第6話 手に入るもの
仕事を終え、駅へ向かっていたときだった。
神谷直人は、歩道の端に落ちている黒いカードケースに気づいた。
そのまま通り過ぎかけて、二歩ほど進んだところで足を止める。
「……」
戻って拾い上げる。
中には何枚かのカードと、社員証が入っていた。
佐伯美咲。
二十七歳。
化粧品メーカーの社名と、顔写真。
直人は顔を上げ、周囲を見回した。
夕方の駅前は人が多い。
スーツ姿の会社員。
学生。
買い物袋を提げた女性。
その中で、数メートル先に立ち止まり、鞄の中を何度も探っている女性がいた。
肩より少し長い髪。
社員証の写真と同じ顔だった。
「すみません」
声をかける。
女性が振り返った。
「はい?」
「これ、落としませんでした?」
カードケースを見せた瞬間、表情が変わった。
「えっ」
慌てて鞄へ手を入れ、それから直人の手元を見た。
「あ……私のです」
「やっぱり」
「どこにありました?」
「少し向こうの歩道です」
「全然気づかなかった……」
受け取ったカードケースを開き、中身を確認する。
社員証。
クレジットカード。
何枚かのポイントカード。
全部そろっていたらしい。
美咲は目に見えて肩の力を抜いた。
「ありがとうございます。本当に助かりました」
「いえ」
「これ、なくしてたら結構まずかったです。社員証もカードも入ってるし……」
「見つかってよかったですね」
直人はそれだけ言って、駅へ向かおうとした。
「あの」
呼び止められる。
振り返ると、美咲が少し迷うようにこちらを見ていた。
「もし時間あったら、何かお礼させてもらえません?」
「お礼?」
「コーヒーくらいですけど」
「別にいいですよ」
「私がよくないんです」
即答だった。
直人は一瞬考える。
急いで帰る理由もない。
「じゃあ、コーヒーだけ」
「よかった」
美咲が笑った。
駅前のカフェへ入った。
向かい合って座り、注文を済ませる。
「改めて、本当にありがとうございました」
「もう三回くらい聞きました」
「だって本当に困るところだったんですよ」
「じゃあ四回目どうぞ」
「ありがとうございます」
素直に返されて、直人は少し笑った。
「神谷直人です」
「あ、私、佐伯美咲です」
「知ってます」
「え?」
「社員証」
「ああ」
美咲が自分の額へ手を当てた。
「そうだった。最初から名前見られてるんだった」
「見ないと本人か分からないので」
「確かに」
運ばれてきたコーヒーを一口飲む。
会話を始めたのは美咲の方だった。
「神谷さん、仕事帰りですよね?」
「そうです」
「何されてるんですか?」
「営業です」
「やっぱり」
「何がですか?」
「人と話すの慣れてそうだから」
「今、ほとんど佐伯さんが喋ってますけど」
「あれ?」
美咲が笑う。
「じゃあ営業っぽくないかも」
「どっちなんですか」
「ちょっと胡散臭い感じはあります」
「初対面でそれ言います?」
「カードケース拾ってくれた人だから、これくらい言っても大丈夫かなって」
「基準が分からないです」
話してみると、想像していたよりよく喋る女性だった。
美咲は化粧品メーカーの商品企画を担当しているらしい。
新商品の中身だけではない。
価格。
パッケージ。
販促。
営業へ渡す資料まで関わることがあるという。
「商品企画って、そこまでやるんですね」
「会社によると思いますけど、うちは結構やります」
「大変そうですね」
「それで営業とよく揉めるんですよ」
美咲はコーヒーカップを両手で包みながら苦笑した。
「企画は『商品の良さが伝わってない』って言うし、営業は『そもそも説明しづらい』って言うし」
「よくあるやつですね」
「神谷さんの会社もあります?」
「あります」
「どっちが悪いと思います?」
直人は少し考えた。
「見てないから分からないです」
「営業の味方しないんですね」
「営業が悪いこともあるので」
「じゃあ神谷さんなら、どうするんですか?」
「営業が実際に何を話して、客がどこで止まってるか見ます」
「資料じゃなくて?」
「資料を直す前に」
美咲が首を傾げる。
「何でですか?」
「売れない理由が資料なのか、商品なのか、営業なのか。そもそも狙ってる客が違うのか。それが分からないので」
「……」
「理由が分からないまま資料だけ変えても、当たればラッキーくらいじゃないですか」
美咲は数秒黙った。
「今の、ちょっと仕事できる人っぽかったです」
「一応仕事してるので」
「普段やる気なさそうなのに」
「余計なことしないだけです」
「それ、覚えておきます」
「何をですか?」
「売れない理由を先に見る」
「普通のことですよ」
「その普通が、会社の中だと意外とできないんですよ」
美咲はそう言って笑った。
直人はそれ以上、仕事の話を広げなかった。
問題を見てもいない会社について、分かったようなことを言えるほど材料はない。
その後も会話は途切れなかった。
仕事。
住んでいる場所。
最近見た映画。
休日に何をしているか。
直人は、自分から次々に話題を出す方ではない。
それでも、美咲が話したことに質問を返していれば自然と続いた。
一時間ほど経った頃、美咲が時計を見る。
「ごめんなさい。お礼するつもりが、普通に喋ってました」
「コーヒー奢ってもらったので十分です」
「本当に?」
「カードケース拾っただけですし」
「神谷さんって、思ったよりいい人ですね」
「思ったより?」
「最初ちょっと怖かったです」
「よく言われます」
「やっぱり言われるんだ」
席を立つ。
店を出て、駅前まで歩いたところで、美咲がスマートフォンを取り出した。
「あの、LINE交換しません?」
直人は少しだけ意外に思った。
「いいですよ」
「嫌なら断ってくださいね」
「嫌なら断ってます」
「そういう言い方する人なんですね」
QRコードを読み取る。
画面に名前が追加された。
佐伯美咲。
「じゃあ、今日は本当にありがとうございました」
「はい」
「今度はカードケース落とさないようにします」
「次は拾わないです」
「冷たっ」
美咲が笑いながら手を振る。
直人も軽く手を上げた。
そのまま美咲は駅へ向かい、人混みの中へ消えていった。
直人も歩き出す。
数十メートルほど進んだところで、ふと思った。
――今後一か月以内に、佐伯美咲ともう一度二人で会う確率。
数字が浮かぶ。
――34.8%。
「そんなもんか」
低すぎるわけではない。
LINEは交換した。
話も合わなかったわけではない。
それでも、およそ三回に一回。
連絡先を交換して、そのまま何も起きない。
それも珍しいことではないのだろう。
直人は歩きながら数字を見る。
祐介の給料を見たときは、触れなかった。
他人の人生を勝手に動かすのは、何か違うと思った。
だが。
これは給料でも、仕事でもない。
人生が決まるようなことでもない。
もう一度会う。
ただ、それだけだ。
「……」
指を伸ばす。
34.8。
51.1。
67.6。
82.4。
そこで止まった。
十分に高い。
普段なら、この辺りで指を離している。
直人は数字を見た。
なぜ、そこで止める必要があるのか。
別に理由はない。
もう一度会うだけだ。
そう思った。
指を動かす。
88.9。
94.3。
そして。
――99.9%。
指を離した。
数字が固定される。
「……これで会うのか」
美咲に強く惹かれたわけではない。
付き合いたいと思ったわけでもない。
ただ。
これまで動かしてきたのは、くじや仕事、信号のようなものだった。
人との縁まで同じように動かせるのか。
それを確かめてみたかった。
直人は数字を消した。
少なくとも、そのときは。
それだけのつもりだった。
その日の夜。
スマートフォンが震えた。
『今日はありがとうございました!』
美咲からだった。
『こちらこそ。コーヒーごちそうさまでした』
送る。
すぐに既読がついた。
『ちゃんと帰れました?』
『帰れました』
『返信が業務連絡みたい』
『帰宅しました。以上です』
『もっと業務連絡になった笑』
直人は少し笑った。
翌日も、美咲からメッセージが来た。
『今日仕事ですか?』
『仕事です』
『私は残業確定です』
『頑張ってください』
『他人事すぎません?』
『他人なので』
『ひどい笑』
そこで終わるかと思ったが、夜になるとまた届いた。
『終わりました』
『お疲れさまです』
『今日はちょっと人間味ある』
翌々日。
今度は直人から、美咲がカフェで話していた新商品の広告を見つけて送った。
『これですか?』
『そう! よく覚えてましたね』
『話してたので』
『意外とちゃんと聞いてる』
『営業なので』
『やっぱ仕事じゃん』
やり取りは続いた。
朝から晩まで連絡を取り合うようなものではない。
数時間空くこともある。
既読だけついて、そのまま終わることもある。
それでも、翌日になればどちらかがまた何かを送った。
直人にとっては、そのくらいの距離がちょうどよかった。
美咲が面倒だと思うこともない。
逆に、メッセージが来れば少しだけ画面を見る時間が長くなる。
その程度だった。
数日後。
仕事を終えた直人は、電車の中でスマートフォンを見ていた。
美咲とのトーク画面には、昼に届いた会社の愚痴が残っている。
『企画会議二時間やって何も決まりませんでした』
それに、
『会議した意味あったんですか?』
と返したところで一度終わっていた。
車内が揺れる。
直人が画面を閉じようとしたとき、新しいメッセージが届いた。
『そういえば』
続けて、もう一通。
『今週どこか空いてません?』
「……」
直人の指が止まった。
一か月以内に、もう一度二人で会う確率。
34.8%。
それを、自分は99.9%にした。
まだ会ったわけではない。
ただ。
美咲の方から届いた短い誘いを見て、直人は少しだけ口元を緩めた。
『金曜なら空いてます』
送信する。
間を置かずに既読がついた。
『じゃあ金曜で』
直人はその返信を眺めた。
数字は出さなかった。
もう、見る必要はなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます