第3章 俺の実力を、俺の名前で
第11話 その耳の値段
朝の掲示板には、B級昇格試験の案内が貼られていた。
合格すれば第三十五層まで進める。報酬のよい深層採取や、護衛の指名依頼にも応募できる。
俺は札へ手を伸ばした。
隣でセナが顔を上げる。
「受けるの?」
「ああ」
「私も」
二人で窓口へ並ぶ。
ミアは試験を受ける二人の補助役として登録することになった。
「私の昇格じゃないから、採点されるのは二人よ。荷物まで私に持たせないでね」
「それは最初から勘定に入れてない」
「試験前だからね。今日の買い出しでは知らないよ」
申込書の装備欄に、共鳴剣と書いた。
少し前なら、持っているのは普通の鉄剣だけだった。今は専用に選んだ剣があり、ちゃんと乾かした外套がある。
試験日は二週間後。
指定区域で《鏡殻の獣》を討伐する。資料の絵は一頭なのに、説明には「複数の影を追わないこと」と書かれていた。
「幻像を作る相手ね」
セナが紙の端を持ち上げる。
「斬っても手応えがない影が出るんだって」
「音はするのかな」
「そこまでは書いてない。練習で確かめる?」
彼女は向かいの掲示板を指した。
小さな幻を作る灯蛾の採取依頼がある。試験ほど危険ではなく、魔法の研究用に買い取ってもらえる。
俺はその依頼も取った。
「勉強代がもらえるのか」
「本物に噛まれる前なら、いい勉強でしょう」
俺は二枚の札を並べて持った。
どちらも、自分で選んだ仕事だった。
*
灯蛾の巣には、青い花が咲いていた。
花弁の間を、細い銀色の翅が行き来している。近づくと数が増え、少し離れると半分になった。
「増えた方が幻?」
「本物は触れられる。けど、花を傷つけないで。こっちも薬の材料よ」
セナが籠を置き、ミアが布を広げた。
俺は目を閉じた。
翅の音を数える。見えていたのは十匹以上だが、聞こえる羽ばたきは四つだった。
網を振ると、銀色の姿を通り抜けた。
「外した」
「目を開けるのが早いんじゃない?」
セナが網の先へ小さな氷片を付けた。
「これが動く音と、蛾の音を比べて。手の先がどこにあるか、分かるでしょう」
もう一度。
今度は、羽音の少し先へ網を置いた。
布の中で翅が鳴った。
俺は笑った。
「捕まえた」
「まだ三匹いるわ」
「少しくらい喜ばせろ」
「喜びながら次を捕って」
四匹を別々の筒へ収めた後、ミアが花を摘み始めた。
つぼみは採らず、開いたものだけを選んでいる。
俺には茎を流れる小さな水音が聞こえたが、それだけで薬効までは分からない。
形を教わり、ミアの選んだ花と見比べて摘んだ。
昼近くになると、水の動く音が一斉に強まった。
花弁が開く。
「今から咲く」
言い終わるより先に、青い花が斜面を埋めた。
セナが籠を持って走る。
「それ、先に言って!」
「今、聞こえたんだよ!」
三人で笑いながら手を動かした。
籠は、予定より早くいっぱいになった。
*
採取を終えた帰り、薬屋の女性に追加の仕事を頼まれた。
別の花畑でも、咲く直前が分かるか確かめてほしいという。
「半日で銀貨二枚ならどう?」
俺はすぐうなずきかけた。
セナが横から依頼の紙を受け取る。
「採取場所までの往復で半日です。現地で観察する時間と、同行する治療役の分も入ります」
女性は考え、金額を書き直した。
四枚になった。
「ごめんね。見てもらうだけ、のつもりで考えてた」
「俺は――」
安くてもいい、と言いそうになった。
だが、安くするのは俺の時間だけではない。
「その条件なら、引き受けます」
店を出た後、俺はセナに礼を言った。
彼女は首を振る。
「次はあなたが言うのよ」
「高く言って、断られたら?」
「無理な仕事を引き受けずに済むでしょう」
ミアがうなずく。
「私たちが明日も働ける値段でいいの。薬だって、作る人が倒れたら困るもの」
翌日、俺は花畑で一刻ほど待った。
全部が一斉に開くわけではない。日の当たる斜面の上から、水の動きが変わっていく。
俺が場所を伝え、セナが印を置いた。薬屋の採取係たちが、その順番に籠を運ぶ。
咲いた花は傷む前に摘まれた。
昼を待たずに、用意された乾燥棚が埋まった。採取係の一人が、空になった籠を抱えて俺へ聞いた。
「午後の見回りは、しなくても?」
「南の斜面は、もう咲いた。次は明日でいいと思います」
薬屋の女性が棚の花を一つ持ち上げた。端まで青く、折れた花弁がない。
「昨日は何度も歩き回って、最後は閉じた花を広げて確かめてたのよ。これなら、傷めずに摘めるね」
籠を置いた採取係が、そのまま日陰の椅子へ腰を下ろした。
最後に女性は、約束の四枚にもう一枚足した。
「予想より採れたから。次もお願いするよ」
俺は今度、値段を下げなかった。
帰りのパン屋で、三人分の甘いパンを買った。
セナが袋を受け取って笑う。
「いい使い方ね」
*
灯蛾を使った練習は、裏庭ではできなかった。
放した一匹が隣家の植木へ止まり、花を三倍に見せてしまったからだ。
謝って捕まえ直し、俺たちはギルドの訓練室を借りた。
セナが部屋の端で灯蛾を入れた籠を開く。
銀色の翅が六枚に分かれた。本物は一匹だ。
俺は網を構えた。
目を閉じると、本物は右だと分かる。
だが、一歩動くたびに、自分の足音が邪魔になった。
「そこまで全部聞いてるの?」
セナが寄ってきた。
「聞こえるんだから、仕方ないだろ」
「私だって、見えるもの全部を狙って魔法は撃たないわよ」
セナは灯蛾をいったん籠へ戻し、床へ白い線を引いた。
俺の移動範囲を狭くし、ミアが木球を一つ転がす。
「まずこれだけ。自分の靴音は放っておいて」
木球が転がる。止まる。別の方向へ転がる。
俺は球の音だけを追った。
何度か繰り返すうち、扉の外の話し声が遠くなった。
消えたわけではない。追う必要がなくなった。
最後に灯蛾を放した。
俺は一歩踏み出し、網を差し出した。
翅が布を打つ。
「取れた」
目を開けると、セナが口を開きかけていた。
「今度は喜んでいい?」
「……先に言われると、意地悪したくなるわね」
ミアが手を叩いた。
「はい、上手。次は二匹。喜ぶ時間はその後に増やしてあげる」
俺は籠を差し出した。
最初の頃より、手の位置を迷わなくなっていた。
*
家へ戻ると、玄関に白い封筒が届いていた。
実績のある探索組合から、顔を合わせたいという誘いだった。
翌日会った女性は、よく手入れされた防具を着ていた。
俺たちの発見した隠し道の地図を机へ広げる。
「この精度で道を見つけられるなら、深層の調査でも役立つと思うの。昇格後、こちらで専任の斥候をしない?」
提示された報酬は高かった。
剣や薬も組合が用意する。仕事の日程が決まれば、毎朝掲示板を見なくていい。
「今、二人と組んでいます」
「知っているわ。今回はあなたの能力を見込んでの話だから、まず考えてほしい」
急いで返事を求める言い方ではなかった。
俺は条件の紙を預かり、帰った。
家の台所では、セナが粉だらけになっていた。
ミアが隣で、練った生地を小さく切っている。
「何してるんだ」
「明日の保存食」
「いい匂いがするけど」
「もう一度焼いてるからね」とミア。
最初の分が少し焦げたらしい。
セナが皿を引き寄せ、俺の前へ一枚置いた。
「これは焦げてない方」
俺は椅子へ座り、まだ温かい菓子を割った。
封筒を机へ置くと、セナの視線が一度そこへ落ちた。
「組合の話?」
「ああ。試験の後に返事をする」
「……そう」
彼女はそれ以上聞かなかった。
俺も、その場で安易に大丈夫とは言わなかった。
代わりに、翌日の練習の場所を決めた。セナはいつもより丁寧に生地を並べながら、うなずいた。
* * *
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