第3話 普通の幸せ
能力に気づいてから、三日が経った。
神谷直人は、その間に少しずつ使い方を覚えていた。
――次の信号が、自分が渡り終えるまで青のままである確率。
――43.6%。
70%まで上げる。
横断歩道へ入る。
点滅することもなく、向こう側まで渡れた。
――昼休み、いつもの定食屋に待たずに入れる確率。
――36.1%。
65%へ。
店に着いたところで、ちょうど二人組の客が出てくる。
「一名です」
「カウンターどうぞ」
待ち時間はゼロだった。
――今からかける営業電話で、担当者本人につながる確率。
――28.7%。
55%まで上げる。
電話をかけると、受付から一度保留にされたあと、そのまま担当者につながった。
最初の二日ほど、何でも99.9%にすることはなくなっていた。
理由があるわけではない。
50%。
70%。
80%。
そのくらいまで上げて、本当に結果が変わるのかを見る方が面白かった。
99.9%にすれば、ほぼ結果が決まってしまう。
それよりも、少しだけ自分に有利な状態を作って、あとは何が起きるのかを見る。
その方が、今の直人には合っていた。
「ゲームみたいだな」
昼休み。
定食を食べ終えた直人は、味噌汁の残った椀を脇へ寄せ、スマートフォンを眺めていた。
Instagramを開く。
誰か特定の人を見たいわけではない。
おすすめに流れてくる投稿を、親指で適当に送っていく。
料理。
車。
旅行。
知らない芸能人。
広告。
その中の一枚で、指が止まった。
「……」
女性向けブランドの広告だった。
淡い色の服を着た女性が、カメラに向かって笑っている。
細身で、身長は百六十センチくらいだろうか。
長い髪。
整った顔立ち。
美人なのは分かる。
それ以上に、笑ったときの表情が妙に印象に残った。
「……かわいいな」
直人は広告を開いた。
モデルのアカウントへ移る。
水城凛。
二十五歳。
フォロワーは八万人ほど。
投稿を遡ると、雑誌や広告、撮影現場らしい写真が並んでいた。
名前を誰でも知っているほどの有名人ではない。
ただ、最近になって少しずつ仕事が増えているらしいことは分かった。
「へえ」
何枚か見てから、アプリを閉じる。
それだけだった。
午後は普通に仕事をした。
その日の夜。
直人は、幼馴染の村上祐介と会う約束をしていた。
祐介とは、幼稚園に入るより前からの付き合いだ。
小学校、中学校までは同じ。
高校は別になり、その後も進んだ道は違ったが、関係だけは途切れなかった。
毎週会うわけではない。
何か月も連絡しないこともある。
それでも、どちらかが連絡すれば普通に会える。
友人の多くない直人にとって、そういう相手は珍しかった。
「お前、遅い」
駅前で顔を合わせるなり、祐介が言った。
「五分だろ」
「五分は遅刻だよ」
「お前、昔三十分遅れてきたことあるだろ」
「昔の話を持ち出すなよ」
祐介が笑う。
昔から、この辺りは変わらない。
「悪い。先に家寄っていい?」
「何で?」
「嫁に荷物渡すの忘れてた」
「いいよ」
祐介の家は、駅から十分ほど歩いた住宅街にあった。
築年数の浅そうな二階建て。
玄関の脇には子ども用の小さな自転車が置いてある。
祐介が鍵を開けた。
「ただいま」
「おかえり」
奥から女性の声が返ってくる。
その直後、小さな足音が近づいてきた。
「パパ!」
「おう」
祐介の息子だった。
五歳。
直人も何度か会ったことがある。
勢いよく祐介へ抱きついたあと、直人を見上げた。
「直人くん、久しぶり」
祐介の妻が、リビングから顔を出す。
「久しぶり」
「ゆっくりしてけばいいのに」
「これから祐介と飲みに行くから」
「ああ。また?」
「またって言うほど行ってないだろ」
祐介がすぐに反応する。
「先月も飲みに行ったじゃん」
「あれ会社だから」
「飲みは飲みでしょ」
「全然違うって」
二人が言い合っている横で、息子が祐介の服を引っ張った。
「パパ、今日帰ってくる?」
「帰ってくるよ」
「何時?」
「いい子が寝たあと」
息子が少し考える。
「じゃあ分かんないじゃん」
「……賢くなったな、お前」
祐介の妻が笑った。
直人は、そのやり取りを少し離れた場所から眺めていた。
戸建て。
妻。
子ども。
玄関に並んだ三人分の靴。
リビングの隅には玩具が置かれ、冷蔵庫には子どもが描いたらしい絵が貼ってある。
住宅ローンもあるのだろう。
生活費もかかる。
面倒なことはいくらでもありそうだった。
それでも。
こういうものを、多くの人は普通の幸せと呼ぶのだろう。
直人にはないものばかりだ。
欲しいかと聞かれると、よく分からない。
ただ。
悪くはないんだろうな、とは思った。
祐介の家を出て、近所の居酒屋へ入った。
乾杯して一口飲んだだけで、祐介が大きく息を吐く。
「いやー、疲れた」
「何が?」
「全部」
「雑だな」
「仕事だよ。上司うるせえし、今月数字きついし」
「どこも一緒だな」
「お前は?」
「普通」
「お前、昔もっと仕事してたよな」
「飽きた」
「もったいねえ」
「何が?」
「営業できるんだから、上目指せばいいじゃん。出世とかしたくないの?」
「全然」
祐介が枝豆を口へ放り込む。
「俺はしたいけど、責任増えるの嫌なんだよな」
「一番面倒なタイプじゃん」
「給料だけ上げてほしい」
「そんな都合いい会社あるなら俺も行くよ」
「あと住宅ローンな」
「自分で買ったんだろ」
「買うときはテンション上がってんだよ。家見に行って、嫁と間取り見て、ここがいいなとかやってさ」
「それで今は?」
「毎月、口座から引かれる金額見て現実に戻る」
祐介が笑った。
「子どもも金かかるぞ」
「まだ五歳だろ」
「これからだよ。習い事とか学校とか。大学まで行ったらいくらかかると思ってんだ」
「じゃあ作らなきゃよかったじゃん」
祐介の手が止まった。
「……お前、そういうとこ変わんねえな」
「何が?」
「正しいとか間違ってるとかじゃなくて、言わなくていいことを普通に言うところ」
「ああ」
言われてから、自分の言葉を一度頭の中で戻す。
金がかかって大変だ。
なら子どもを作らなければよかった。
論理だけなら、別におかしくはない。
でも祐介が言いたかったのは、そういうことではない。
「……今のは悪かった」
祐介が目を丸くした。
「お前、謝れるようになったんだな」
「うるさい」
「成長したじゃん」
「殴るぞ」
祐介が笑う。
昔なら、何が悪いのか本気で分からなかった。
今は分かる。
思ったことを全部言う必要はない。
言ってしまったなら、相手が嫌がった理由を考えて直せばいい。
その方が人間関係は楽だった。
「でもさ」
祐介がビールのグラスを指で回した。
「金かかるし、仕事もしんどいけど。まあ、幸せなんだろうな」
「急に何?」
「家帰ったら嫁と子どもいるし」
「さっきまで愚痴ってたのに」
「それとこれとは別なんだよ」
「面倒だな」
「独身には分かんねえよ」
「はいはい」
祐介がスマートフォンを取り出した。
「これ見てよ。この前、息子が描いたやつ」
画面には、紙いっぱいに描かれた三人の人間が映っていた。
大きな人。
その隣に一人。
さらに小さな人。
「これ、お前?」
「たぶん」
「でかすぎない?」
「父親だからな」
「父親だとでかく描かれるの?」
「知らん」
「じゃあ適当じゃん」
「でも俺だろ、これ」
祐介は楽しそうだった。
直人は写真をもう一度見る。
次に、目の前で酒を飲んでいる祐介を見る。
仕事に文句を言う。
住宅ローンを気にする。
子どもに金がかかると愚痴る。
それでも、子どもの絵をわざわざ友人へ見せる。
矛盾しているようで。
たぶん、祐介の中では何も矛盾していない。
「……そういえば」
直人はグラスを置いた。
「俺、確率変えられるようになった」
祐介の動きが止まった。
「は?」
「確率」
「何の?」
「何でも」
「……お前、薬やってる?」
「やってねえよ」
「じゃあもう酔った?」
「まだ一杯目だろ」
「一杯目でそれなら余計怖いわ」
祐介が笑い出す。
「いや、本当なんだよ」
「はいはい」
「絶対信じてないだろ」
「信じる要素が一個もねえよ」
直人は少し考えた。
何か分かりやすいもの。
視線を祐介へ向ける。
――今日、祐介が帰宅したあと、妻に飲酒について小言を言われる確率。
数字が現れた。
――71.4%。
「今日帰ったら、嫁に酒のことで何か言われる確率、71.4%」
「高っ」
祐介が笑う。
「いや、それ能力なくても分かるだろ」
「……確かに」
「もっとすげえのないの?」
「例えば?」
「宝くじ当てるとか」
「できるかも」
「じゃあ仕事辞められるじゃん」
「それも考えた」
祐介の笑顔が一瞬止まった。
「そこでマジな顔すんなよ。怖いわ」
「本当だから」
「はいはい、能力者さん」
祐介は枝豆を一つ取る。
「じゃあ俺の給料上げてよ」
「いくら?」
「月五万」
「結構欲張るな」
「何でも変えられる能力者なら余裕だろ」
冗談として言っている。
祐介は笑っていた。
直人は何となく、問いを作った。
――祐介の月収が、今後一年以内に五万円以上増える確率。
――13.8%。
「13.8」
「何が?」
「お前の給料が、一年以内に月五万以上増える確率」
「低っ!」
祐介が声を上げて笑った。
「夢ねえな、お前の能力」
「上げられるよ」
「じゃあ99%にしてよ」
「……」
目の前に13.8%が浮かんでいる。
触れればいい。
そこから99.9%まで。
直人は指を伸ばしかけた。
だが、途中で止めた。
「いや」
「何?」
「人の人生勝手に触るのは違うだろ」
祐介が一瞬黙った。
それから、吹き出した。
「設定細かすぎるわ」
「本当だって」
「はいはい。能力者さんは倫理観もしっかりしてるんですね」
「信じてない奴に褒められても嬉しくない」
結局、店を出るまで祐介が信じることはなかった。
「じゃあな」
店の前で祐介が手を上げる。
「嫁に怒られろ」
「71.4%な」
「当たったらLINEするわ」
「どうぞ」
祐介は住宅街の方へ歩いていった。
直人は一人、駅へ向かう。
少しだけ酒が入っていた。
ホームへ下りると、到着した電車はそれなりに混んでいる。
空席は見えなかった。
直人は何となく問いかける。
――この電車に乗って、三駅以内に座れる確率。
――8.3%。
「低いな」
数字へ指を伸ばす。
8.3。
24.0。
46.8。
――78.2%。
そこで離した。
電車へ乗る。
吊り革につかまり、一駅。
目の前の男性がスマートフォンをポケットにしまった。
次の駅で立ち上がる。
直人の前に、一人分の席が空いた。
「……」
座る。
口元が少し緩んだ。
窓の向こうを、夜の街が流れていく。
祐介。
妻。
子ども。
家。
仕事。
住宅ローン。
不満。
幸せ。
祐介が持っているものの多くは、直人にはない。
その代わり。
祐介には、自分の人生でこれから何が起きるのか分からない。
給料が上がるか。
仕事がうまくいくか。
家族がずっと健康でいられるか。
子どもがどんな大人になるのか。
もちろん、努力できることはある。
選べることもある。
それでも最後まで、自分ではどうにもならない部分が残る。
それが普通だ。
昨日までの直人も、同じだった。
スマートフォンを取り出す。
何となくInstagramを開いた。
おすすめ欄に、昼間見た女性がまた表示されている。
水城凛。
「……やっぱ可愛いな」
プロフィールを少しだけ見る。
新しく投稿されたものはない。
数枚眺めて、アプリを閉じた。
窓には、自分の顔が薄く映っている。
みんなが運に任せるしかないものを。
自分だけは、少し選べる。
その事実が。
直人が思っていた以上に、気持ちよかった。
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