7


翌日の午後1時。

梓と合流しコンサートホールの前の群衆の列に加わった。

この辺りは人が密集していて、居心地が悪い。


「ねぇ瑠璃。なんで昨日の電話出なかったの?」

「ちょうどお風呂入ってた。あと普通にご飯のこと忘れてた」

「そんな事だろうと思ってた」


後ろで雑談する二人に後ろ髪惹かれつつ、耳に黒いイヤホンを当ててた。

ポケットの中で握っているカセットプレイヤーのスイッチを押す。

カセットテープが回り始め、音が鳴り始める。

一晩乾かすと、不調一つなく動き始めた。

カセットの方も音飛びはしていない。

やはり昔の製品は頑丈だ。


ふと、光が目を射った。

鳩が一斉に空へ舞った。

顔を上げ、光の先を探す。

速足で歩く群衆の中に不自然な人物がこちらを見つめていた。

その人物は黒いフードを深く被り、上着のポケットに手を突っ込んでいる。

フードが影を作り、男か女かさえ掴めない。


また光が射し、僕は目を閉じた。

次に目を開けた時、フードの人物はそこにはおらず。

ただ、モノラルのメロディーが耳元で震えていた。


「気のせい……?」

辺りを見渡すが、先ほどの人物らしき影は見当たらない。

眼を擦った。

不思議な感覚だった。

その時だ。耳元で誰かに囁かれた。


「失くすなよ」


聞き覚えのある声と共に、右ポケットに何かを入れられた。


「え?」


急いで振り返るが、それらしい人物はどこにもいない。

ただ、遠い歩道橋の青看板の奥に、黒いフードの人物が見えた。

だが、揺らぐ空気に幻惑されて見えなくなる。


 右ポケットに入れられたものを出してみると、それは透明なケースに入ったカセットテープだった。


「……」


忘れてはいけないような何か。

古い鏡を叩きつけられているような感覚。

カチッ。再生を終えたカセットテープが巻き戻しを始めた。


 ケースを開けてカセットを取り出すと、これが最近作られたように綺麗だった。

A面にもB面にも文字は書かれていないが、ケースの底に折りたたまれた紙を見つけた。

開いてみると、近くのコンビニのレシートだ。


「まさか……」


 印字の裏を見るボールペンで『コンサートが始まってから再生しろ』と書かれていた。

僕は嫌でも昨日のことを思い出す。

これを用意したの誘さんで、さっきのフードの人物ももしかすると……。


「……」


 思うところはいくつもあるし、今すぐ探したい衝動もある。

けれど、今はこのメッセージに従おうと思った。

橘花の演奏を聞き逃すわけにはいかないから。


 開始時刻までの数分がやけに長く感じた。


◆◇◆


コンサートホールは静かだった。

反響する音の一つもない。

光はステージのみを照らし、観客は隣に座る者すら認識できない。

やがて主催者の挨拶が始まった。観客は拍手で答える。

1人目の演奏者はヴァイオリニストの女性。

年齢は20代そこら。ステージの真ん中で一礼し、首元にヴァイオリンを当てた。

そうして弦を震わせる。


セレナード第7番ニ長調K.250(K6.248b)《ハフナー・セレナード》ロンド


この上なく甘美な旋律と、ヴァイオリンの響く音色が上手く調和している。

モーツァルトはどんなことを思いながら作曲したのだろうか。

その意図を知ってか知らずか、優美に語り始める。

ヴァイオリンに聞き入り、浸る。瞼を閉じれば浮かぶ黄昏。景色は花道、真夏の夜空。


 だが、そんな音色も僕の耳には届かず、ひたすらあのカセットテープの音に集中する。

まだ何も音は聞こえていない。


あっという間に演奏が終わった。

ホール内を大きな拍手が埋め尽くす。そうして始まったコンサートは、続々と実力ある演奏家の登場によって盛り上がりを見せていた。

だが、僕の耳はそんな音は微塵も届かず、ただひたすらにカセットテープの音に意識を集中させる。

未だに何も聞こえていない。


そうして次は橘花の番だ。

橘花の演奏だけはちゃんと聞いてあげたい。


「ねぇねぇ。次橘花ちゃんの番だよ。なんでコンサート中にイヤホンつけてるのさ」


左側から瑠璃が小声で話しかけた。


「いや、ちょっと訳あって」

「始まる前から怖い顔してたけど、関係あるのかい?」


 相変わらずよく見ているやつだ。


「大丈夫だ。どうしても気になることがあって聞いてるだけだから。橘花の演奏の時は外すよ」


 瑠璃と会話するときも再生は続けているが、やはり何も聞こえない。


「良かったのかい? 橘花ちゃんに何も言わなくて」

「あぁ。今のあいつには邪魔だろうからな」

「喜ぶと思うけど」


 瑠璃は納得がいっていない様子。


「それが邪魔なんだよ。演奏ってのは楽譜にどれだけ縛られることができるかなんだ。そこに感情は邪魔でしかない」


 決められた物を決められた通りに鍵盤を押す。

一寸の狂いもなく音色を奏でる。それが演奏なのだ。


「楽譜に従わない奏多がそれを言うんだ」


 別に従っていないつもりは微塵もない。


「時と場合に左右されるんだよ。この会場にはお偉い方々が参列してる。そういう人たちは総じて楽譜絶対主義者だからな。招待してもらってる側としては不機嫌にするわけにはいかないんだよ」

「ふーん、そういうもんか」


そして、瑠璃は僕の耳元で囁くようにこう言った。


「覚悟は決まったみたいだね、奏多」

「あぁ。感謝してる、親友」

「いいってことさ」


それっきり瑠璃が話しかけてくることはなかった。


やがて壇上には橘花が上がった。ホールの喧騒が一斉に消える。

橘花は一礼をして、ブレザーの一番下のボタンを外して椅子に腰かけた。

僕は橘花の演奏に集中するために、両耳からイヤホンを外そうとした。


『奏多くん。私の声、聞こえていますか』


 さえずりのように優しい囁きだった。

昔からよく知っている最愛の人の声。


『きっと奏多くんのことだから、今まで全然聞こえなくて音量最大にしているんでしょ?』


 その通りだ。聞き逃すとまずいと思ってボリュームを最大の10まで回している。


『そう思ったから小声で話しています。今から普通に喋るから音量は下げてね』


 慌ててボリュームを3まで下げる。いつも聞いている音量くらいだ。


『大丈夫かな?』


 囁きから普通の声に戻った。ピアノの前に座る橘花を見つめた。

橘花も僕の方を見つめていたから。


すると、安心したように微笑み、白と黒モノクロの鍵盤に指を置く。            

そして鍵盤が沈んだ。


『こほんっ』


サール番号541、フランツ・リスト『愛の夢』変イ長調第三番


いつの日か橘花が音楽室で弾いていた曲だ。

イヤホン越しでもその音色は僕の耳に届いた。

それは正の答であり、誤解の訂正だった。

その音色は弱弱しく、どこか震えている。きっと橘花の緊張の証。

しかし、その楽音に人々は飲み込まれていく。皆が瞼を下ろし、俯き、落ちていく。


その中でただ唯一。僕だけは唇を噛み締めて橘花を真っ直ぐと見つめた。


『ごめんね。あの時、返事が出来なくて』


その声には後悔があった。

なんで………。


『たくさん迷ったんだよ。けど、やっぱり上手に返事できないとだめだから……いっぱい練習したんだ。奏多くんに返事するのはこの場所だって決めてたから』


頬に温かい何かが触れる。

これは涙だと人類皆知っていること。

決めていて選択が、徐々に薄らいでいく。

こんなのズルい。

こんな返事、嬉しくないわけがないじゃないか。


『だからね。奏多くん。好きだと言ってくれて嬉しかったよ。泣きたいくらい嬉しかった』


演奏は後少し。もうすぐあの喧騒が帰って来る。

その前に、その前に。

橘花の言葉を聞きたい。

その言葉を聞いたら、一度選んだ選択肢なんて簡単に捨てられるんだ。

これが最後のチャンス。


『ありがとう、奏多くん。私もね、君のこと好きだったよ』


その言葉の続きをどれだけ僕が待ち続けたことか。


『でも、ごめんね』


 カチッ。それ以上、橘花の声が聞こえることはなかった。

ただ、ウィィンというテープが巻き戻される音が聞こえるだけ。


それは今一番聞きたくない音だった。


「ぇ……」


そして演奏が終わる。

漏れた呻きは演奏終了後の拍手で掻き消された。


「凄かったね。橘花ちゃんの演奏」


瑠璃が拍手をしながら言った。

けど僕は、返事もせずに立ち上がってその場を離れる。


「ちょ、どこ行くの⁉」

「悪い。ちょっと外す。終わったら連絡をくれ」


瑠璃の返事も待たずに僕は歩き出した。

暗いホールの階段を上って警備員のいる扉を開けてホール外へ出た。

俯いたままゆっくりと歩く。


階段を降りる直前で誰かと肩がぶつかった。


「あ、すいま……」


振りかえるとそこには黒いフードの人物がいた。


「いや、こちらこそすまない」


その声は低い。フードの影からのぞく顔は眼鏡に隠れてよく見えない。

レンズの奥の瞳が冷ややか色を宿しているように思えた。

さっきの人に似ている気がした。


「あ、あの!」


立ち去ろうとしていたフードの人物は立ち止まって振り返った。


「さっき、外で僕を見て何か言いませんでしたか?」


 少女は少し驚いた顔をしたが、すぐに元の冷たい表情に戻った。


「……いいや。きっと人違いだ」

「そうですか。すいませんでした」


軽くお辞儀をすると、フードを深く被り直し歩いて行った。

フード被った人なんて大勢いる。

ただ肩がぶつかっただけだ。

なのに、僕にはあのレンズ越しの瞳が忘れられなかった。


◆◇◆


私は奏多くんに伝えた。

きっと奏多くんを悲しませた。

それでいい。

その穴を埋めるのは、奏多くんを好きになってくれる人の仕事だから。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録(無料)

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る