第7話 手に入ったもの
金曜日。
神谷直人は、待ち合わせ場所の少し手前にG 63を停めた。
時間は約束の五分前。
歩道へ目を向けると、すぐに佐伯美咲の姿が見つかった。
スマートフォンを見ながら立っている。
直人は助手席側の窓を開けた。
「佐伯さん」
美咲が顔を上げる。
一度、直人を見る。
次に車を見る。
もう一度、直人を見る。
「……これ、神谷さんのですか?」
「そうです」
「嘘」
「何でですか」
美咲が近づいてきた。
「普通の営業マンがこれ乗ります?」
「普通かどうかは知らないですけど、俺のです」
「これ、すごい高いやつですよね?」
「結構しました」
「結構っていくら?」
「その辺はいいじゃないですか」
「急に濁す」
「乗らないんですか?」
「あ、乗ります」
美咲はまだ納得していない顔のまま、助手席へ乗り込んだ。
ドアを閉めても、しばらく車内を見回している。
「神谷さん、本当に何者なんですか?」
「営業です」
「それはもう聞きました」
「じゃあ答え同じです」
「絶対何か隠してる」
「悪いことはしてないですよ」
「そこまで疑ってないです」
美咲が笑った。
直人は車を出した。
予約していた店は、駅から少し離れた場所にあった。
前回のカフェより落ち着いた店だったが、直人が選んだ理由は単純だった。
駐車場がある。
口コミも悪くない。
それだけだ。
「神谷さんって、店選ぶとき何見るんですか?」
料理を待ちながら、美咲が聞いた。
「駐車場」
「そこ?」
「大事でしょ」
「雰囲気とか料理とかは?」
「口コミ見ました」
「デート向いてないなあ」
「これ、デートなんですか?」
美咲の動きが止まった。
「……違うんですか?」
「あ」
直人は一瞬だけ考えた。
「違うとは言ってないです」
「今、逃げましたね」
「営業なので」
「それ便利に使いすぎです」
美咲が呆れたように笑う。
その笑い方を見て、直人も少しだけ口元を緩めた。
食事中の会話は、前回とそう変わらなかった。
仕事。
会社。
最近見たもの。
休日の過ごし方。
美咲はよく話した。
ただ、一方的ではない。
直人が何か答えると、その答えについてまた聞いてくる。
「神谷さんって、お金持ってても生活変わらなそうですよね」
「何で急に」
「車見たからです」
「ああ」
「もっと遊んでそうなのに」
「遊んでますよ」
「何して?」
「車買ったり」
「それ買い物でしょ」
「違うんですか?」
「旅行とか行かないんですか?」
「移動が面倒です」
「海外とか」
「もっと面倒です」
「高級ホテル」
「寝るだけじゃないですか」
美咲が箸を置いた。
「……変な人」
「俺も少し思ってます」
美咲が声を出して笑った。
直人も、こういう時間が嫌いではなかった。
少なくとも今は。
食事を終えたあと、もう一軒だけ店へ入った。
美咲は酒を飲んだ。
直人は運転があるので、ノンアルコールの飲み物を頼んだ。
「神谷さん、酔ったらどうなるんですか?」
「普通ですよ」
「絶対普通じゃない」
「何でですか」
「ずっと真顔で変なこと言いそう」
「今と変わらないじゃないですか」
「自覚あるんだ」
時間が進む。
最初に会ったときより、沈黙が気にならなくなっていた。
話題が途切れても、無理に次を探す必要がない。
美咲もスマートフォンを見る。
直人もグラスへ手を伸ばす。
しばらくして、またどちらかが話し始める。
そのくらいの距離は楽だった。
店を出た頃には、日付が変わりかけていた。
「送ります」
「いいんですか?」
「そのために飲んでないので」
「優しいですね」
「タクシー代もったいないでしょ」
「私の?」
「佐伯さんの」
「神谷さん関係なくないですか?」
「確かに」
「台無し」
美咲が笑う。
車を走らせている途中、美咲が窓の外を眺めながら口を開いた。
「神谷さん、家この辺なんですか?」
「近いですよ」
「一人暮らし?」
「そうです」
「この車なら、家もすごそう」
「普通です」
「信用できない」
「本当に普通ですよ」
「タワマンとかじゃなくて?」
「持ってますけど、住んでないです」
美咲がゆっくり直人を見る。
「……今、何て?」
「タワマンは持ってます」
「住んでない?」
「はい」
「何で?」
「引っ越すの面倒なので」
数秒、美咲が黙った。
「意味分かんない」
「俺もたまにそう思います」
「見てみたいです」
「タワマン?」
「神谷さんが普通って言ってる方の家」
「何でそっちなんですか」
「気になるから」
直人は少しだけ考えた。
「別にいいですよ」
「いいんだ」
「見られて困るものないので」
十分ほど走り、いつものマンションへ着いた。
駐車場にG 63を入れる。
車を降りた美咲は、建物を見上げた。
それから車を見る。
もう一度、建物を見る。
「……本当に普通ですね」
「だから言ったでしょ」
「いや、この車からここ出てくるの違和感すごいです」
「前から住んでるので」
「タワマン持ってるのに?」
「ありますね」
「何でここに帰ってくるんですか」
「楽だから」
「神谷さんのお金の使い方、本当に分からない」
「俺もです」
階段を上がる。
部屋へ入ると、美咲は玄関から室内を見回した。
「普通」
「何回言うんですか」
「安心しました」
「何がです?」
「神谷さんにも普通の部分あるんだなって」
「大体普通ですよ」
「車と不動産以外?」
「それも買っただけです」
「買っただけって金額じゃないんですよ」
途中のコンビニで買った飲み物をテーブルへ置く。
美咲はソファへ座った。
「意外と物少ないですね」
「増やすと面倒なので」
「全部面倒なんですね」
「大体」
「彼女とかいないんですか?」
「いないです」
「今までずっと?」
「今はいないです」
「モテそうなのに」
「営業トークですか?」
「私、営業じゃないです」
「じゃあ信用します」
「簡単ですね」
美咲が笑う。
そのあと、少しだけ沈黙が落ちた。
カフェにいたときとは違う。
車の中とも違う。
夜。
二人きり。
相手の家。
美咲も帰る時間を気にする様子はなかった。
直人にも、その意味くらいは分かる。
ふと。
問いが頭に浮かんだ。
――このあと、佐伯美咲と――
「……」
そこで止めた。
問いを完成させなければ、数字も出ない。
「どうしたんですか?」
「いや」
「今、何か考えてました?」
「考えてました」
「何を?」
「言わないです」
「余計気になる」
「大したことじゃないですよ」
直人は飲み物を一口飲んだ。
見ようと思えば見られる。
数字が低ければ、上げることもできる。
再会する確率は、すでに99.9%へ変えた。
それで今日ここまで来た。
だからといって。
この先まで数字で決める必要はない。
美咲が帰るなら、それでいい。
残るなら、それも美咲が決めればいい。
直人はそれ以上、確率のことを考えなかった。
「神谷さん」
「はい」
「……ちょっと緊張してます?」
「してないです」
「今の間で説得力なくなりました」
「佐伯さんの気のせいです」
「じゃあそういうことにしておきます」
美咲が笑った。
会話が途切れる。
少し前まであった距離が、いつの間にか近くなっていた。
直人は数字を見なかった。
翌朝。
目を覚ますと、隣に美咲がいた。
見慣れた天井。
見慣れた部屋。
その中に、見慣れない女性がいる。
美咲はまだ眠っていた。
直人は枕に頭を乗せたまま、昨夜までのことを思い返した。
カードケースを拾った。
コーヒーを飲んだ。
LINEを交換した。
そして。
もう一度二人で会う確率を、34.8%から99.9%へ変えた。
そこから先の数字は見ていない。
だが。
もし34.8%のままだったら。
美咲は今、ここにいただろうか。
「……」
分からない。
分からないから、少し気になる。
ただ、今さら元の確率へ戻して確かめることもできない。
「おはようございます」
横から声がした。
美咲が目を開けていた。
「おはようございます」
「起きてました?」
「少し前に」
「何時ですか?」
直人がスマートフォンを見る。
「九時過ぎです」
「うわ……今日休みでよかった」
美咲が布団へ顔を埋める。
「仕事だったら起こしてますよ」
「そこは優しいんですね」
「遅刻されたら後味悪いので」
「相変わらず言い方」
美咲は少し笑った。
「朝ごはん行きません?」
「今から?」
「お腹空きました」
「いいですよ」
昼前。
二人は駅から少し離れたカフェにいた。
美咲がフレンチトーストを切りながら、向かいの直人を見る。
「昨日の今日でこういうの、ちょっと変な感じですね」
「何がです?」
「朝起きたら人の家にいて、そのまま二人でご飯食べてるの」
「佐伯さんが行こうって言ったんじゃないですか」
「そうですけど」
「じゃあ普通では?」
「神谷さん、たまに感情ないですよね」
「ありますよ」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
美咲が笑う。
直人もコーヒーを飲みながら、少しだけ口元を緩めた。
気まずくはない。
昨夜のことを後悔しているわけでもない。
美咲と話すのも嫌いではない。
それでも。
昨日までと人生が大きく変わったような感覚はなかった。
「来週って休みあります?」
美咲が聞いた。
「ありますけど」
「じゃあ、またご飯行きません?」
「来週?」
「はい」
直人はカップを置いた。
「予定確認しないと分からないです」
「分かりました」
美咲は特に気にした様子もなく、フレンチトーストを口へ運ぶ。
「もう少し暖かくなったら、どこか行くのもいいですね」
「どこです?」
「温泉とか」
「泊まり?」
「日帰りでもいいですけど」
「へえ」
「興味なさそう」
「行ったことはありますよ」
「そういう問題じゃないんです」
美咲が笑う。
直人も笑った。
嫌ではない。
ただ。
来週。
その次。
旅行。
予定を合わせる。
店を探す。
どこへ行くか決める。
美咲が話す未来を頭の中で並べていくと、ほんの少しだけ重く感じた。
午後。
駅の近くまで美咲を送った。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
「また連絡します」
「はい」
美咲がドアを開ける。
だが、降りる前に一度振り返った。
「神谷さん」
「はい?」
「昨日のこと、後悔してます?」
直人は美咲を見る。
「してないですよ」
「ならよかったです」
美咲はそれだけ言って車を降りた。
ドアが閉まる。
外から軽く手を振る。
直人も小さく手を上げた。
美咲の姿が人混みの中へ消えてから、車を出した。
信号で止まる。
直人はハンドルへ手を置いたまま、さっきの会話を思い返した。
美咲と付き合う。
その選択肢は、たぶんある。
嫌われてはいない。
直人も嫌いではない。
条件だけ並べれば、何も問題はない。
ふと。
問いが浮かんだ。
――佐伯美咲と交際した場合、今後一年以内に自分がその関係を面倒だと思う確率。
数字が現れる。
――81.3%。
「高いな」
思わず呟いた。
数字を見つめる。
これを10%まで下げれば。
あるいは0.1%まで。
自分は美咲との関係を面倒だと思わなくなるのだろうか。
指を伸ばせば、できる。
「……」
だが、手は動かなかった。
相手と出会う確率。
もう一度会う確率。
そこへ触れることと。
自分が何を感じるかまで変えることは、同じには思えなかった。
「それは違うか」
信号が青になる。
直人は数字を消した。
自分が何を好きで。
何を嫌だと思い。
何を面倒だと感じるのか。
そこまで数字で整え始めたら。
何を基準に自分で決めたと言えるのか、分からなくなる。
その後も、美咲とのLINEは続いた。
『今日の会議長すぎました』
『お疲れさまです』
『二時間やって何も決まらなかったです』
『会議する意味あったんですか?』
『それ言ったら怒られます』
『じゃあ言わない方がいいですね』
『神谷さん絶対会社員向いてないですよね』
『今会社員なんですけど』
『奇跡』
別の日には、仕事の話が来た。
『この前言ってた「営業が客のどこで止まってるか見る」ってやつ、今日やってみました』
『どうでした?』
『営業によって説明全然違いました』
『じゃあ資料だけの問題じゃなさそうですね』
『無料で仕事させてません?』
『してますね』
『請求書送らないでくださいよ』
『考えときます』
そのやり取りを見て、直人は少し笑った。
美咲との連絡が嫌なわけではない。
むしろ、このくらいなら楽だった。
ただ。
数日後。
『今週の土曜どうです?』
というメッセージが届いたとき。
返信する指が止まった。
予定は空いている。
会おうと思えば会える。
だが。
また食事をして。
次の予定を決めて。
その次も会って。
いつの間にか毎週会うのが普通になり。
旅行へ行き。
連絡を返す時間まで気にする。
「……」
美咲が嫌なわけではない。
たぶん。
関係そのものが、面倒なのだ。
81.3%。
あの数字を思い出す。
直人は一度スマートフォンを伏せた。
しばらくして、もう一度手に取る。
嘘をついて断ることもできる。
仕事。
予定。
体調。
理由はいくらでも作れる。
だが、それを続ける方が余計に面倒だった。
『土曜は空いてます』
送る。
すぐに返信が来る。
『じゃあ会います?』
直人は画面を見たまま、少し考えた。
それから文字を打つ。
『佐伯さん』
『はい』
『この前のことを後悔してるわけじゃないです』
少し間が空いた。
『急にどうしました?』
『ただ、俺、誰かと毎週会ったり、先の予定を決めたりするのがあまり得意じゃないです』
送信する。
文字だけで見ると、かなり冷たかった。
それでも。
曖昧に会い続けるよりはいい。
しばらくして返信が来た。
『私が嫌とかじゃなくて?』
『それは違います』
『じゃあ付き合いたくないってことですか?』
「……」
直人は画面を見た。
付き合いたいか。
付き合いたくないか。
今までなら、何となく答えを濁していたかもしれない。
『たぶん、今は付き合いたいと思ってないです』
送った。
既読がつく。
返信はすぐには来なかった。
数分。
直人はスマートフォンを置いた。
怒らせたかもしれない。
それなら、それで仕方がない。
そう思った頃、画面が光った。
『分かりました』
それだけだった。
さらに少しして、もう一通。
『神谷さん、こういうの誤魔化して適当に会い続けるタイプかと思ってました』
『ひどいですね』
『ちょっとだけ見直しました』
『ちょっとだけですか』
『かなりにすると調子乗りそうなので』
直人は思わず笑った。
『私もこの前のこと後悔してないです』
『はい』
『でも普通に次も会うものだと思ってました』
『すみません』
『謝らなくていいです』
続けて届く。
『じゃあ無理に恋愛っぽくするのやめましょう』
『それは助かります』
『その言い方ちょっと腹立つ笑』
『すみません』
『また仕事の愚痴くらい送ります』
『それくらいなら』
『また腹立つ』
最後に、笑っているスタンプが届いた。
直人はスマートフォンをテーブルへ置いた。
それから、美咲との連絡は少しずつ減った。
完全になくなったわけではない。
広告を見かければ直人が送ることもあった。
美咲から会社の愚痴が届くこともある。
ただ、毎日ではなくなった。
次に会う約束もしなかった。
それで困ることもなかった。
ある夜。
帰宅した直人は腕時計を外し、テーブルへ置いた。
ソファへ座る。
静かな部屋。
視線の先には、何も変わっていない見慣れた家具がある。
G 63。
時計。
スーツ。
タワーマンション。
そして、美咲。
並べるようなものではない。
そんなことは分かっている。
それでも。
自分の中には、どこか似た感覚があった。
手に入るのか。
自分にもできるのか。
それを確かめたかった。
三千万円の車を買えるのか。
一億を超える部屋を買えるのか。
女性から好意を向けられるのか。
人との縁まで、確率を変えれば自分の方へ引き寄せられるのか。
確かめる。
結果が出る。
そこで興味が薄くなる。
「……俺、欲しいわけじゃないのか」
誰もいない部屋で、言葉が漏れた。
欲しいものを手に入れたいというより。
手に入れられることを確認したい。
その方が近いのかもしれない。
少し前までなら、欲しくても手が届かないものはいくらでもあった。
今は違う。
金がある。
確率も変えられる。
大抵のものには手が届く。
だからこそ。
手に入れたあとに何が残るのかが、以前よりはっきり見える。
直人はベッドへ横になった。
スマートフォンを手に取る。
何となくInstagramを開き、画面を送っていく。
途中で、水城凛の投稿が表示された。
撮影現場らしい写真だった。
スタッフらしい人影の向こうで、凛が椅子に座っている。
華やかな広告写真とは違う。
仕事の途中を誰かが撮っただけの一枚だった。
直人は数秒眺めた。
数字は見なかった。
何かを確かめようとも思わなかった。
ただ、その写真をもう一度だけ見てから。
静かに画面を閉じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます