第15話 空から引き下ろし、花を贈る

 第三十層の扉を開けたとき、俺は足を止めた。

 空があった。


 本物の空ではない。岩盤の奥に青く光る鉱石が広がり、白い雲のような魔力がゆっくり流れている。

 浮いた石の島を、細い橋がつないでいた。橋の下は深い霧で見えない。


「……きれい」


 セナが俺の隣へ出た。

 風が銀髪を持ち上げ、彼女は押さえるのも忘れて島々を見ていた。


 こんな場所へ来たかったのかもしれない。

 薬草を摘んでいた頃、俺が深い階層へ憧れた理由を、言葉より先に思い出した。


 氷冠草は一番奥の島に生えていた。

 そこへ行くまでに、羽根のある蛇に襲われた。俺が接近を伝え、セナが空中へ細い氷の輪を作る。蛇がその中をくぐった瞬間に輪を狭め、翼を止めた。


「新しい使い方か」

「昨日、花を作って思いついた」


 落ちた蛇を俺が仕留める。

 ミアは毒のある牙を避けて、採取できる部位を切り取った。


 進むほど、橋の幅が狭くなる。

 最後の橋には、巨大な爪痕が残っていた。


 俺は手を上げた。

 遠い羽ばたきが、こちらへ近づいていた。大きい。羽が空気を押すたび、胸へ低い響きが届く。


「上から来る」


 セナが氷冠草の方を一度だけ見た。

 それから俺の隣で杖を構えた。


 青い空を覆うように、灰色の翼が広がった。


 風が、橋の上を横殴りに走った。

 ミアの結界がなければ、俺たちは最初の一撃で落ちていた。


 鳥の守護者は、翼を広げると家ほどもあった。

 俺の剣は届かない。セナの氷弾も、翼の前で向きを変えられた。


「島へ戻る!」


 俺が先に走り、橋のたもとで振り返った。

 セナが来る。ミアが最後に結界を動かしながら渡る。

 守護者の爪が橋へ落ちた。


 石が割れた。

 ミアの足場が傾く。


 俺は縄を投げた。彼女がつかむ。セナも俺の腰へ腕を回して引いた。

 ミアが島へ転がり込み、直後に橋の中央が霧へ落ちた。


 帰路が切れた。

 ただし、島から島の距離は短い。後で氷の橋を作れる。今は頭上を片付けなければならない。


 守護者は高く舞い上がり、翼を一度閉じた。

 風の音が細くなる。


「降りるぞ!」


 ミアが斜めの結界を出した。

 爪が透明な面を削り、火花のような光が散る。

 俺はその横へ走り、脚へ斬りつけた。

 切っ先が羽根を一本落としただけだった。


「速すぎる」


 セナが羽根を拾った。

 握った瞬間、軽く風に押される。


「翼の前へ魔法を撃っても逸らされる。でも、降りるときは足元まで全部守れない」


 俺は守護者が空へ戻る音を追った。

 急降下の前だけ、右の羽が一瞬止まる。


「来る瞬間なら分かる」

「じゃあ、通る場所を狭くする」


 セナは島の縁へ立ち、地面へ杖を当てた。

 白い柱が、一本ずつ伸び始めた。


 氷柱が、島の左右へ立った。

 セナは完全な壁を作らず、守護者が抜けたくなる隙間を正面へ残した。

 俺はその奥へ立つ。


「ここでいい?」

「もう半歩、右。そこなら爪が外れても橋へ落ちない」


 ミアが俺の後ろに結界を用意した。

 前だけでなく、足元を受ける面もある。


 守護者が翼を閉じた。

 右の羽が止まる。


「来る!」


 セナが杖を持ち上げた。

 氷柱の間に細い線が張る。大きな鳥なら、糸のように見えただろう。

 守護者はそのまま突っ込んだ。


 線が両脚へ巻き付いた。

 セナが両腕を引く。左右の柱から氷が伸び、脚を地面へ押さえた。

 翼が暴れ、風が顔を叩く。


 ミアの壁が曲がった。

 正面から受けず、翼の片側だけへ寄せる。風の流れが崩れ、守護者の体が傾いた。


 俺は走った。

 低くなった翼の根元へ共鳴剣を当てる。

 魔力が流れる震えを捉え、その切れ目へ刃を滑り込ませた。


 片翼の風が弱まる。

 守護者が長い首を俺へ向けた。


 セナの氷槍が、そのくちばしを横から打った。

 俺は振り向いた首の下へ入り、両手で剣を押し込んだ。


 甲高い叫びが途切れた。

 体が地面へ落ちる。俺は剣を抜いて飛び退き、羽根と砂にまみれた。


 風が止んだ。

 空の雲だけが、何も知らないように流れていた。


 セナが杖を地面へつき、座り込んだ。


「取ってきて。氷冠草」

「すぐ行く」

「根ごと抜かないでね。葉の先だけ」


 俺は剣を納めた。

 奥の島へ続く短い橋を渡り、絵で見た結晶を一つずつ摘む。

 戻ると、セナは休んでいたはずなのに、立ち上がって両手を出してきた。


「見せて」


 結晶を掌へ載せると、彼女は宝箱を開けたときよりうれしそうに笑った。


     *


 杖の調整は、街へ戻ってから行った。

 魔道具職人に芯の部分を開けてもらい、セナが氷冠草の結晶を削って組み込む。

 俺は店の長椅子で、黙ってその手元を見ていた。


 普段は返事の速い彼女が、こういうときにはほとんどしゃべらない。

 細い指が結晶を回し、光へ透かす。気に入らなければもう一度削る。


「待つの、退屈じゃない?」


 途中で聞かれた。


「面白いよ。何をしてるかは半分も分からないけど」

「じゃあ、そこを見て。こっちが魔力を通す向き」


 少しだけ説明が増えた。

 俺が聞き違えると、彼女は小さな石を並べて見せ直した。

 説明の途中で、セナは一つを別の向きへ回した。小さく息を吸い、また回す。


「……こっちの方が、流れが揃う」


 俺への説明を忘れ、二つの石を入れ替えた。職人の女性も手を止めて覗き込む。

 しばらくして、杖の中のかすかな音が一つに重なった。


「今、きれいに鳴ったぞ」

「でしょう!」


 セナが振り向いた。結晶を持った手が勢いよく上がったので、俺は下へ皿を差し入れた。


「落とす前に、そっちへ置いて」

「落とさないわよ」


 そう言いながら、彼女は素直に皿を使った。


 仕上がった杖は、見た目にはあまり変わらなかった。

 だが、裏庭で振ると違いが分かった。

 十歩離れた木の枝へ、薄い氷の輪ができる。枝に触れず、その周囲だけを囲んでいた。


「すごいな」

「前なら、枝ごと凍ってたわ」


 セナはその輪を崩し、今度は俺の前へ花を作った。

 透明な花弁が六枚。芯の細い筋まで見える。


 受け取っても、すぐには溶けなかった。


「少し長持ちするようにしてあるの」

「俺に?」

「ほかに誰が持ってるのよ」


 俺は花を壊さないよう、指先で持った。


 ミアが窓から顔を出した。


「上手。帰りに買った花瓶が役立ちそうね」

「花瓶まで買ってたのか」

「二人が職人さんのところにいる間、私は自由だったから」


 食卓へ小さな瓶を置き、花を挿した。

 夕飯の間も、透明な花弁にランプの光が残っていた。


* * *


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