第5話 欲しいもの

 翌週。


 神谷直人は、スマートフォンの銀行アプリを開いたまま、しばらく画面を見ていた。


 残高は、六億円を大きく超えている。


「……増えすぎだろ」


 何度見ても数字は変わらない。


 数日前に買った宝くじ。


 その一等当選金、六億円が振り込まれていた。


 もちろん、偶然ではない。


 購入したあと。


 ――この宝くじが一等に当選する確率。


 そう問いかけた。


 表示された数字は、ほとんどゼロに近かった。


 それを。


 ――99.9%。


 まで上げた。


 あとは結果を待っただけだ。


 当選番号を確認したときも、スクラッチで一万円を当てたときほど驚かなかった。


 むしろ。


「やっぱり当たるんだな」


 その感想の方が近かった。


 一番くじ。


 スクラッチ。


 営業。


 日常の細かな出来事。


 そして、六億円。


 もう偶然で片づけるには無理がある。


 自分には、本当に確率を変える力がある。


 その結果が、銀行口座に六億円という形で残っていた。


 普通なら、人生が変わったと思うのだろう。


 会社を辞める。


 旅行へ行く。


 家を買う。


 好きなことだけして暮らす。


 直人も、当選する前には似たようなことを考えていた。


 だが。


 実際に金が入ってみると、朝は普通に起きた。


 普通に会社へ行った。


 仕事をして、帰ってきた。


 通勤電車の中で口座残高を確認しても、昨日までの生活が突然別物になるわけではない。


「……とりあえず、何か買うか」


 金を持っている実感が薄いなら、使ってみればいい。


 そう考えた。



 最初に向かったのは、輸入車のディーラーだった。


 休日の昼。


 ガラス張りのショールームに、磨き上げられた車が並んでいる。


 直人が足を止めたのは、その中でもひときわ大きな黒い一台だった。


 Mercedes-AMG G 63。


「でかいな」


 四角いボディ。


 高い車高。


 価格はオプションを含めれば三千万円近い。


 これまでの直人なら、値札を見た時点で候補から外していた。


 車に三千万円。


 意味が分からない。


 移動できれば、車としての役割は果たす。


 ずっとそう考えていた。


「ご覧になりますか?」


 営業担当に声をかけられる。


「これ、買えます?」


「こちらの仕様ですと、在庫車をご案内できる可能性があります」


「じゃあ、お願いします」


 商談席へ移った。


 支払い方法の説明が始まったところで、直人は口を挟んだ。


「ローンは大丈夫です。一括で払います」


「……承知しました」


 一瞬だけ、担当者の声が変わった。


 その反応を見て、少しだけ面白いと思った。


 数日前まで、自分も三千万円の車を買う人間を別世界の住人だと思っていた。


 今は、自分がその側の席に座っている。


 不思議なのは、そのことに対して思ったほど高揚していないことだった。



 それから数週間。


 納車された黒いG 63の運転席へ座る。


 ドアを閉めると、外の音が遠くなった。


 エンジンをかける。


 低い音が車内へ響いた。


「……これはちょっといいな」


 思わず笑った。


 アクセルを踏む。


 今まで乗っていた車とは、何もかも違う。


 視線が高い。


 加速も違う。


 ハンドルを握ったときの感触まで違って感じる。


 信号待ちで隣に停まった車の運転手が、一度こちらを見た。


 それにも気づいた。


 高い車を買う人間が、なぜ高い車を欲しがるのか。


 少しだけ分かった気がした。


 しばらく走ると、前方に青信号が見えた。


 距離を考えると、途中で変わりそうだった。


 何となく問いかける。


 ――この信号が、俺が通過するまで青である確率。


 ――12.8%。


「低いな」


 数字へ指を伸ばす。


 ――76.0%。


 そこで止めた。


 そのまま走る。


 信号は変わらなかった。


 交差点を抜けた直後、バックミラーの中で黄色へ変わる。


「……便利」


 呟いて、少し笑った。


 三千万円近い車を買って。


 六億円を持って。


 やっていることは、信号に引っかからないようにすることだった。



 時計も買った。


 以前なら入ることすらなかった店で、百万円を超えるものを一本選んだ。


 スーツも、既製品ではなくオーダーにした。


 生地を選び、採寸され、シャツと靴も合わせる。


 少し前なら、価格を見て何日か迷っていたようなものを、今はその場で決められる。


 最初のうちは、それが楽しかった。


 ただ。


 時計は数日で、時間を見る道具になった。


 スーツも会社へ着ていけば、ただの仕事着だった。


 G 63も、一週間もすれば駐車場に置かれている光景に慣れた。


「……そんなもんか」


 人間は慣れる。


 分かってはいた。


 それでも、想像していたより早かった。



 それなら。


 もっと大きなものならどうだろう。


 直人は不動産会社を訪れた。


 紹介された物件の中から、都心のタワーマンションを内見する。


 高層階。


 広いリビング。


 大きな窓。


 昼間でも、遠くまで街が見渡せた。


「こちらが一億四千八百万円になります」


 担当者が言った。


「へえ」


「この階ですと、現在ご紹介できるのはこちらのお部屋だけですね」


 直人は窓際まで歩いた。


 下を見る。


 車も、人も、小さい。


 夜になれば、もっと綺麗なのだろう。


 以前なら、一億四千八百万円という金額だけで現実味がなくなっていた。


 今は違う。


 払える。


 ただ、それだけだった。


「これにします」


 担当者が直人を見る。


「ご購入ということでよろしいでしょうか」


「はい」


「承知しました。では、資金確認を含めて今後のお手続きを――」


 説明が始まる。


 もう、相手が驚くかどうかには興味がなかった。



 車とは違い、不動産の契約には時間がかかった。


 書類。


 説明。


 確認。


 署名。


 印鑑。


 金があれば何でも一瞬で終わるわけではないらしい。


「面倒だな」


 何度目かの書類を書きながら、直人は呟いた。


 担当者が苦笑する。


「不動産ですので、どうしても確認事項が多くて」


「ですよね」


 一億四千八百万円を払うことより。


 何枚もの書類を書くことの方が面倒だった。



 さらにしばらくして。


 引き渡しを終えた夜。


 直人は、自分のものになった部屋に一人で立っていた。


 窓の向こうには、街の明かりが広がっている。


「……すごいな」


 部屋の照明を消してみる。


 夜景がさらに鮮明になった。


 高い場所から見下ろす東京は、確かに綺麗だった。


 スマートフォンで一枚だけ写真を撮る。


 ソファを置くなら、この辺り。


 テレビは壁際。


 ベッド。


 テーブル。


 冷蔵庫。


 必要なものを考えているうちに、急に面倒になった。


「家具、全部買うのか」


 今の部屋から荷物も運ばなければならない。


 引っ越し業者。


 住所変更。


 各種手続き。


 生活用品。


「……別に今日じゃなくていいか」


 結局。


 何もない部屋の電気を消し、鍵をかけた。


 G 63に乗る。


 向かった先は、新しく買ったタワーマンションではない。


 今まで住んでいるマンションだった。



 部屋へ入る。


 靴を脱ぐ。


 見慣れた狭さ。


 見慣れた家具。


 見慣れた天井。


 テーブルの上には、朝飲んだコーヒーの空き容器が残っている。


「こっちの方が楽だな」


 一億四千八百万円の部屋を手に入れた日の夜に。


 直人は、何年も住んでいる普通のマンションのベッドへ寝転んだ。


 自分でも少しおかしいとは思う。


 ただ。


 別に困ってはいなかった。



 スマートフォンを手に取る。


 六億円を手に入れた。


 三千万円近い車を買った。


 高い時計。


 スーツ。


 タワーマンション。


 以前なら簡単には手に入らなかったものが、次々に自分のものになった。


 欲しいと思う。


 買う。


 手に入る。


 それだけだった。


「……」


 大げさに虚しいわけではない。


 後悔もしていない。


 ただ。


 手に入れる前に想像していたほど、何かが変わった感じもしなかった。


 何となくInstagramを開く。


 おすすめ欄を眺める。


 数日前から、ときどき見るようになったアカウントがあった。


 水城凛。


 新しい投稿が一件増えている。


 夜の駅のホームを撮った写真だった。


 端に、紙コップが少しだけ写っている。


 写真の下には短い文章が添えられていた。


『今日はだめでした。悔しい。また次。』


「……」


 直人は指を止めた。


 もう一度読む。


 今日はだめだった。


 悔しい。


 それでも、また次。


「何でだろうな」


 独り言が漏れた。


 投稿を少し遡る。


 撮影。


 オーディション。


 仕事へ向かう途中らしい写真。


 上手くいった日もあれば、何も書かれていない日もある。


 モデルになりたいから続けている。


 仕事が好きだから。


 たぶん、それだけの話なのだろう。


 直人には、いまいちその感覚が分からなかった。


 自分なら。


 上手くいかない。


 金にならない。


 面倒になった。


 そうなれば、別の方法を探す。


 今ならなおさらだった。


 成功する確率を上げられる。


 失敗する確率を下げられる。


 金なら、もうある。


 やりたくないことを続ける理由は、以前よりずっと少ない。


 それなのに。


 水城凛は、だめだったと書いている。


 悔しいと書いている。


 そして、また次、と続けている。


 直人は画面を見たまま、しばらく動かなかった。


 G 63を眺めていた時間より。


 新しい時計を腕につけていた時間より。


 一億四千八百万円の夜景を見ていた時間より。


 その短い文章を読んでいる時間の方が長かった。


 やがてスマートフォンを伏せる。


 見慣れた部屋の天井を見上げた。


 欲しいものなら。


 たぶん、これからほとんど手に入る。


 では。


 手に入れたあとも欲しいと思えるものは、どれくらいあるのだろう。


 直人は、その答えを確率で確かめようとは思わなかった。

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