第4話 死ぬ確率
土曜日の朝。
神谷直人はソファに座り、コンビニで買ってきたコーヒーを飲みながら、何となくテレビを眺めていた。
『三人が死亡、七人が重軽傷を負った無差別殺傷事件の裁判で――』
カップを口元まで運びかけた手が止まる。
半年前、駅前で起きた事件だった。
通行人が次々と刃物で襲われ、三人が死亡した。
逮捕された男については、犯行当時の精神状態や刑事責任能力が争点になっていたはずだ。
『裁判所は被告に懲役十八年の判決を言い渡しました』
「……十八年」
検察側は死刑を求刑していた。
法律の細かいことは、直人には分からない。
責任能力。
犯行当時の判断能力。
量刑。
そこには専門家でなければ分からない事情がいくつもあるのだろう。
それでも。
「三人殺して、十八年かよ」
直人の感想は、それだった。
画面が切り替わり、被告の顔写真が映る。
三十代の男。
無表情な顔をしばらく眺めているうちに、ふと考えた。
――この男が、今後一年以内に死亡する確率。
視界に数字が浮かぶ。
――1.6%。
「……」
低い。
少なくともこの数字だけを見れば、一年以内に死ぬ可能性はほとんどない。
直人はコーヒーをテーブルに置いた。
右手を上げる。
1.6%。
指先を近づければ、いつもの感覚がある。
触れられる。
そして、変えられる。
99.9%まで。
もし上げたら、どうなるのだろう。
病気になるのか。
事故が起きるのか。
服役中に何かが起こるのか。
方法は分からない。
ただ、一年後にはほぼ確実に死んでいる。
「……」
指先が、数字の少し手前で止まった。
この男が気に入らない。
判決にも納得できない。
死ねばいい、と一瞬思った。
そこまでは感情だ。
だが。
数字に触れれば、それはもう感情では済まない。
「それは違うだろ」
直人は手を下ろした。
1.6%の数字が視界から消える。
テレビでは、事件についてコメンテーターが何かを話していた。
直人はリモコンを取り、電源を切った。
昼前。
買い物へ出ようと部屋を出ると、マンションの階段の踊り場に子どもが座っていた。
両手に携帯ゲーム機を持ち、画面を食い入るように見ている。
「またここにいるな」
声をかけると、少年が顔を上げた。
「あ、神谷さん」
「今日、学校は?」
「今日土曜日」
「……」
直人はスマートフォンの画面を見る。
確かに土曜日だった。
「本当だ」
「大人なのに曜日分かんないの?」
「うるさい」
少年が笑う。
悠真。
十歳。
同じマンションに住んでいる子どもだった。
以前、同じように階段でゲームをしていたところへ直人が声をかけた。
それ以来、顔を合わせれば少し話すようになっている。
「何で家でやらないの?」
直人が聞くと、悠真はゲーム画面へ視線を戻した。
「うるさいから」
「ゲームが?」
「違う。ママと翔太」
「翔太?」
「ママの彼氏」
「ああ」
以前にも名前だけ聞いた気がする。
「また喧嘩してんの?」
「うん」
「よくする?」
「結構」
悠真の言い方は軽かった。
それでも、家の中ではなく階段でゲームをしている時点で、気にならないはずはない。
「朝飯食った?」
「食べた」
「何?」
「お菓子」
「それは朝飯じゃないだろ」
「腹には入ったから一緒じゃん」
「一緒じゃない」
直人は小さく息を吐いた。
「俺コンビニ行くけど、何かいる?」
悠真が即答する。
「肉まん」
「自分で買え」
「金ない」
「じゃあ我慢しろ」
「神谷さん大人じゃん」
「大人ならお前に肉まん買わなきゃいけないの?」
「たぶん」
「どんな法律だよ」
悠真が笑いながら立ち上がった。
結局、そのまま二人でコンビニへ向かった。
肉まんと飲み物を買い、直人がまとめて会計を済ませる。
店を出たところで、悠真が早速袋を開けた。
直人は手を差し出す。
「五百円」
「え?」
「返して」
「子どもから取るの?」
「当然」
「最低」
「冗談だよ」
「顔が冗談じゃなかった」
「よく言われる」
悠真は少し笑って、肉まんにかじりついた。
マンションへ戻る道を並んで歩く。
悠真が肉まんを持ち替えたとき、上着の袖が少しだけ上がった。
「……」
直人の目が止まる。
腕に、薄い痣があった。
「それ、どうした?」
悠真は一瞬だけ腕を見て、すぐに袖を下ろした。
「何でもない」
「痣だろ」
「ぶつけた」
「どこに?」
「……」
返事がない。
直人は歩く速度を落とした。
「翔太?」
「違う」
「本当?」
「……」
「悠真」
名前を呼ぶと、悠真は足元を見た。
「蹴られただけ」
直人も足を止めた。
「何で」
「俺がうるさかったから」
「それで蹴るの?」
「翔太、すぐ怒るから」
まるで仕方のないことのように言う。
「母親は?」
「止めるよ」
「じゃあ、何でまだ一緒にいるの」
悠真が少し困ったような顔をした。
「ママ、翔太のこと好きだから」
「……」
「前にさ、すごい喧嘩して翔太がいなくなったことあったんだけど」
悠真は手の中の肉まんへ視線を落とした。
「ママ、ずっと泣いてた」
「それで?」
「だから俺、翔太のことあんまり悪く言わない」
直人には、その考え方がすぐには理解できなかった。
「蹴られてるのに?」
「うん」
「嫌じゃないの?」
「嫌だよ」
「じゃあ――」
「でも翔太いなくなったら、ママ悲しむから」
そこで言葉が止まった。
十歳。
母親が泣くくらいなら、自分が我慢すればいい。
少なくとも悠真は、そう考えている。
直人は何を言えばいいのか分からなかった。
「先生とかには話した?」
「言わない」
「何で」
「大ごとになるじゃん」
「もう十分大ごとだと思うけど」
「やだ」
今度は、はっきりしていた。
無理に問い詰めれば、悠真はもう話さなくなるかもしれない。
直人はそれ以上聞くのをやめた。
「じゃあさ」
「何?」
「何かあったら、俺に言え」
悠真が不思議そうな顔をする。
「神谷さんに?」
「うん」
「何してくれるの?」
「……」
具体的なことは何も考えていなかった。
「話くらい聞く」
「弱っ」
「じゃあ言うな」
「言う言う」
悠真が笑った。
直人も少しだけ口元を緩めた。
悠真と別れ、そのまま駅へ向かう。
時計を見ると、乗るつもりだった電車まであまり時間がない。
――このまま駅へ向かって、予定している電車に間に合う確率。
――42.1%。
「微妙だな」
数字へ触れ、
――89.6%。
まで上げる。
少し歩く速度を上げた。
駅はもう近い。
このままなら間に合いそうだった。
そのとき。
数メートル前を歩いていた高校生の鞄から、財布が滑り落ちた。
本人は気づかず、そのまま歩いていく。
「……」
直人は腕時計を見る。
一瞬だけ迷い、財布を拾った。
「すみません」
呼びかけると、高校生が振り返る。
「これ、落としたよ」
「え?」
差し出された財布を見て、慌てて自分の鞄を確認した。
「あっ……ありがとうございます!」
「うん」
直人は再び駅へ向かった。
改札を抜け、ホームへ続く階段を上がる。
ちょうど目の前で電車の扉が閉まった。
「……」
電車がゆっくり動き出す。
「89.6だったのに」
呟いてから、少し考える。
問いかけたのは。
――このまま駅へ向かって。
途中で立ち止まることまでは、考えていなかった。
「……そりゃそうか」
数字が未来を保証してくれるわけではない。
条件を変えれば、結果も変わる。
それに。
財布を無視してまで、あの電車に乗りたかったわけでもない。
直人はベンチに座り、次の電車を待った。
夕方。
買い物を終えてマンションへ戻ると、階段の踊り場にまた悠真がいた。
「まだやってんの?」
「ボス倒せない」
「何時間やってるんだよ」
「今日ずっと」
「下手なんじゃない?」
「難しいんだって!」
悠真が抗議するようにゲーム機を差し出す。
派手な鎧を着たキャラクターが、巨大な敵に何度も倒されていた。
直人にはゲームの内容はよく分からない。
ただ。
「勝てる確率とかも出るのかな」
「何?」
「何でもない」
ゲーム画面を見る。
――悠真が、次の挑戦でこのボスを倒す確率。
視界に数字が浮かんだ。
――7.4%。
「低っ」
「何が?」
「いや」
直人は数字へ指を伸ばした。
7.4。
29.8。
54.0。
そして、
――91.0%。
そこで止める。
「もう一回やってみ」
「無理だよ。さっきからずっと負けてるし」
「いいから」
「神谷さんがやってよ」
「俺、操作分かんない」
「使えな」
「肉まん代返せ」
「やります」
悠真がゲームを再開した。
直人は階段の壁にもたれ、横から画面を眺める。
数分後。
「うわっ!」
悠真が大きな声を出した。
「倒した!」
「よかったな」
「待って、レア落ちた!」
「へえ」
「これめちゃくちゃ出ないやつなんだよ!」
興奮した悠真が画面を直人の方へ向ける。
何が珍しいのかは分からない。
ただ、嬉しいことだけはよく分かった。
「すげえでしょ」
「たぶん」
「絶対分かってないじゃん」
「分からない」
「何でそんな普通に言うの」
悠真が笑った。
直人もつられて少し笑う。
朝、テレビの前で見た1.6%が、ふと頭をよぎった。
あの数字には触れなかった。
今は、7.4%を91%にした。
悠真はそんなことを知らず、まだ手に入れたアイテムを眺めている。
「こういうのなら、まあいいか」
「何が?」
「何でもない」
悠真は首を傾げたが、すぐにゲームへ戻った。
しばらくして、小さな声で言う。
「今日、翔太帰ってくる」
「そう」
「たぶん、またママと喧嘩する」
「だったら、またここにいるの?」
「うん」
直人は階段の窓へ目を向けた。
日が落ち始めている。
もう少しすれば、ここも冷える。
「寒くなったら来いよ」
「どこ?」
「俺んち」
悠真が顔を上げる。
「いいの?」
「ゲームの音、小さくするなら」
「する」
「騒がないなら」
「分かった」
「物触らないなら」
「神谷さん細かい」
「じゃあ来なくていい」
「行く行く」
悠真が笑った。
その顔には、腕にあった痣のことなど何も残っていないように見えた。
もちろん、本当に消えたわけではない。
直人はそれを知っている。
それでも今だけは。
階段の踊り場に、ゲームの音と悠真の笑い声が残っていた。
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