第2章 揺れる想い

1

広い広いコンサートホールに鳴り止まない拍手が響く。

前から後ろから、右から左から。気が狂いそうになるほどの喧騒、のちの静寂。

静けさが向かった先は光り輝くあのステージ。

黒光りするピアノとその椅子が置かれた質素な舞台。


けれどここにいる人はそのステージをそわそわしながら眺める。

ある女性は成功を祈る。

ある男性は冷静を保とうと息を吐く。

そして少年は今、舞台に上がった。

額に汗を浮かばせ、ぎこちない足取りでピアノへ進む。


少年はピアノの前で90度右に体を向き変え、観客に向かってお辞儀した。

そしてピアノに向き合い、椅子に座った。

少年はゆっくりと両手を鍵盤の上に添える。コンサートホールは静かに、けれど高らかに鼓動を打つ。

少年の演奏を心待ちにして、耳を傾けながら。


白い鍵盤が沈んだ。

流れたメロディーはピアノではなく、うるさい電子音だった。

それは即ち目覚まし時計の音。

そして冴羽奏多は目を覚ました。


「……うっさい」


悪態を吐きながら目覚まし時計を止めた。

上半身を起こすと頭がずきずきとした痛みを訴える。


「あそこに今度は橘花が立つのか…………」


思えば気まぐれで始めたピアノに随分とのめり込んでしまったものだ。

橘花のことを笑う事なんて出来やしない。


「奏多、起きてる?」


姉さんが扉をノックして言った。


「起きてるよ」

「早く準備しな。橘花ちゃんが迎えに来てるよ」

「うん」


今日は京都に行くことになっている。

舞鶴市も京都なのだが、辺鄙な場所にある故か都市部のことを京都と呼ぶ。

京都市に行くのは、市のコンサートホールで行われる演奏会を聞きに行くためだ。

このコンサートはプロからアマチュアまで実力があれば経歴年齢不問で招待される。


今回は橘花が招待されたということで訪れることにした。

2泊3日の京都小旅行である。


僕は洗面所で顔を洗い、出掛ける時に着る普段着で身を包んだ。

昨日の間に準備しておいたスーツケースを引き、リビングに向かった。


「あ、おはよう。奏多くん」

「うん、おはよう」


リビングには、母によって歓待されている橘花が座っていた。

ほう……赤いスカートに黒タイツか。

悪くない趣味だ。スケ具合から見るに、60デニールくらいか。

この間姉さんが買ったファッション誌に載っていたくらいのスケ具合だ。


僕が橘花の服装チェックをしていると、背後から姉さんが小声で話しかけた。


「あんた今えっちなこと考えてんでしょ」

「馬鹿言え。60くらいかと思っただけだ」

「何が?」

「デニール数」

「きもっ」


 ドン引きされた。


「自覚はあるから心配しなくていい」


 ドン引きされても文句は言えない自覚はある。


「泊りがけだからって変なことしちゃだめよ」

「別に二人ってわけじゃないからしたくても出来ねぇよ」


 あ、墓穴を掘ったかもしれない。見逃してくれ姉さん。


「あらそう、したかったんだ」


 姉という生き物は、取れそうな揚げ足を絶対に見逃さないものだ。

取ったら取っただけ報酬がある歩合制なのだろうか。


「……」


姉さんはニヤニヤとしながら僕の背中を叩き、どこかへ行ってしまった。


「悪い、またせたな」

「大丈夫、待ってないよ。どうせ寝てるだろうと思って早めに来たからね」


 ティーカップを置き、橘花がこちらに顔を向けた。

少し化粧をしているのか、ほんのり頬が紅い。

可愛いと思う。いや、可愛いと断言できる。


「でも早めに出た方がいいかも」

「どして」


 どうせならもうちょっとこのまま橘花を眺めていたい。


「瑠璃先輩って朝が弱いらしいから」

「あの完璧な南川が、ねぇ」


 意外だと口にしながら、僕の頭の中には「おそようだね」と言う南川の姿が浮かんだ。


「起こしに行こっか」

「遅れられる方が問題だしな」


橘花はお茶を飲み終えたカップを母に渡して一礼して玄関へ消えていった。


「それじゃあ、母さん。僕も行ってくるよ」

「気を付けてね」

「うん」


玄関へ出ると、橘花がしゃがみ込んで靴を履いていた。


「なんで革靴なんだ?」


 タイツ越しの足を眺めていると、自然と靴に目が行った。


「演奏する時は制服だからね。靴を何足か持っていくのは面倒くさいし」

「そりゃそうだ」

「よし! 行こう」


橘花は気合を入れるかのように頬を叩き、元気に玄関の扉を開けた。

僕は休日の外出を疎ましく思いつつ、橘花の後に続いた。

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