですか」


「もっと前向きなこと言うのかと」


「落ちた日に前向きでいられる人、そんなにいないですよ」


「投稿は前向きでしたよね」


「あれ、ちょっと時間経ってから書いたので」


「なるほど」


 凛が笑った。


 その方が、直人には納得できた。


「でも」


 凛が続ける。


「失敗したからって、やりたくなくなるわけじゃないんですよ」


「落ちたら?」


「また次です」


「また落ちたら?」


「また次」


「何回も?」


「何回も」


「いつまで?」


 凛は少し考えた。


 夜の道路を一台の車が通り過ぎる。


 その音が遠ざかってから、凛は答えた。


「やりたくなくなるまでは、ですかね」


「……」


「変ですか?」


「いや」


 直人はペットボトルのラベルへ目を落とした。


「俺なら、もっと簡単な方法探すかもしれないです」


「何の?」


「同じくらい稼げる仕事とか。上手くいく方とか」


「ああ」


「結果が出ないことを続けるの、効率悪いじゃないですか」


「神谷さん、効率好きそうですね」


「悪いよりいい方がよくないですか?」


「それはそうなんですけど」


 凛は少し考えてから言った。


「モデルやりたいのに、効率いいから別の仕事するって、私にはちょっと違うんです」


「金を稼ぐなら同じですよね」


「お金だけなら」


 返事は早かった。


「じゃあ何でモデルなんですか?」


「やりたいから」


 あまりに単純な答えで、直人は一瞬黙った。


「それだけ?」


「駄目ですか?」


「いや」


「神谷さんは、今の仕事やりたいんですか?」


「特に」


「好きでもない?」


「嫌いでもないです。得意ではありますけど」


「微妙」


「そうですね」


「じゃあ、何か他にやりたいことは?」


「ないです」


「即答ですね」


「聞かれたので」


 凛が少し笑った。


 直人も、自分の答えがずいぶん味気なく聞こえた。


 だが、嘘をつく理由もない。


「最近、何か楽しかったことは?」


 凛が聞く。


 直人は少し考えた。


「車買いました」


「いいですね」


「家も」


「家?」


「はい」


「すごいですね」


 凛が驚いた顔をする。


 直人はそれ以上説明しなかった。


 値段も。


 六億円のことも。


 わざわざ話す理由はない。


「買って、楽しかったですか?」


「買う前は」


「前?」


「買ったら普通になりました」


「早くないですか?」


「俺もそう思います」


 凛が笑う。


「じゃあ、また次に何か欲しくなるんじゃないですか?」


「たぶん」


「大変ですね」


「何が?」


「ずっと買い続けないといけない」


 冗談のような言い方だった。


 直人はすぐには返せなかった。


「水城さんって」


「はい?」


「変わってますね」


「神谷さんに言われたくないです」


「俺、そんな変です?」


「まだ二回しか会ってないので分からないですけど」


 凛は少し間を置く。


「普通ではなさそう」


「失礼だな」


「さっき私に言いましたよね」


「言いましたっけ」


「言いました」


「じゃあお互い様ですね」


「そういうことにしときます」


 二人とも笑った。



 凛がスマートフォンを見る。


「あ、そろそろ行かないと」


「電車?」


「はい」


 凛が袋を持ち直す。


「今日はありがとうございました」


「俺、何かしました?」


「話し相手」


「それだけ?」


「十分じゃないですか」


「まあ」


 凛は駅の方へ一歩進んでから振り返った。


「神谷さん」


「はい」


「仕事、得意なら、それはそれで結構すごいと思いますよ」


「何の話です?」


「やりたいことないって言ってたから」


「慰められてます?」


「違います」


「じゃあ何です?」


「分かんないです」


 凛自身が笑った。


「じゃあ、また」


「はい」


 その言葉を残して、駅の方へ歩いていく。


 直人はその後ろ姿を見送った。


 連絡先は知らない。


 聞こうとも思わなかった。


 昼に会った。


 夜にまた会った。


 それだけだ。


「……また、か」


 最後に残った言葉を思い出す。


 また会える保証などない。


 ふと。


 いつもの癖で問いが浮かびかけた。


 ――俺が、水城凛ともう一度会う確率。


「……」


 そこで考えるのをやめた。


 見ようと思えば見られる。


 低ければ、上げることもできる。


 佐伯美咲のときはそうした。


 だが今は、数字で確かめたいとは思わなかった。


 会うなら会う。


 会わないなら、それまで。


 そのくらいでいい。


 直人はコンビニの袋を持ち直し、家へ向かって歩き始めた。


 交差点の手前で、信号が赤になる。


 直人は立ち止まった。


 何もせず、青になるのを待つ。


 やがて信号が変わる。


 直人はそのまま、横断歩道を渡った。

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