6
ホテルに戻ってシャワーを浴びた後、ベッドに腰を下ろした。
南川が親切から僕の髪を乾かしてくれている。
弱風のドライヤーの音は静かで会話するのに支障はない。
「なんで泣いてたのさ。ボクが恋しくなったのかい?」
「茶化すのはやめてくれ……」
今はそういうのに付き合う気分になれない。
耳に掛かる息がくすぐったくてぞわぞわとする。
「あれが原因?」
南川が指さしたのは机の上に置かれたしわしわのレシート。
雨で濡れてインクが滲んでいる。
「………」
察しが良くて助かるときもあれば、嫌になることもあるもんだ。
「この人は誰なんだい? 字から見るに女の人だね。それもかなり年上の」
その観察眼には賞賛よりも恐怖が勝る。
「奏多が橘花ちゃん以外の女の人で悩むなんて珍しいこともあるんだね。この雨は君のせいみたいだ」
晴天の霹靂。そう言いたいのだろう。
失礼極まりない。
だけど、いつも通りの南川の姿がやっぱり、少しだけ嬉しかった。
「嫉妬したんだ。見知らぬ誰かと口づけを交わす誘さんに」
吐いた方が楽だ。南川はこんな僕を見捨てずにいてくれるだろうから。
「いざなさんねぇ……誰さ、その人」
南川は訝しげに目を細めながら言った。
僕は10年前の出来事をありのまま伝えることにした。
そこに嘘も誤解も無いよう、なるべく客観的に説明する。
「ふーん。そんなことがあったんだ」
この話は誰にもしたことが無い。もちろん橘花は知らないし、姉さんも知らない。恥ずかしい想い出だとは思わないが、誰にも知られたくなかったのだ。
これは僕と誘さんの二人だけの出来事にしておきたかった。
記憶を独占しておきたかったのだろうかと今になっては思う。
「奏多はさ、無自覚かもしれないけど」
「……なんだ」
「その人のこと好きなんじゃないの」
息が喉につっかえて上手く吐き出せなかった。
呼吸するのに失敗して咽返る。
「……なんでそうなるんだよ」
短絡的思考に反吐が出そうになる。
でも南川はいつだって思考を巡らせ、可能な限り主観を省いた解を導き出す。
それが分かっているからムカつくし、反吐も出る。
どう考えてもそんなわけがないのに、第三者から見ればそうとしか見えない自分に憤りを感じる。
「君が自分のことを偽っているからだよ」
「……」
「そんなことも分からなくなってしまったのかい? 君らしくもないことだね」
僕の返事や反応など南川にとってはどうでもいいのだろう。
たぶんこれはただの独り言。
だから僕に構わずに言葉を発していくんだ。
「自分が好きなものくらい自分で分かってろよ。何でもかんでもボクに言わせるな」
苛立ち、怒り、呆れ。そんなところだろうか。
「だいたい君はいつもそうだ。何でも分かってるフリをして他人と接しているくせに、ホントは何にも分かってない。自分のことさえ何も」
そんなことはない。
「分かってるフリなんか……しちゃいない」
「してるよ」
南川は睨みつけて言った。僕はその青い瞳から目を逸らした。
現実を宿すその瞳が僕の心を抉って壊してしまいそうだったから。
「だから奏多は3年前のあの日、ボクにあんな無責任なことを言ったんじゃないか!」
脱兎の勢いでベッドから立ち上がった南川の目は、今にも涙が零れそうなほどに潤んでいた。
「南川……?」
涙の意味が分からない。たぶん、分からないから問題なんだ。
考えろ! 僕は何をした?
何が南川を困らせた?
3年前? 中学の頃?思い出せない。
僕は何をしていた? 何をしてしまった?
ほんの3年前のことが何も分からない。
何も記憶に残っていない。
「……ごめん。なんでもないから忘れて」
手の甲で目尻を擦る南川の姿からは、とてもなんでもないとは思えない。
思い出すだけで泣いてしまうようなことがあったのは、誰の目にも疑いようがないことだ。
「でも——」
「とにかく! 奏多は自分のことを理解すべきなんだよ」
明らかに誤魔化されている。
でも、3年前の出来事が思い出せない以上は深追いすることもできない。
だから南川の話に乗ることが僕の選べる唯一の道だ。
「僕のことってなんだよ」
「君が本当に好きな人は誰だい?」
「橘花」
「即答……」
本心だから即答した。何にも変なことはない。
「じゃあさっさと自分のものにしてくれる? もじもじされてもボクがイラつくだけだ」
「それが可能なら何も苦労はしないんだよ」
南川は何も分かっていない。
分かったフリをしているのはどっちだ。
「はぁ……両想いのくせに何を言ってるんだよ。1回振られたくらいでくよくよしてんじゃないよ」
違うんだ。
1回振られたからじゃないんだ。
一度拒まれたという事実は何よりも痛ましいものなんだ。
何度でも求めることができるわけじゃない。
その壁が高く、分厚くなってしまったんだ。
好きだからとか、諦めなければどうにかなるとか、そんな綺麗事は部外者だから言える世迷言なんだよ、南川。
「橘花は僕のことなんて何とも思っちゃいないんだ。だから、僕の気持ちは届かない。地面に落ちた雪みたいに何も残らずに消えていく」
そう、届かない恋なんだ。これは。届くはずのない恋だから。
消えてしまう方がいい。
今降りしきる雨粒の様に。
意味もなく地に落ちて、誰に看取られることもなく沈んでいく。
「……軟弱だね。男って」
「…………」
そうかもしれない。
でも、そう言われるのは少し嫌だった。
傷つくから本気なのだ。
立ち直れないくらいに凹んで、寝込んで、それでも忘れられなくてまた傷ついて。
でもそれくらいじゃなきゃ、誰かを好きになんてなれやしない。
それを軟弱の一言で片づけられてしまうのは、辛いことだと思う。
そんな気持ちを知ってか知らずか。南川は続けた。
「一つだけ言えることがある。君が何もしないことを選んだら、きっと後悔が残る。けど、忘れることができるなら。奏多は誰よりも幸せになれる」
「……どうして」
聞き返しはしたが、本当は分かっている。どういう意味なのか。
「あんまり、こんな言い方はしたくないんだけどさ。橘花ちゃんには未来がないんだよ。ううん、未来を持てなかったんだよ」
「……そんなこと——」
否定しなければならないのに。
否定せずにはいられないのに。
言葉は絶え絶えで、息が詰まる。残りの二文字が音にならない。
「あるんだよ。だから橘花ちゃんは君を突き放した。2カ月前、君が橘花ちゃんに振られたとボクに泣きついてきたとき、橘花ちゃんもボクに言ったんだ。私は奏多くんを好きになったらいけないんだって」
「………」
初めて知った、そんな話。
「もう、分かるだろう? 橘花ちゃんは君のことが大好きなんだ。それでも、いや。そうだからこそ、君の未来の幸せを望んだんだよ」
初めて知る事実に、心が揺れる。目尻が熱くなる。
「少し喋りすぎてしまったね。選ぶのは君だ」
南川の聲は冷たい。
突き放すようで、怖い、苦しい。
それでも………。
それでも、選ばなければいけないのか。
このまま有耶無耶にして、何事もなかったかのように明日を迎えるのはいけないのだろうか。
「選ばないというのも、君の選択の一つさ。否定はしないしできないよ。けれどね。選ぶことは、選ばれた君の義務だと思うんだよ。ボクはね」
そんなことは分かっている。分かっているんだ。それでも、ここで選んだことが、これからの道を決めているようで。二度と元には戻らない気がして。
「一人で抱えきれなくなったら。ボクが君を受け止める。だから心配せず、自分の心に従うんだ。親友」
その言葉はきっかけに過ぎない。決めたのは僕自身だ。他の誰でもない。
でも、こうして僕に手を差し伸べてくれる誰かがいる。
それは僕にとって、最強の武器だ。
「ありがとう、南川」
だから、僕はまた立つことができる。いつかと同じく南川のおかげで。
「ふふっ。だからさ、ボクのことは瑠璃、がいいな」
仕方ない。感謝は行動で示すものだ。
「ありがとう、瑠璃」
「へっ? 今……なんて?」
ウサギのようにぴょんッと肩が震えて、顔を真っ赤に染める南川。
「どうした、親友。瑠璃がいいんじゃなかったのか?」
いつもの仕返し、蓄積した悪戯の仕返しだ。
「君ってやつは……まったく。とことん性格が悪いな」
瑠璃は呆れた表情でそう言ったが、嫌ではなさそうだった。調子に乗って名前で呼んでしまったが、どうにか収まったようで助かった。
「それと、これは乾かした方がいいね。テープの方はもうだめかもしれないけど……」
上着のポケットに入っていたカセットプレイヤーは、雨にずぶ濡れになっていた。
南川は優しくタオルで拭き、中のカセットを抜き取る。
「あれ? これなんのカセットなんだい?」
中のカセットには何も書いていない。
透明なプラスチックが剥き出しのままだ。
「昔は書いてあったんだ。水性マジックで書いてたみたいで、いつの間にか消えてた」
「ということは自作?」
「CDと違ってカセットはたいていみんな自作するものなんだ。自分だけのプレイリストを作るのが醍醐味」
「ふーん」
裏返したり、また戻したりして眺めている。
「珍しいか?」
「まぁね。君の言い方から察するに、これを作ったの奏多じゃないんだよね?」
「あぁ。それを作ったのは父さんだ」
カセットプレイヤーもそのテープを父親から中学1年の時にもらったものだ。
「何が入ってるの?」
「ただの古い流行歌が2曲だけだ」
「流行歌?」
「懐かしのラブソングってやつさ」
コーマシャルでも使われているから、若い世代の人でも聞いたことのある人は多いだろう。
何なら父親も世代なわけじゃない。
「お父さんが好きだったの?」
首を横に振る。
「好きだったのは母さんの方なんだ」
「えっと……?」
どういうことか分からないらしい。
戸惑う姿が珍しくて笑えてくる。
「よくあるだろ? 好きな子の気を引きたくて、その子の好きなものを知ろうとするやつ」
「ははっ、なぁるほど」
その話を聞いたとき、すごくロマンチックだと思った。
「僕も同じなんだ。橘花の憧れを叶えてやりたかった」
ピアノでの告白を、橘花はロマンチックだと言った。
僕はそうは思わなかったけど、橘花のためを思って弾くピアノは楽しかったのを覚えている。
ドキドキして、少しテンポが速くなったり、半音間違えたりもした。
「まだ過去形じゃない。時間はある」
「瑠璃……」
瑠璃はカセットテープをタオルの上に乗せ、優しく包み込んだ。
明日には完全に水気が飛んでいるだろう。
「叶えられるよ。奏多なら」
「え?」
「叶えるまで何度だってボクが尻を蹴ってやるから」
歯が浮きそうなセリフも瑠璃が言えば様になる。
そんな何かを持って生まれてきたのが、南川瑠璃という人間なんだろう。
「お手柔らかに頼むよ」
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