第6話 オールデリート
その日の夕方。
彩葉の家のインターホンが鳴った。
「はーい」
玄関を開けると、朝希が立っていた。
「急にごめん」
「ううん。どうぞ」
彩葉は朝希を部屋へ通した。
テーブルにお茶を置く。
朝希は「ありがとう」と言ったあと、しばらく黙っていた。
彩葉も急かさなかった。
何か話したいことがある人は、話し始めるまでに時間がかかることがある。
そういうときは、待っていればいい。
しばらくして、朝希が口を開いた。
「……彼女と別れた」
「そっか」
「嫌いになったわけじゃないって言われた」
彩葉は、黙って聞いた。
「嫌いじゃないなら、どうして終われるんだろうって。ずっと考えてる」
「うん」
「時間が解決してくれるって言うけど……」
朝希はそこで言葉を止めた。
「本当に、そうなのかな」
彩葉は、すぐには答えなかった。
時間が解決する。
よく聞く言葉だ。
時間が経てば忘れる。
時間が経てば傷が癒える。
時間が経てば、いつか笑って話せる。
そういう意味なのだろう。
でも。
忘れることが「解決」なのだろうか。
彩葉には、わからなかった。
「私が思うにね」
彩葉は、ゆっくり話した。
「オールデリートは、できないと思う」
「オールデリート?」
「うん。起きたことを全部消すこと」
彩葉は少し考える。
「たぶん、思い出さなくなることはあると思う。でも、経験したこと自体をなかったことにはできない」
朝希は黙っている。
「言われた言葉も、経験したことも、そのとき感じたことも。全部、どこかに残るんじゃないかな」
「残る……」
「うん」
彩葉は、洗面台のほうへ目を向けた。
そこには、固形石鹸と泡石鹸が並んでいる。
「でも、残るっていっても、ずっと同じ形じゃないと思う」
「同じ形じゃない?」
「たとえば、今はすごく苦しいことでも、何年か経ったら、別のことを考える材料になってるかもしれない」
彩葉は、少し笑った。
「経験って、そういうものなんじゃないかな」
朝希は、洗面台を見た。
「石鹸?」
「そう」
彩葉もそちらを見る。
「これ、ずっと考えてるんだよね」
「何を?」
「固形石鹸と泡石鹸、どっちが優秀なんだろうって」
朝希が少し笑った。
「そこ?」
「そこ」
彩葉も笑った。
「でもね、どっちがいいかなんて、使ってみないとわからないでしょ?」
「まあ……そうだね」
「頭の中だけで考えてても、答えが出ないことってあるじゃない」
彩葉は、固形石鹸を手に取った。
「実際に使ってみて、初めてわかることもある」
そして、元の場所に戻す。
「逆に、使ってみても、どっちがいいかわからないこともある」
「……それでも?」
「うん。それでもいいんじゃないかな」
朝希は、何も言わなかった。
彩葉は、少しだけ言葉を探した。
「起きなければよかったって思うこともあるよね」
「ある」
「私もあるよ」
彩葉は、泡石鹸のポンプに触れた。
「でも、もう経験してしまったことは、消せない」
それは、諦めるという意味ではなかった。
忘れなければいけないという意味でもない。
ただ、消そうとしても、消えないものがある。
そして、消えないからといって、ずっと同じ痛みのまま残るとも限らない。
「思考って、留めておけないと思うんだ」
「留めておけない?」
「うん。同じことを考えているようでも、昨日と今日では、きっと少し違う」
別の経験と混ざる。
別の言葉を思い出す。
誰かの話を聞く。
新しい出来事が起きる。
そうしているうちに、最初はひとつだったものが、少しずつ形を変えていく。
「だから、今は答えが出なくてもいいんじゃない?」
朝希はしばらく黙っていた。
やがて、
「……そっか」
とだけ言った。
それ以上、彩葉も何も言わなかった。
問題が解決したわけではない。
彼女がなぜ別れを選んだのかも。
時間が本当に何かを解決してくれるのかも。
彩葉にはわからない。
ただ、朝希が帰ったあとも、その言葉は彩葉の中に残っていた。
――時間が解決してくれるって、本当かな。
彩葉は洗面台の前に立った。
固形石鹸。
泡石鹸。
どちらも、そこにある。
もしかすると。
自分がずっと考えていた「どちらがいいのか」という問いも、答えを出すことだけが目的ではないのかもしれない。
考えているうちに、自分が何を大切にしているのかが見えてくる。
誰かの言葉を聞いて、自分の考えが少し変わる。
その考えが、また別の何かにつながっていく。
そういうことなのかもしれない。
彩葉は、二つの石鹸を見比べた。
「……でも、やっぱりどっちがいいんだろう」
今日も、答えは出なかった。
けれど。
彩葉は、少しだけ笑った。
「まあ、いっか」
洗面台には、固形石鹸と泡石鹸。
どちらも消えずに、そこに並んでいた。
Is There Any Meaning in This? Jeremejevite @Jeremejevite
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