8


また夜だ。

あの日からずっと夜だ。


もうすぐ明けそうな程、東の空は明るいのに。

分厚い雲に隠れて光は消え、僕の世界はまた夜だ。

永久に夜明けの一歩手前。


橘花は僕の気持ちを全て知った上で、理解した上で行動した。

こんな手の込んだやり方で僕を突き放した。

本当は変化なんて求めていなかったのかもしれない。

このぬるま湯のように居心地のいい関係が、他人から馬鹿にされるくらいの緩い幸せが、これからも続いていればそれでよかった。


たしかに、最初に変化を望んだのは僕だったかもしれない。

橘花に好意を伝えたのは今の関係を変えたかったからだ。

他の大多数の男女のような枠にはまってみたかった。

ごく普通の高校生のように、或いは漫画や映画の中の男女のように。

橘花を縛る名前を渇望していた。

橘花が僕を縛ることのできる立場を得たかった。

そんな夢と呼べるのかも定かではない想いを持っていた。


でも、それを橘花に拒まれた。それを恨んだり憎んだりはしない。

そんなのはただの逆恨みだ。みっともない。


だけど僕は夢から醒めたんだ。

橘花に自分を押し付けることを止めた。

それでも想うことを止めたわけじゃない。

あの言葉はそれでもなお僕の中で生き続けているから。


 当初は落ち込んだりもしてたいたが、最近になってやっと立ち直りかけていた。

傷は完全に癒えなくとも、物事はそつなくこなせていた。


なのに、なんで今日になって橘花は僕に期待をさせたんだ。

このまま橘花と道を分かつことになっても、僕は後悔なんか無かった。

いつか「振られたんだよな」って姉さんや瑠璃に話す笑い話に昇華させるつもりだった。


もう無理だ。

一言でも「好きだ」と言われてしまえば、後悔せずにはいられない。

橘花を求める自分を隠せない。


 だから、あの場所から逃げた。

行く当てなど無かったけれど、あの場所で、あの空気を吸いながら、あの椅子に座っていることは耐え難いことだった。


 そうして辿り着いた場所はどこかの神社だ。

見たことがあるような気もする大きな朱色の門がある。


「……」


 夕方の4時を過ぎた境内は人の姿はまばらだった。

だから、門の前の小川の近くに突っ立っていても迷惑にはならない。


「……」


 ポケットの中の携帯が震えている。コンサートが終わったとの連絡だろう。

たぶん瑠璃からだ。


開くと瑠璃からではなく、非通知からだった。


「……」


 悪戯電話だろうかと思ったが、僕の電話番号を知っている人間は限られてくる。

誰かが悪意第三者に漏らしたのだろうか。

いや、僕の番号を知っているほど近しい人間の中に、そんなことをしそうな人間は思い当たらない。


だとしたら残された可能性は非通知設定でかけてきているか、公衆電話からかけてきているかのどちらかだ。


「もしもし、どちら様ですか」


 悪戯だったらすぐに切るつもりで応答した。


『出るのが遅いぞ、少年』


 ドクンッと心臓が強く脈を打った。その声を知っているから。


「………なんで」

『久方ぶりだな』


 僕の声を無視して電話の相手は話を続けた。

どれだけ頭を回しても状況が理解できない。

どうして、どうやって、どうすれば。

そんな言葉が空回りしていく。


『少年は何故と思っているんだろう。正しい反応だ』


 チャリンっと小銭が落ちる音がした。

公衆電話からかけているらしい。


「どうして……なんですか」

『すまない。質問の意味が分からない』

「どうして今なんですか……」


 もっと早ければ。或いは、もっと遅ければ……。


『理由はない。ただ、君の姿を見たからだ。酷く怖い顔をしていた』


 見た……? 僕の姿を?やっぱりあのフードの人物は……。


「……誘さん」


 切望していた人の名を呟く。できれば返事してほしくはなかった。


『随分と弱くなってしまったようだな』


 それは違うよ。僕は元から強くなんかなかった。


「……はい」


 でも、それを言うのは強がり方を教えてくれた人を裏切ることと同義だと思う。

だから肯定する。


『それでいいと私は思う。身の丈に合っていない自分は捨てるべきだ。そうさせてしまったことをずっと後悔していた』


 どこか暗さを宿した誘さんの声は、ノイズ交じりの音声となって僕の耳に届く。


「……」

『……』


 再び、チャリンっと小銭が落ちる音がした。


僕は何を言えばいいのか分からずに黙り込んでいる。

だけど、誘さんは僕の言葉を待っているのだと思う。

この沈黙の時間は気まずさではない。

ただ回答できていない自分のせいで生まれた狭間だ。


 ずっと思っていたことがある。

僕はどうしてこんなにも橘花のことが好きなのだろうか。

その根源は何なんだろうか。


一つ一つ過去を辿ると、やはり10年前のあの夕方にしか行き着かない。

誘さんのあの言葉が僕を呪っているんだ。

僕の本心を覆いつくして上書きしていくあの言葉が、僕を磔にする。

簡単なことだ。


二度も拒まれたのなら、この感情は悪でしかないのだ。

今すぐにでも捨ててしまった方が良い。

橘花から逃げればいいじゃないか。

嫌なことや辛い現実から逃げることの何が悪い。

何も悪くないじゃないか。


 ちょうど逃げ道はすぐそこにある。

自分を騙すのも隠すのも必要なく、真っすぐ走れる逃げ道が。


「誘さん……僕は——」

『それ以上は言ってはいけない』


 僕の何倍も物事を思考している誘さんには、僕の心は筒抜けだった。

最後まで言わせてもらえなかったのがその証拠だ。

僕が言おうとした内容は、今の誘さんにとっては迷惑でしかないはずだから。


『この10年の自分を否定するつもりか?』

「そうじゃない。これはただの独白です」


 例え自分を否定することになろうとも、言わずにはいられない。


「僕はあなたに独白します……」


 言葉の意味が間違っているのは分かっている。

それでも、これは独白にしなければならない。

誘さんに聞かれてはいけない。返事を求めてはいけない。


『………』


 その沈黙は肯定の意思だと思う。

だから僕はゆっくりと口を開いた。


「橘花のことが好き。僕はそう思いながら生きて……生きてました」


 風が吹き目を閉じた。前髪が瞼を撫でていく。


「それを疑うことはありませんでした」


 瑠璃がいなければ。昨日、誘さんと出会わなければ。

そう思うこともなかったはずだ。


だけどもう、今の僕にはある一つの想いが芽生えた。

いや、ずっと蕾のままでいた物が芽吹いただけなのかもしれない。


「でも、それを否定してくれた親友がいたんですよ」

『……』


 悲しそうな息遣いに、姿も見えないのに俯いているのが分かった。


「橘花のことを思う度に、僕は無意識にもう一人のことも思い出すんです。その人の手の温もり、息遣いや言葉遣い。長くて綺麗な髪や、優しさの満ちた眼鏡越しの瞳。ゆっくりとした歩き方さえも」


 思い出さないようにと、もう一人の自分がしていた。

自分とは住む世界が違う人だから。


「僕を少年と呼んだ年上の女性のことを」

『……やめろ』


 もう誰にも僕を止めることはできない。

僕ですら僕の言葉を止められない。


「誘さん、僕はあなたに会いたい」


 これは僕の独白だ。

誘さんが答えるはずがない。

答えてはいけない。


『……馬鹿なことを言うな』


 だと言うのに、誘さんは答えてしまった。


「僕はもう馬鹿になりたいんですよ。大人ぶって生きるのは疲れました」


 遠くから救急車のサイレンの音がした。

徐々に近づき、遠のいていく。

少し振り返ると、府道103号線を走って行くのが見えた。

すぐ後ろの道だ。


『君は賢い。だから私は少年と呼んだんだ』

「気づかなければ、そういられたかもしれません……もしくは、今日じゃなければ」


 全ては歯車の組み合わせの悪さのせいだ。

たらればをいくつ重ねたところで、自分の感情も、取り巻く現実も、この関係だって何も変わらない。


「誘さん、僕は………え?」


 その時だ。

受話器から聞こえてくる音と世界から聞こえてくる音がリンクしたのは。

あのサイレンの音が、ほぼタイムラグ無しに聞こえてきている。

偶然だと片付けるには、あまりにも音が似ていすぎた。

進路を開けるように促す無線の声までも、同じだったから。


「誘さん、今どこに——」


 ガチャンッと雑に受話器が置かれ、電話は切られた。

近くにいるんだ。

救急車が通って行ったあの道の向こうに。


 意識せずとも、足は大地を蹴って走りだす。

会いたくてしょうがないその人がいるであろうこの道の先へ。

長い参道を走り、鳥居をくぐって府道103号を左折。

古い景観の美しい街を進んでいく。

小さな水路の奥には漆喰の壁が長く立っている。


 この先のどこかに公衆電話があるはずだ。

そこに誘さんはいないだろうけど、さらにその先のどこかいるかもしれない。

だから全力で走った。


2、3分走ると大きな木と赤い柵が見えた。

その下に電話ボックスが見える。

近付いて中を見るが、やはり誰もいない。

だが、緑色の本体の上に10円玉と100円玉が合わせて10枚ほど置かれていた。

すぐに投入できるように準備していたが、慌てて立ち去るときに回収し忘れたんだろう。

とりあえずそれらをポケットに放り込む。


電話ボックスから出たところで、僕を呼ぶ声がした。


「……見つけた、奏多」


 額に汗を滲ませながら、息を切らす青髪の少女。


「……瑠璃」

「メッセージ送ったのに見てないから、慌てて探してた」


 その前に電話をすればよかったのに。

大した策も講じずに行動するのは瑠璃らしくない。

不自然さがまとわりついている。

気にはなったが、今の僕にはそれよりも優先すべきことがある。


「瑠璃、眼鏡をかけた白髪の女性を見なかったか?」


 誘さんに会う事。それが僕の今するべきこと。


「え? 見てないけど……」

「よく思い出してくれ! 黒いフードを被っていたかもしれない!」


 とにかく情報が欲しくて、瑠璃の肩を掴んで問い詰める。


「ご、ごめん。ほんとに知らないんだ」


 どこか不安げに答える瑠璃。嘘は無さそうに見える。


「あ……わ、悪い。もう帰るなら先に帰っててくれ。ホテルに置いてきた荷物もそのままでいい。何とか今日中に取りに行くから」

「待って!」


 走り去ろうとした瞬間、瑠璃に腕を掴まれた。


「急いでるんだ。また今度にしてくれ」

「だめ、今じゃないと」


 僕の手を握る瑠璃の手が強くなった気がした。


「君はあの人を探しているんだろ?」

「……」

「ボクは君のことが分かる。何でもじゃないけど……今の奏多をこのまま行かせることはできないんだよ」


 こんなにも感情の籠った瑠璃を見るのはいつぶりだろうか。

いつも、発する言葉には心が伴っていないような気がしてならないから。


「何が分かるってんだよ……お前は僕のことなんて何にも分かっちゃいない」

「分かるよ! ボクだって分かるんだよッ‼」

「所詮お前と僕はただの他人だ。分かる分からない以前の問題だ」


 好きな人の感情一つさえ僕には分からなかったんだから。

ただの他人に僕の気持ちが分かるわけがない。

唯一の逃げ道を追いかける愚かな僕の心のことなど。


「他人なんかじゃない……」

「なんだよ、親友ともでも言うつもりか!」


 そんな薄っぺらで上っ面な関係を僕は望まない。


「そんなんじゃない! 好きな人のことくらい考えなくても分かるって言ってんだよッ‼」

「ぇ……」


 たじろいだ瞬間、視界が歪む。

これまで積み上げてきた何かが崩れていく音がした。


「ボクは奏多のことが好きだよ……」


 震える肩から目を逸らした先は車道のアスファルト。


「………」

「ごめんよ、迷惑だよね……」


 握られていた手が熱を帯び、小さく震えている。

春の夕方の風はまだ少し冷たい。


「ボクってズルいんだよ、昔から。今の君は橘花ちゃんにまた振られて傷ついてる」


 何も語っていないと言うのに、それが真実だと疑っていない様子の瑠璃。


「だから今ならボクのものにできるんじゃないかって。そう、思ったんだ」


 風に湿り気が出てきた。僕は何も言えぬまま、瑠璃の言葉だけが綴られていく。


「君が逃げるのは、あの人じゃなくたっていいじゃないか。勝算の無い人なんか逃げ場所になってないよ……」


 盲目的に信じていた。あの人に会えば僕はどうとでもなると。


でも、あの人にはあの人の大切なものがあって、あの人の時間が流れている。

僕への干渉はただの気まぐれ。


初めから住む世界の違う人間だ。


「なんでボクに逃げてくれないんだよ……ボクは君を拒んだりしない。悲しませたりだってしないのに………」


 涙で掠れた声なのに、僕の耳には鮮明に聞こえた。

澄んだ声が一番届く声とは限らないのだと初めて知った。


「ボクに名前をくれたっていいだろ? ただの他人ではない証が……ほしい」


 それは僕が橘花に求めていたこと。

橘花が与えてくれなかったもの。瑠璃はそれを僕に寄越せと言っている。


「……ぼくは、」


 ふいに、アスファルトに黒いシミができた。

それは瞬く間にアスファルトの表面を覆いつくしていく。

また雨だ。


「瑠璃、こっちだ」


 僕の手を握る瑠璃の手を握り返し、電話ボックスの中に瑠璃を入れた。

風邪をひかすわけにはいかない。


「……奏多も」


 二人では手狭な電話ボックスの中に引っ張り込まれた。

ドアを閉めると、意図せずして見つめ合う距離だ。


「……誰かに、見られたらどうするんだ」


 横目で外を見ると、勢いよく地面を叩きつける雨で水煙が舞っている。

さっきまで見えていた筈の周囲が見えなくなる。


太陽が隠されていき、一気に暗い世界が広がった。


「構わないよ、奏多となら」


 赤く腫れた目尻が痛々しかった。

でも、それ以上に嬉しさが込み上げてきたように思う。


「……瑠璃」

「ご、ごめんね。ほんとにボクってズルいんだ。弱ってるところを狙ってるんだから、最低だよね……」


 頬を赤く染めて瑠璃は目を逸らす。

水の滴る青髪が瑠璃の額に張り付き、鼻先にかけて水滴を垂らしていく。

このままじゃ風邪を引きそうだ。


 濡れているのは僕も同じで、前髪から落ちた雫が瑠璃の胸元に吸い込まれた。


「こ、このままじゃ二人とも風邪引いちまうな……」


 言ってみたものの、具体的にどうするかは浮かんでこない。


「………うん」


 だいぶ気温が下がってきた。瑠璃が震えているのが目に見えて分かる。

何か羽織らせるものがあればよいのだが、残念ながら自分の上着もびしょ濡れだ。


「ねぇ……もう少し近づいてもいいかな……?」

「そ、そうだな……いいんじゃ、ないか」


 寒いから暖を取ろうとしているだけ。

それだけのこと。


「ありがと」


 瑠璃が僕の身体を抱くようにしがみ付く。

濡れた衣服同士が押し合って何も暖かくはない。ジメッとした感触が広がっていく。

でも、不思議と嫌な感覚ではなかった。

瑠璃は僕の胸に顔を埋めて、まだ震えている。


 僕の中であの人が遠のいていくのを感じた。

代わりに、瑠璃がやけに近くに感じる。

あんなに遠く離れていると感じていたのに。


事実として、僕と瑠璃の距離は遠かったはずなんだ。

口では親友と言い合っていたが、自分のことを話していたのは僕だけ。

でも遠く離れていたからこそ、今この瞬間に近く感じているのかもしれない。

瑠璃が初めて自分のことを話してくれたから。


ただの他人なんて酷い言葉を浴びせてしまったのに。

強くて気高いと思っていた瑠璃を親身に感じたとき、同時に僕は目が眩みそうなほどの居心地の良さを感じた。


「なぁ、瑠璃」

「……?」


 返事は無かったが、頬を紅く染めたまま瑠璃は僕を見上げた。


「もし、瑠璃が良いのなら。橘花からの逃げ道でも良いのなら」


 今日の苦しみは今日終わりにする。

その選択肢を与えてくれたのは他でもない瑠璃だ。


「僕と一緒にいてくれないか?」


 カッコ悪い事この上ない。

好きな女に振られて。

逃げ道にしようとした人に追い付けず。罵声を浴びせた親友に想いを告げられ。

その甘い蜜に飛びついた。

選んでもらえなかった僕は、選んでくれた人を利用する。


「…………うん」


 返事は虫の音のように小さいものだった。

それでも、僕を抱きしめる腕の強さは確かだった。


 雨は勢いを増していく。

電話ボックスの中は降りしきる雨の音で包まれ、会話もままならない。


「……キ………て」


 瑠璃が呟くが何も聞こえない。僕の問い直しも瑠璃には届かない。

悲しそうな顔をしたかと思えば、少し笑って背伸びをした。


僕が何事か分からずに戸惑っていると、瑠璃はそのまま僕の唇を奪った。

状況が分からないまま、僕の唇には柔らかくて暖かい感触が広がっている。


 5秒くらい経っただろうか。もっと長かったようにも感じる。


「……へ?」


 瑠璃は心の底から笑うと目が細くなるみたいだ。いつも笑い方よりも美しい。


「大好きだよ、奏多くん」


 瑠璃は僕の耳元で、雨音に惑わされない声で言った。

どこかの誰かとそっくりな口調で。


 チクッと胸が痛むのを感じたが、その痛みは重ねられた瑠璃の唇の感触が奪い去って行った。

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