5


「ここが最強の店……?」


南川は机の上に並べられた小鉢を見つめ、若干引き気味で言った。

腰を抜かすどころか、驚いてすらくれなかった。


「そうだとも。見ろ、この旨そうな小鉢たちを。実に旨そうだ」

「ここ、行きしなに通った居酒屋じゃないか。もっとお洒落な店を待ってたボクの期待を返してくれよ……」


 残念そうにしょんぼりする南川。

反論したくなる気持ちを抑えて、諭すように言い返す。


「なかなかに酷いことを言うな。とにかく食うこった」


居酒屋は酒飲みの集まる店だ。となれば当然の様に酒の肴が置いてある。

京都の郷土料理に多い漬物も多く取り扱っているわけだ。

もちろん、姉さんの入れ知恵である。

まさかこんなことで役に立つとは思わなかった。


「まぁ、食べるけどさぁ。頂きます」


南川はぶつぶつ言いながらも小鉢の中身を口に運んだ。


「……悔しいけど。美味しい……」

「それは良かった」


 一口食べてしまえば、南川の心は料理に落ちていく。

笑顔で頬張る姿を見ると、何となく僕も元気になってきた気がした。

食事の間だけは、今日の出来事を忘れることができた思う。


腹を満たし人、ホテルに戻る。後は風呂に入って寝るだけだ。


「ねぇ、奏多。ボク先に入ってもいいかな?」

「あーいいよいいよ」

「それとも一緒に入るかい?」


南川は食事に誘うかの様に言った。

もし、本心で言ったのなら、男子的には是非とも受けたい申し出なのだが、まだ理性がまともに働いていた。

同じ過ちを二度は犯せまい。


「いや、遠慮しとくよ」

「そうかい? 残念」


南川は部屋に備えられていたバスタオルを引っ提げて風呂場に消えて行った。


「ふむ……これは惜しいことをしたかもしれん」


誰もいなくなった部屋で独り言を呟く。

本心ではない独り言呟いた時に、ツッコミをくれる人がいないのはかなり虚しいことが分かった。


45度までしか開かない窓を開ける。

遠くを走る列車の音が聞こえた。

音は空気の温度の境目で屈折するから、地表の空気が冷たい夜の方が、遠くまで聞こえるようになる。

だから、昼間なら聞こえない音でも夜になると聞こえるのだとか。


涼しい風が窓から吹き込み、頬を沿う。

自然と漏れたのは欠伸で、意図したのはため息。


もう、橘花に関わるのは止めよう。

橘花への気持ちは捨ててしまおう。

でないと橘花を傷つけるだけだ。自分が傷つくだけだ。そう、心に言い聞かせる。


イヤホンで耳を塞いだ。旧式のカセットプレイヤーの音が鼓膜を震わし、雑音は届かない。

目を瞑れば光さえ見えない。

これで、橘花の声を聞くことはない。

これで、橘花の姿を見ることもない。

それでいい。間違いなんか何もない。

瞼を下ろせば涙は流れないし、耳を塞げば自分の啜り泣きも聞こえない。


また、逃げよう。

ベッドに倒れ込み、右腕で視線を塞いだ。

1曲しか入っていないDATカートリッジはすぐに再生が終わり、無音のまま40分弱の時間回り続ける。


やがて、カチッという音と共に巻き戻しを始めた。


◆◇◆


ボクはシャワーを浴びながら考えた。

彼、冴羽奏多に何という言葉をかければよいか。

春休みにも同じようなことがあったが、あの時はボクの感情のままに彼を流して有耶無耶にした。


今の彼は、相当疲弊していることだろう。

小学校の時からあの二人の事はずっと知っている。

だからこそ、可愛そうだと思った。

だけど、哀れとは思わない。

報われない恋ほど激しく燃え盛るものだ。

それを美しいと呼ばずに何と呼ぶんだ。


何か声をかけてあげたいと思う。

言いたい事だってある。


「今更、言えないよね。好きだなんて……」


目尻を流れた温水が口に入る。

ほのかにしょっぱかった。


「お待たせ、奏多。お風呂空いたよ」


ついつい考え事をしていて、1時間弱も入ってしまった。

髪を拭きながら彼に話しかける。けれど返事はない。


「奏多?」


返事が返ってこないことを不審に思い、洗面所からベッドの方へ歩いた。

バスローブ1枚で。


「ありゃりゃ。寝てる?」


彼はベッドの上でイヤホンをつけたままで眠っている。

その腕に、時代遅れのカセットプレイヤーを抱きながら。


「あーもう。イヤホンなんてつけたまま寝たら耳を傷めるよ」


ボクは彼の眠るベッドの上に四つん這いになり、カセットプレイヤーを奪い取って、彼の耳からイヤホンを抜こうとした。

しかし、不意に寝返りをうち、ボクの体をベッドに倒す。そして、抱き枕を抱きしめるかのようにボクの体を抱きしめた。


「はは…‥眠ったまま女の体を押し倒すとは、良い趣味じゃないか」


返事はない。


「本当に寝てるのか……はぁ」


何と声をかけようか悩んでいた自分が馬鹿らしくなる程に、幸せそうな寝顔をしていた。彼はもぞもぞと動き、やがてボクの胸に顔を埋めた。


「奏多、実は起きてるんじゃないの……?」


一番爪の長い左手の薬指で頬をつつくが、反応はない。本当に眠っているらしい。


「ボクが通報したら捕まるのは君なんだからな」


これで気が紛れるのなら受け入れよう。

とても紛れるとは思えないが。


夜の8時を過ぎた。

そろそろ街が眠り始める。

ボクの瞼も閉じてしまい、夢の上映が始まった。

ボクが一番幸せを感じたあの瞬間の夢を。



———2か月前



「冴羽くん?」


 3月の初旬、白雨が降りしきる日のこと。

ボクは雨に濡れながら茫然としている冴羽奏多を見つけた。

話しかけるが返事は無く、ボクの方を見ようともしない。

足取りは不安で、顔色も悪い。何となくボクは事情を察した。


フラれたんだ、あの子に。良かった……。


良かった……?

何が良かったのだろう……。


「冴羽くん。おいで」


 本当に彼を不憫に思った。だからせめて、風邪をひかぬように、家に連れていくことにしたのだ。


 雨で濡れた彼を風呂にいれている間に、ボクはコンタクトを外して眼鏡をかける。そして、濡れた彼の服を洗濯機に放り込む。

洗濯機の乾燥機モードを初めて使った。


1時間弱かかるので、風呂から上がった彼の服を用意する必要がある。

クローゼットを開けるが、女の一人暮らしの部屋に男物の服などあるわけがなかった。

下着がないのはもちろんだが、サイズの合いそうな羽織る物一つすらない。


「バスタオルで我慢してもらうしかないかな」


 幸い、かなり大きいバスタオルがあった。

確か引き出物でもらったやつだ。

彼はゆっくりと湯船につかっているようだが、音が何一つしない。

揺れる水音も、漏れる吐息も。何も聞こえない。

 ボクは心配になって声をかけた。


「冴羽くん? 生きてる?」


 返事がない。


「返事がないなら開けるからね。何かあっても事故になるよ」


 恐る恐る扉を開ける。彼は浴槽にもたれかかり、顎まで湯船に浸かっていた。

今にも沈みそうだ。


「ちょ、ちょっと危ないよ⁉」


 慌てて湯船から彼を起こす。

服が濡れるのも気にせず、力の限り彼を引っ張る。


「………自分で、出れるから…………」


 彼はそう呟くと、ゆっくり湯船から立ち上がった。

やっと声を発してくれた。


「ぁ…………」


 相手が一糸纏わぬ姿だと忘れていた。

お湯が滴る彼の体を、ボクはしっかりと見てしまった。

痩せている割には、意外に逞しい体をしている。

当然のことながら、ボクは彼の体の全てを見た。

この場合、どっちが犯罪者なんだろう。


「拭いてあげようか?」


 立ったまま動かない彼の体をまじまじと眺めることに耐えられず、ボクはそう言った。今思えば冷静じゃなかった。

 返事がなく、自分で拭こうともしないので、仕方なしに拭いてやる。

髪をワシャワシャと拭き、上半身から下半身へと順番に拭いていく。

ボクに触れられる度、彼の体がピクッと反応する。

死んではいないようだ。

少しだけ背徳感が湧き、彼の顔を見上げてみた。


 その瞳はボクを見ていた。

けれど光は無く、虚ろな影がチラついた。3年前のボクと同じ瞳だ。


 しゃがんで彼の足を拭いていると、何かが頬を伝った。

見上げると彼の瞳からは涙が流れていた。

その時、ボクはお腹の下辺りが熱くなるのを感じた。

この感覚をボクは既に知っていた。


本当にそんなつもりは無かったのに。

だからコンタクトを外したのに。


「流石に冴羽くんが着れる服は無かったからさ」


 拭き終えた彼の手を引いて浴室を出た。


「これで我慢してくれないかな?」


 先程出してきた大きめのバスタオルで、彼を包む。

彼は何も答えなかったが、涙は止まったようだ。


 ボクは最低だと思う。

だって悪いことを考えているのだから。

どう足掻いても彼が逃げられないようにしようとしているのだから。


 ボクは彼の両手を握って先導する。ワンルームに置いたベッドの前まで、彼を連れてきた。

ボクは振り返り、彼の肩を抱くように腕を回し、そのままベッドに倒れ込む。

彼はボクが下敷きにならないように、手をついてくれた。

その反動でバスタオルはめくれてしまったけれど。


ボクの足の間に、彼は右膝をつく。

ボクの両肩の横には、彼の掌がある。

ボクの鼻先15センチには、彼がいる。


 ボクは冴羽奏多という男の子によって、ベッドへと押し倒されたのだ。

心臓はバクバクと音を立てている。

彼にも聞こえているかもしれない。

彼の全てが見えるようだった。

顔も首も胸も腕も腹も脚も。

胸の内に秘めた悲しい叫びも。


胸元のボタンを外したワイシャツが、汗ばんで体に貼り付くのを感じる。


「…………………悪い」


 長い長い沈黙の後、彼は謝罪の言葉を口にする。

ボクは悪い人間だから、彼の全てを支配しようと思った。

感情も、欲望も。

願いさえも。

だから、ボクは煩い鼓動に掻き消されながら、こう言ってやった。


「君は今日、ボクに救われる。哀傷も悔恨も……欲情も。君の汚れた感情の全てを」


 彼は分かりやすく反応を示した。

彼も傷を負った人間だ。

その傷に効く薬はないけれど、和らげる方法はあるだろう。


「ボクに吐き出してしまうんだ」


 彼の感嘆の息が漏れた。


「いいんだよ。全部ボクに吐き出しちゃえば」


 ボクは、両手を伸ばして彼を待つ。

早く彼を手に入れたかったから。


誰よりも早く。


でも、自分からは嫌だから。

彼から来てほしかったから。

責任を彼に負わせたかったから。


「ボクをあの娘の代わりにして…………奏多」


 そうしてボクは、苦しみを感じる間もなく彼の全てを受け止めた。

心の片隅が痛かったけれど、何度も何度も何度も受け止めた。

余裕の無い彼の姿が愛おしくて、とても気持ちが良かったから。

彼が愛する後輩よりも、彼を愛する親友よりも。

ボクが一番早く手に入れたんだ。

一生忘れない。絶対に、忘れない。


 気づいたら、ボクは眠っていたようだ。

目を覚ましたとき、隣には彼はいた。

ボクはベッドから起き上がる。

そして、乾燥機の中から乾いた彼のワイシャツを取り出す。

広げてみると、何となく袖を通したくなった。やっぱり少し大きい。

 部屋に戻ると、彼も目を覚ましたようだった。


「おはよう、奏多」


 自然と名前を呼んだ。ずっと、呼びたかったのかな。


「それとも、おそようかな?」


 彼は状況を理解してしまったようだ。青ざめていくのが目に見えて分かった。これはこれで面白い。


「すまない南川。僕はどうやって謝罪をすればいいのか……」


 彼は素早い動きで土下座する。

そんなに謝らなくてもいいのに。どちらかと言うと否はボクにあるのだし。


「あはは、そんなに気にしないで。辛いときは誰にだってある」

「でも……僕は……」


 本当に彼は真面目で良い奴だと思う。


「本当に気にしなくていいんだよ。ほら」


 引き出しからピルケースを出して、彼に見せる。


「勘違いしないでほしいんだけど、本当に体調の問題で飲んでるんだ」

「そう……なのか。すまない、南川」


 それでも彼は謝るのを止めなかった。だから私はこう答えた。


「ボクのことは瑠璃でいいよ。奏多」


 結局、彼がそう呼ぶことはなく解散した。

彼の方は気まずかったのか、春休みが終わってもしばらくは目を合わせてくれなかった。


◆◇◆


「なんだ、これは………」


目を覚ました僕は、自分の眠っていたベッドでバスローブの前をはだけさせ眠る南川に困惑していた。


「また僕はやってしまったのか? いやいや、思い出せ。そんな記憶はないぞ……ほんとにない……」


動揺しながらも冷静に記憶を探るが、南川とそういう行為に至った記憶はない。


「と、取り敢えず……起こすか?」


起こして状況を確認しようと思ったが、気落ち良さそうに寝息をたてていて、とてもじゃないが起こせなかった。

時刻は21時。まだ眠るには早い。


「散歩でもすっか……」


何故か南川が握っていた自分のカセットプレイヤーとイヤホンを回収し、携帯と財布を持って外に出た。

念のため「外に出てくる」と書置きもしておく。


ホテルの廊下は外国人観光客がちらほらと散見された。

金髪の外国人が浴衣を着ている姿は物珍しい物がある。

日本を満喫してくれているようで、何だか嬉しくなった。


「あ、鍵忘れてきた……」


もちろんオートロック式なので、今から入ることは出来ない。

帰ってきたときに南川が起きていればいいが、最悪の場合はフロントに頼らざるを得ない。


街灯に照らされた石畳を歩く。

観光客たちは夜の街を楽しげに歩いている。

そんな中、一人で歩く僕の姿は目立っているかもしれない。


「竹林か……」


観光客たちが目指す先には、灯篭でライトアップされた竹林があるようだ。

僕は振り返り、観光客の流れに逆らった。

特に見たいわけではない。なるべく人通りの少ない場所に行きたかった。


空いていたコンビニに入る。

アルバイト店員が気だるげな挨拶をした。どこのコンビニもバイトは似たようなものだ。

雑誌売り場で適当に雑誌を眺める。

すると横に女性が隣に立った。僕と同じように雑誌を手に取り、眺め始めた。

横目で姿を確認。白くて長い髪をポニーテールにし、赤い眼鏡をかけている。


 僕はその姿に見覚えがあった。

一度も忘れたことのない古い記憶の中のその人に酷似している。立ち尽くして呆然としていると、女性は本を棚に戻してコンビニを立ち去った。


僕は手早くお茶だけを購入し、追いかける。

無賃で立ち読みだけして出るのは忍びなかったからだ。


一歩出て左右を見渡すと、右手の遠くに白い髪が見えた。あまり近づきすぎると怪しまれると思い、3メートル後ろをついていく。


しばらくして国道367号を橋の手前で右折した。

賀茂川沿いの道を歩いていく。街灯は少ないが、今夜は月明かりで前が見える。

今の時期はもう散っているが、もう少し早ければ桜並木が見れたことだろう。


10分ほど歩き、出雲跨橋の下辺りまで来た。

ふいに女性は立ち止まり、こちらへ振り向く。

咄嗟に僕は目を逸らしたが、足を止めることはしなかった。

ここで立ち止まる方が怪しまれるだろう。


女性は僕を見るとゆっくりとまた歩き出した。まるで僕が後ろからついてきているかを確認するかのようだ。

僕はイヤホンを耳に着けた。

これなら音楽を聴きながら散歩しているように見えなくもないだろう。


 今度は振り向くことなく15分ほど歩いて、出町橋をくぐった。

ここがいわゆる鴨川デルタという場所のようだ。すぐ目の前に賀茂大橋が見える。


 ちょうどその時、雲が月明かりを閉ざした。

女性の影が見えなくなる。

賀茂大橋を渡る車のヘッドライトの光が差して、一瞬だけ彼女の姿を目にできた。

鴨川デルタの先端に彼女はいる。


だが、またすぐに見えなくなり、数10秒ほど周囲が闇に包まれた。


そして、ゆっくりと月明かりが鴨川デルタに差し込む。

やがて完全に雲は晴れる。

その時、彼女の姿はそこにない。


「……」


 周囲を見渡してみても彼女の姿は見当たらない。

ゆっくりと歩きながら最後に彼女を見た場所へ歩く。

鴨川デルタの先端、そこは石畳になっており、さらにその先には出町の飛び石という観光名所がある。


「幻、だったのか……?」


 川と陸との境目、その場所に僕は立った。


「なんだこれ」


 不自然に小石の下に敷かれたレシートを見つけた。

石をのけてレシートを拾い上げる。

内容は近所の花屋のもの。日付と時間は今日の夕方だ。

グラジオラスという花を買っている。

確か夏の花だったと思う。昔、母親が育てていた。


「……」


 季節外れの花を買ったレシートなど持っていても仕方がない。

あとでゴミ箱にでも放り込もう。

くしゃくしゃに丸めると、裏に何か書かれているのを見つけた。

再び開いて裏返す。優しく引っ張ってしわを伸ばす。


「——っ⁉」


 短い文章だった。だが、レシートの裏に書くには丁度いいくらいだ。

その文の内容は誰にでも理解できるわけじゃない。

複数の条件に当てはまる場合にのみ、解読できるものだ。


『忘れろと言っただろ、少年』


 彼女だ。やはり、彼女だったのだ

僕は慌てて右や左に彼女の存在を探す。

前や後ろも探しまくった。だけど、彼女の気配はそこにない。

静かな月の明るい夜が広がるだけだった。

ただ立ち尽くして空を見上げる。


「僕は……」


 どうしたいのだ。

彼女に会えたところでどうしようというのだ。

泣きついたところで現実は変わらない。

仮に彼女が手を差し伸べたとて、別れを拒むことはできない。

僕に何もできない様に、彼女に何かできるわけじゃない。

大人が万能じゃないことを今の僕は知っている。


それは僕も同じ。

自分が大人になったところで万能になれるわけじゃない。

何にもできない小僧が無意味に歳月を重ねただけだ。


「あなたに……」


 けど、僕は彼女に会いたいんだ。

彼女に会ってただ一言「諦めるな、少年」と言ってほしいんだ。

10年前、そう言ってくれたように。

あの時の彼女と同じ歳になった僕には分かる。

それが何の根拠もないことを。ただの気休め、ただの慰めだとしても。

 強い風が僕の前髪を揺らしながら吹き抜けていく。

少し湿り気のある風だ。ふいに視界に花びらが舞う。白とピンクの混じった花びら。


「これは……」


 グラジオラスの花びらだ。

それは賀茂大橋の歩道から舞い散っていた。

そこには口づけを交わす男女の姿。

 僕はやっぱり所詮ただのガキだった。

そして、彼女は僕が思っているよりもずっと大人だった。

たなびく髪で顔は見えない。合間から見えるのは眼鏡の赤いテンプル。


ずっと求めていた懐かしい白く艶やかな髪が、月明かりに照らされてキラキラと煌めいている。


相手の男など僕の網膜に映らない。

風に舞うグラジオラスの花びらが邪魔をしたから。

白い姿が色鮮やかに見えたから。口づけを交わす彼女の姿が美しすぎたから。

目を奪われた。

心もここにはなかった。


 刹那、雷鳴が轟いた。

幻聴ではないことを、数秒後の激しい雨音が教えてくれた。

橋の上の二人を水煙が消し去っていく。完全に見えなくなるまで、1分とかからない。僕はぼんやりと二人のシルエットを見つめていた。


 再び、雷鳴が轟く。

賀茂川のゴォォと不気味な音を立て始める。

目の前の鴨川の水量が目に見えて増えていく。


「……」


 頬は滴る雨で冷めている。指先と足先の感覚は既に無い。

この場所に居てはいけない。そうは思っても、身体は動かない。

木々の根っこのように足が重たくなっている。

 空を見上げた。ついさっきまで綺麗な月が見えていたのが嘘のような曇天だ。


「うぁぁぁぁぁぁッ‼」


 鉛色の空に叫び声が溶けていく。

何に対して僕はムカついているんだろうか。

なんで僕はイラついているんだろうか。


分からない。

分からないことが、苛立ちを指数関数的に加速させている。

だから、唯一理解できている苛立ちという感情だけを吐き出すように、曇天の空に叫び散らかした。


 三度、雷鳴が轟く。

そして、僕は逃げ出した。

降りしきる雨が身体を濡らす。36度ちょっとの体温を奪いながら。


橘花っ‼


想い人の名を心の中で叫ぶ。


僕は……どうしたらいいんだよ……。君のことが大好きなのに……あの男に嫉妬した……。


「最低だ……僕って」


 来た道を走って戻る。

もう辺りは完全に闇だ。

上の車道を走る車のヘッドライトだけが僕の行く道を照らしてくれる。


階段を上って鞍馬口通りに出る。そのまま進んで府道32号と合流した。

立ち止まり、空を見上げた。止むことを知らない雨が僕の頬を打つ。

少しは人の気配がするが、明るくはない。コンビニの灯りがただただ眩しかった。


「あれ、奏多じゃないか。どうしたんだい? 随分とびしょ濡れのようだけど」


 悪戯っ子のように笑う声だ。

今、心の中でその声を求める自分がいた。

もしかすれば僕をまた助けに来てくれるんじゃないかって、期待していた自分がいた。

彼女が僕を見捨てても、僕を見捨てないでいてくれるその人を。

どれだけ僕は情けないのだろうか。


「南川……」

「ふふっ。ボクのことは瑠璃、でいいよ」


南川はコンビニ袋を右手に、傘をさして電柱の前に立っていた。


「入りなよ。そんなに濡れていたらもう遅いかもしれないけど、ずっと濡れているよりは幾分かマシだろうからね」


溢れかけていた涙を雑に腕で拭って、南川の左側に並ぶ。

もう遅いだろうが、南川に涙を見られたくなかった。


「…………」


 何か喋ろうと口を開こうとすると、咽びそうで声にならない。


「君が泣いているなんて珍しいじゃないか。そんなに泣いていると、からかいたくなるだろう?」


南川の冗談に反論することも出来ず、僕はまた黙り込んでしまう。


「………」

「ボクらは親友だ。なら悩みの一つや二つ、聞いてやるさ」


 南川は少し上を見ていた。何かを思い出しているかのようだ。


「ふふ、仕方ないぁ。また、ボクを押し倒すかい? それで君が救えるなら喜んでこの身を差し出してあげよう」


 もちろんそれが冗談だってこと、僕はよく知っている。本気だったらこんなこと南川は口にしない。


「……助かる」


 でも今の僕には、南川の冗談を訂正するだけの体力は残っていなかった。


「あらま」


 感情の籠っていない感嘆詞からは、南川の感情が読み取れる気がした。


「それじゃまずは部屋に戻ってシャワーに浴びてからだね」


 くすくすと笑いながら、歩みを進める南川。

深くは聞かないその態度が、今の自分にはありがたかった。


やっぱり南川は、また僕を助けてくれている。

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