6
『午前10時に音楽室に来て下さい』
ゴールデンウィーク2日目の午前9時、珍しく橘花からメールが来たかと思えば、それは一方的な内容だった。
しかも当日の1時間前だ。
無視してもいいのだが、仮にも好意を抱く相手からのメールなので無下には出来ない。
眠たい目を擦り、制服に腕を通す。
「何が悲しゅうて休日まで学校に行かねばならんのだ……」
ため息交じりに呟く。
自分の単純さには呆れを通り越して酔狂さを感じる。
リビングには新聞を読む父と、鼻歌を歌いながら編み物に勤しむ母、退屈そうにパソコンをいじる姉さんがいた。
「あれ、奏多どっか行くの?」
画面から目を移した姉さんが、聞いてくる。
特に黙っておく理由もないので、手短に答えた。
「学校」
「なんで」
「呼ばれたから」
「誰に?」
「橘花」
「私も行こうかな」
姉さんの突拍子もない申し出は、連休を暇に過ごしている証拠だろう。
よほどすることが無いのか、姉さんはパソコンであやとりの解説を眺めていた。
ちなみに、あやとりをする姉の姿は17年間で一度も見た記憶が無い。
「なんで」
「ゴールデンウィークにすることが無いから」
あやとりでもすればいいのに、と思った。
「あっそ」
僕は机の上に置かれたパンを咥えて玄関へ向かう。
どうせ姉さんなら、放っておいても何とでもするだろうから。
「準備するから待ってて」
「どのくらい」
流石に1時間とかは待てない。
「5分」
だん兵衛うどんができるじゃないか。
「50秒で支度しな」
「3分で勘弁して」
顔の前で両手を合わせ、延長を乞う姉上の姿は、実に情けない。
だが、どう考えても先日の自分の方が情けない。
だから僕はこう答えた。
「3分間待ってやる」
姉さんは3分と25秒後に支度を終えた。
とある大佐ならブチ切れて発砲していたところだ。
姉さんを引き連れて、午前10時の15分前に高校に到着した。
「久しぶりに校舎に来たらやっぱり懐かしいね」
卒業以来の母校を懐かしそうに眺める姉さん。
「卒業して2年も経てばそんなもんだよ」
運動部は祝日も関係無しに活動しているようで、正門は開いていた。
正面玄関は流石に閉まっていたので、来客用の玄関から入る。
そして、他愛もない会話をしながら階段を上り、2階の音楽室を目指す。
勿論、途中の道では誰ともすれ違う事はなかった。
「あんたさ。こないだの今日で橘花ちゃんにアタックしないわよね」
音楽室の扉に手をかけようとした僕を姉さんが止めた。
攻撃をするつもりは端から無いが、そう意味ではないことは分かる。
「少なくとも姉さんがいる前ではしない」
例え姉さんがいなくといも、アタックする勇気は今の僕にありはしない。
「よかった」
姉さんの安堵した顔を見てから僕は扉を開けた。
音楽室の中にはギターを抱え、ヘッドフォンをしている女子生徒が一人だけ。
青髪に白いヘッドフォンを乗せていると、白波のようにも見える。
「あれは……橘花ちゃんじゃないよね?」
「うん」
この学校の生徒ではない姉さんには女子生徒が誰なのか分からないが、僕にはすぐ分かった。
女子生徒はエレキギターにヘッドフォンを差し、何かを弾いている。
たぶんこちらの存在には気が付いていないのだろう。
その女子生徒の肩をとんとんと叩く。
「うわっ⁉ びっくりした!」
「うぉっ…‥こっちが驚いたぞ」
女子生徒は体をビクッとさせ、悲鳴を上げる。
これは仕方ない。同じ状況なら僕でも悲鳴を上げて、殴りかかるだろう。
ヘッドフォンを首にかけ、女子生徒は僕の方を向いた。
「なんだ、奏多か」
安堵とも不満とも違う顔を浮かべた。呆れた顔に近いだろうか。
「なんだとはなんだ。失礼な奴だな」
だいぶ南川と普通に接することができるようになってきたと思う。
もう1ヵ月以上の前の出来事をいつまでも引きずってはいけない。
「ん? そっちにいるには奏多くんの彼女さん? え、浮気?」
駄目だった。何が浮気だ。何がだ、クソ。
「……」
僕は黙り込んでみる。
どういう反応をすればいいか分からなかったからだ。
「奏多?」
「お前、分かってて言ってるだろ」
無論、姉さんのことではない。
「バレた?」
南川は感情の変化を態度に出すことなく、ただ呟いた。
「バレバレだ」
「で、誰なの?」
首を傾げる南川。
ずっとそういう態度をしていれば、可愛げもあるもんだ。
「僕の姉さんだ」
それを聞いた南川は目を輝かせ、入り口付近で佇んでいた姉さんに近寄った。
「どうも初めまして。南川瑠璃です。奏多さんとは同じクラスでお世話になってます」
姉さんの手を握ってぶんぶんと上下に振る南川。
実は初対面ではなく、中学の時に顔を合わせたことがあったりする。
まぁ、下校中にばったり会った程度なので覚えていないのも無理はない。
「はあ、どうも」
姉さんは若干引きながらに返事をした。
南川と初対面の人は大抵こういう反応になる。(厳密には初対面ではないがそこは保留)
「いやぁーべっぴんさんですねぇ」
笑いながらも南川は、姉さんの両手をまだ離さない。
「おい、南川。おっさんみたいなことを言うな、みっともない」
姉さんの顔が引き攣っており、無言でヘルプと叫んでいた。
珍しい姉の姿をもう少し見ておきたい気持ちが無きにしも非ずだが、こういう時に恩を売っておくのも悪くない。
「えー事実なんだしいいじゃん」
実の姉を褒められて悪い気はしないが、それが南川の発言だと思うと恐ろしくもある。
「そんなことより橘花はどうした? 南川も橘花に呼ばれたんだろう」
「いいや、私は違うよ。むしろ呼んだ側」
やっと姉さんの手を離した南川は、もといた椅子に座り、ギターを手にした。
紅いエレキギターは随分を使い古されているようで、どこかくたびれて見える。
思えば中学時代から使っていたような気がする。
「そうか。では要件を聞こう」
ギターで弾き語りをするのかと思い、こう言った。
おおかた自分が連絡するよりも、橘花を通した方が僕を引っ張り出せると踏んだのだろう。
「それは私からじゃなくて橘花ちゃんが言うよ。まだ全員揃ってないしね」
どうやら焦らすつもりらしい。
南川はオーディエンスが多い方ほど精彩を放つタイプだろう。
「まだ10時まで時間あるし…‥仕方ないか」
「そそ、適当に座って待ってなさいな」
南川は机に置いていたヘッドフォンを首にかけた。
「そうさせてもらう」
姉さんは適当に選んだ窓際の席に座り、その近くに南川が腰かけてギターを弾き始めた。対する僕はピアノ奏者用の椅子に座った。
少し座面が低く感じる。たぶん最後に座ったのは橘花だろう。
「やっぱりそこに座るんだね、奏多は」
完全に無意識だった。だから、南川の言葉にハッとしたのだ。
「……つい癖で」
ピアノを止めたことを知っている南川は、確信を持っていた様だった。
場所を移動しようと立ち上がる。
「いいじゃない、そこに座れば。君には似合ってると思うよ」
南川は鼻歌でも歌い始めそうなほど上機嫌に言った。
それは無責任な部外者の発言に過ぎないのに。
「…………」
僕は何とも言えない気持ちだった。本当はピアノ辞めたくなかったんだろうか。
まだまだ弾き続けたかったんだろうか。
そんなことを考えてしまう。
「せっかくだし待ってる間一緒に弾こうじゃないか」
だから、南川のこんな質問にも返事をしてしまうのだ。
「……何をだ?」と。
すると南川は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「なんだその顔」
「即答で断られると思ってたから……」
なるほど、1本取れたというわけだ。
目をぱちぱちとさせる南川の手から、ピックが離れた。重力に導かれながら、ピックは床に落ちていく。
すぐに拾おうと伸ばされた南川の手が間に合うはずもない。
「よっと」
前に屈んでピックを拾い上げると、南川は真っすぐと僕を見つめてきた。
どうしてかと聞いているんだろうが、どうも南川の顔を見ると目を背けたくなってしまう。
だから目を校庭の方へと逸らしながら答える。
「まぁ、そうだよな。たぶん……この場所に橘花がいないから」
「……そうかい」
それ以上問い詰められることは無かった。
「じゃあ私が適当に弾くから奏多も適当に合わせて」
「難しい注文だ」
「あ、じゃあリクエストいい?」
黙って会話を聞いていた姉さんが手を上げた。
「どうぞ! あ、えっと……」
先ほど盛り上がった二人(南川だけ)だが、姉さんの名前を南川は知らない。面白そうなのでこのまま黙っておくことにした。
釈然としないのは、南川が姉さんのことを忘れていることだ。
姉さんが忘れていても、南川だけは覚えていそうなのに。
「美しい影と書いて、美影。冴羽美影よ」
「じゃあ美影さん、どうぞ」
指名された姉さんは、わりと上手な口笛でリクエストした。
その曲は誰もが知っており、音楽の入門用としても広く浸透しているクラシック曲だ。
「きらきら星か。僕は大丈夫。南川は?」
「余裕のよっちゃん、合点承知♪」
指をパチンと鳴らした南川の行動は意味不明だが、いつも通りだ。こいつの行動を100パーセント理解できたことなどただの一度も無い。
「……うぜぇ」
南川は鼻歌を歌いながらエレキギターとスピーカーを配線で繋ぎ、何度か弦を弾いて音量を確かめた。
準備が整うと親指を立てて僕に向けた。
「僕から始めればいいのか?」
「1番を弾き終わったら私も入るから」
「へいへい」
先ずはノーマルの楽譜に忠実にきらきら星を弾く。なんてことない入門の楽譜。
ピアノを止めて久しい僕でも、まだ楽譜無しで引ける曲だ。
1番を弾き終わったところで南川がギターで主旋律を弾き始めた。
僕は演奏の速度を上げる。
ストリンジェンド——次第に速く、白と黒のモノトーンの鍵盤の上で指を跳ねらせる。
きらきら星変奏曲。
かの有名なモーツァルトがアレンジしたきらきら星だ。
彼の自由奔放な感性によって単調なリズムが変幻自在なリズムへ変わっている。
しかし欠点がある。
楽譜通りに弾くとピアノは綺麗な音がなるが、ギター曲ではないのでアレンジ無しでギターを弾いても綺麗に合わない。
どうしても幼い音楽になるのだ。
「すごい‥…」
だと言うのに、南川の弾くギターサウンドはカッコよく仕上がっている。
そうして、ピアノとギターの音色が一つの曲として成り立っている。
僕はただ楽譜通りに弾いているだけなのに。
南川の実力は知っていたつもりだったが、ここまでとは思わなかった。
負けてられないなぁ。
対抗するべく演奏の雰囲気をポップに変えた。
「ぁ……」
誰かとも知れぬ漏れ声が聞こえた。
カッコいいエレキギターに合わせるのが、普通に弾いたピアノじゃダメだ。
だから、遊んでやる。
ピアノなんて所詮は遊びなんだから。今までは綺麗に、美しく。
これからのピアノは楽しく弾くんだ。
もう楽譜に忠実になる必要なんてない。僕には自分が何を弾いているのかさえ分からない。ただ、自分が奏でたいと思った音を奏でる。
あぁそうか。僕はピアノが好きなんだな。
弾む。弾む。弾む。
指が、足が、自分も思っていなかった程に動く。瞼を下ろしても闇はない。
耳から聞こえてくる音色が世界を彩らせていく。
自然と笑顔で溢れる。
過ぎていくはずの時間が、終わりが来るはずのメロディーが、消えて行くはずだった想いが、全てが反転していく。
時間は止まり、メロディーは永遠に。
思いは再び高く舞い上がる。
音楽室にいた3人が目を瞑り音色に耳を傾けていたその時、無作法にも携帯の着信が鳴り響いた。その音で演奏を止めてしまう。
「あ、ごめん」
咄嗟に携帯を取り出す姉さん。
だがもう時すでに遅し。完全に興が冷めてしまった。
「もうやめちゃうの?」
僕とは反対に南川にはまだ続ける意思があるらしい。
「約束の10時だからな」
「そっか。やっぱり、奏多はピアノが上手だね。聞いてて落ち着く音色だ」
誰かに演奏を褒めてもらうのは、やっぱり心地が良い。
本当に褒めてもらいたい相手は一人しかいなかったとしても、音は空気を伝播するものだから、他の誰かにも届くのだ。
「ありがと」
弾くのを辞めたのは、興が冷めたからでも、約束の10時だからでもない。
本当は心の限界を感じたからだ。
あの狂ったようにピアノを弾いていた日々を思い出して、涙が零れそうだったからだ。
努力は必ず報われる。僕の嫌いな言葉だ。
報われない努力の方が大多数だし、その言葉で人の選択肢を奪う事だってあるから。
たった一人の為にピアノを弾き続けた日々は、確かに美しい想い出としてアルバムに保存できるだろう。けれど、結果が伴わなければ無駄でしかない。
何も得られなかったのだから。
だったら、そんなものはすぐに捨てなければならないんだ。
もうこれで最後だ。時間の無駄だったとハッキリわかったのだから。
「また弾いてみせてよ」
南川は優しく言ってくれた。僕の真意を分かっているというのに。
「……気が向いたら」
もう弾くことはないだろう。この演奏で割り切ったのだから。
自分がピアノを好きでも、ケリを付けることができたのだから。
「南川、あと誰が来るんだ?」
話を逸らすために、忘れかけていた本題に舵取りをしてみる。
「弥生と橘花ちゃん」
「梓も呼んだのか?」
「人数は多い方がいいんだってさ。ほら、弥生も軽音部の関係者みたいなものだしさ」
「梓も不幸だな。部員でもないのに放課後に付き合わされて」
嫌そうな顔をして悪態をつく梓の顔が目に浮かぶ。
「それはあんたも同じにゃ」
「にゃ、はやめろ。気持ちが悪い」
「あらら、弥生は可愛いって言ってくれるんだけど」
何の前触れもなく猫娘化されても可愛くない。
もしや誰にも言えない悩みを抱えていて、その弱い心が化け猫にでも付け込まれたんだろうか。
「梓の言うことの7割は適当だ」
この発言にもソースはなく、適当である。
「承知の上よ」
たぶん、南川の返事も適当。
「そうだった……君は梓に対してそっちだったな」
しかし、これは本人から聞いた発言だ。いつも適当に話す南川だが、あの夜の南川の発言は間違いなく真実だ。
「それは言っちゃいけないよ、奏多」
微笑むと言うよりは、強がるように南川は呟いた。
それから三人で梓と橘花と待ったが、30分経っても姿を見せる事はなかった。
◆◇◆
私はどうしてあの時、答えなかったのだろう。
自分の感情に嘘をついてまで、大好きなあの人を苦しめたのだろう。
自分には資格がないから?
自分には時間がないから?
自分には勇気がないから?
自分が宇垣橘花という人間だから?
またそうなんだ。これからもそうなんだ。
あんな演奏を私は聞いたことがなかった。
聞かせてくれたことがなかった。
あんな音を奏でられる人だって知っていれば、今はもっとよかったはず。
そう願う事も出来たのに。震える手を握る微かな意味を見出せたのに。
「……ばか」
そう呟くことでしか憧れを渇仰できなかった。
こんな弱い自分を許してください。
ごめんね、奏多くん。私も大好きなんだよ、あなたの事。
屋上で両足を抱えて空を見ながら考えた。
誰もいない春の空を全部二人占めに出来ればいいのに。
貝寄風が髪を優しく揺らし、静寂が頬を撫でる。
「早く……夏がくればいいのに」
夏が来ればこの感情と不便な体にさよなら出来るから。毎年鬱陶しかった蝉の鳴き声が今は酷く恋しかった。
「どうして、上手くいかないんだろうなぁ……私は」
空を見上げていると、屋上の扉が開く音がした。
私は目尻に浮かんだ涙を制服の袖で拭いとる。
「瑠璃の後輩……」
不機嫌そうな声だ。声の主は真っすぐ歩き、私の隣に座った。
「梓さん……」
その人の名を呼ぶ。梓さんは、私の方に目もくれずに空を見上げながらストローを咥えて、ミルクティーを飲んでいた。
「どうしてこんな所にいるんですか」
私の質問が聞こえていないのか、返事はなかった。
代わりに、ため息が聞こえていた。気まずくなったから、私は顔を伏せて隠す。
「ねぇ、あんたたちってさ」
その言葉で、私は顔を上げて梓さんの方を見た。
「実は馬鹿なの?」
淡々と発せられたその言葉からは、意図は汲み取れなかった。
ただ私の頭の中に疑問符だけが浮かんでいく。
「……?」
返事することも出来ずに、首を傾げてしまう。
「はぁ……なんで私が説明しなきゃいけないのかなぁ」
紙パックのミルクティーを飲み干し、手で握り潰した梓さんの表情は寂しそうだった。私はやっぱり何も言えなかった。
「あなた、あいつのこと好きなんでしょ」
「……」
鳥肌が立ったかのような感覚に見舞われた。
腕をさすってみるが、鳥肌は立っていない。
「どうして私が冴羽先輩のことを好きだと思ったんですか?」
だめだ。これじゃあ図星でイライラしている人みたいになる。
「名前を出していないのに、あなたの中で特定の人物に変換されてるわよ」
「あ……」
しまった。まだ誤魔化せるだろうか。
「共通の知り合いが冴羽先輩しかいないからです」
とりあえず適当な嘘を口にする。
「……なんだ、やっぱりただの馬鹿なのね」
そう言った梓さんは、立ち上がって屋上の扉の方へと歩いて行った。
「待ってください! どういう意味なんですか、私が馬鹿だって 」
ドアノブにかけていた手を動かさずに、梓さんはこちらを向いた。
「だってそうでしょ。計算も証明も根拠も要らずに確定させることのできる答えを知っていながら、それを認めてないんだもの」
梓さんの言葉は、回りくどくて意味が分からない。
「私が冴羽先輩のことを大好きだって、梓さんには分かるって言うんですか!」
声を荒げそうになるのを必死に抑えながら言った。
「へぇ……」
梓さんは、さっきよりも不満そうな顔になった。
「あなた、馬鹿なんじゃなくて、頭の中がお花畑なのね。それも枯れアザミ」
私はナイフで心を抉られたような錯覚をした。枯れ際の花だと言われ、自分でそれを否定ができない。本当に枯れ際だと思うから。
「私はね。あなたを見るとイライラする。あなたは彼から愛されている事実に甘えているだけ。浸っているだけ。優越感に抱かれながら悲劇のヒロインを演じているただの阿呆」
「っ……」
私は言葉が出てこなかった。
梓さんの本気が覗えて、その熱さに体が焼かれる痛みを感じる。
「私にはあなたが理解できない。理解できなくて気持ち悪い」
感情の嵐に私は立ち尽くすしかなかった。
「私は好きになった人には幸せになってほしいと思うわ」
梓さんは自分に呪いをかけるように言った。
「だけど、あなたはそうじゃないのね」
違う。違う。そんなことはない。
私は本当に奏多くんに幸せになってほしくて……。
そんな私の心を知ってか知らずか、梓さんは冷たい一言を放った。
「彼の幸せを願うなら、彼の前から消えて。1日でも早く。1分1秒でも早く」
それが最善手なことは分かってる。
でも……できないよ、私には。
「……不愉快よ、あなた」
バンッと勢いよく屋上の扉は閉められた。
その音が鼓膜に貼りついてしばらく消えてくれなかった。
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