4


今日の授業を全て終えた僕は靴箱の前で懐かしい音を聞いた。

姉さんからの「今日は夕飯いらないから」というメールへの返信の手を止めてしまった。


サール番号541、フランツ・リスト『愛の夢』変イ長調第三番。

『愛の夢』の中でも最も有名な第三番だ。


「……」


別に体が疼いたわけじゃない。ピアノが恋しいわけじゃない。

ただ、その音色に背中を押された。その悲しい旋律に。


気付いた時にはもう、音楽室に足を運んでいた。

けれど、扉を開ける勇気はなかった。橘花がそこにいると知ったから。

呼吸が荒れる。手に汗が浮かぶ。頬に熱が帯びる。膝が笑う。

涙が溢れそうになる。

ああ、駄目だ。これ以上はもう……心が泣いてしまうから。


「……くッ」


僕は音楽室の扉に背を向け、その場を後にした。

数分前と同じように靴箱から靴を出し、俯いたまま玄関を出た。

まだ、心臓は煩いままだ。その煩さを紛らわすためにイヤホンを耳に当てた。

時代遅れのカセットプレイヤーがテープを回し始める。

流れ出すのたまたま持ってきた20年前の流行歌。

会いたいだの寂しいだのと難しい言葉を使って歌っている。


 僕は海に向かって歩き出す。家に帰る気にはならなかったから。

商店街は賑わいがあり、人の数が多い。これからもっと増えるだろう。


川沿いの道を歩き、海へ出る。

こちらはやはり人が少ない。まだ明るいため、わずかながらに人はいるが、散歩やジョギングをしている人ばかりだ。

長居する人はいないだろう。


 コンクリートの堤防に腰掛ける。海を眺めるのが昔から好きだった。悲しいことがあった時、嬉しいことがあった時。相反する感情の波を海に投げ捨てていた。

それが心の逃避であることも知らずに。

けれどそれが自分の咽び泣きの代償と知っていたからやめなかった。

その積み重ねが今の自分だと思えば、多少は自分を誤魔化すことも出来るものだ。

僕は自分が特殊な人間だと自覚しているし、他人から指摘されても反論することはない。

特殊で何が悪い。特異さを持つ人間こそが人類の発展を促してきたのだろう。

ならば誰かと違う事に何を躊躇う必要があるんだ。

そんなことを言う人間はきっと左団扇で暮らしているに違いない。


「………どうしろってんだよ」


僕は夜の海に吐き捨てた。いつかと同じ様に。

自分の置かれた状況など知らずに無邪気に微笑む少女。

その少女を見て悲しそうに笑う父と母。その姿を少し退いて眺める姉弟。

鼻腔にこびり付いた消毒液の匂い。双眸に焼き付いた光景と、歯齦の痛み。

右手に伝わる肌膚の荒さと、耳朶に触れる静かな声音。医者の言葉では現実味の無かったことが、大人たちの空気に触れて幼いながら理解できた。


よく分からないけれど、大変な病気で、橘花がどこか遠くに行ってしまう。

その恐怖を。

僕はあの時に知ってしまったのだ。橘花の命の灯火の長さを。未来の果てを。


 再生を終えたカセットテープが、オートリバース機能により巻き戻されていく。

そうしてまた最初から再生された。正直なところもう聞き飽きていたが、止めることさえ億劫だった。

そうして、何度も何度もオートリバースが巻き戻しては再生を繰り返す。


やがて、プレイヤーの電池が切れ、曲の途中で再生が終わる。


「奏多」


丁度その時、背後から僕を呼ぶ声がした。意識を取り戻すと、いつの間にか夜だったことに気付く。

イヤホンを外して振り返ると、缶コーヒーを二つ携えた姉さんが立っていた。


「姉さん……なんでここに?」


 一瞬、GPSでも仕掛けられているのかと疑った。そんなものを買う金が姉さんに無いことは分かっているのに。


「あんたが家にいなかったからね。どうせここだろうなぁって」


 ふっ、と姉さんは笑いながら言った。GPSじゃなくて良かった。


「そっか。心配かけた?」

「ここにいなかったら心配してたかもね」


 姉さんは鼻歌でも歌いだしそうなほどに上機嫌だ。気味が悪い……。


「それは良かった」

「隣、いい?」


 僕の隣まで歩いてきた姉さんは、座りながら聞いてきた。


「もう座ってるだろ」


姉さんは誤魔化すように笑い、僕の左頬に缶珈琲を当てた。

ひんやりとした感覚が、頬の感覚を奪っていく。流石にまだホットなのが欲しかった。


「ありがと」

「今日はなんかあった?」

「……うん」


 受け取った缶コーヒーのプルタブを上げる。

一口飲むと、口の中に甘みが広がった。

随分と喉が渇いていた気がする。姉さんがプルタブを開ける音がした。


「橘花ちゃんのこと?」

「分かるの?」


 一発で悩んでいることを当てられ、思わず驚いてしまう。


「顔に書いてある」


僕は自分の頬に手を当てて表情を確認するが、別段おかしなところはない。

その様子を見た姉さんが声を上げて笑い出した。


「ごめんごめん。顔に書いてたってのは嘘」


そんなこと分かっている。反射的に触っただけだ。


「奏多のことなんてだいたい分かるよ」

「なんでさ」


 実の姉でも自分のことを見透かされているの気に食わない。


「お姉ちゃんだから」

「………説得力のある言葉だ」


姉さんは黙って空を見上げた。僕は右手の中の珈琲を回した。

姉さんは待っている。


「橘花のこと考えてたんだ」

「あんたってほんと橘花ちゃんのこと好きよね」


 姉さんはニヤニヤと不快な笑みを浮かべている。


「茶化すなよ」

「いいじゃん、事実なんだし」

「僕がそうでも向こうはそうじゃないんだよ」


 だから問題なのだ。

単純じゃないこの世を恨んで仕方がない。


「橘花ちゃんが?」


 僕は頷いた。


「本人から聞いたの?」


 首を縦に振る。あんなに甘く感じた缶コーヒーが今度は苦く感じた。


「え、なに、告白したの⁉」


 姉さんの鼻息が荒い。親戚のおじさんにこういう人がいたな。

数年は会っていないが、子どもながらに嫌いだと思っていた。


「……そんな驚くこと?」

「そりゃそうでしょ! お姉ちゃん知らなかったよー‼」


 興奮で無意識に立ち上る姉さん。それとは対照的に僕の心は冷静だった。

興奮した人を見ている第三者は案外冷静なものだ。


「姉さんには言わないよ」


 姉さんの態度にムカついたが、態度には出さない。余計に茶化されるから。


「まぁそうかもだけどさぁ……あ、そう言えば春休みに家に帰ってこなかった日あったよね。あの日か、振られたのは」


 たぶん、ビクッと肩が動いたことだろう。

それは春休みの忘れたい記憶だからだ。姉さんに対しては身構えていなかった。


「どったの?」

「いや。何でもない。頼むから春休みのことは追及しないでくれないかな」


 姉さんは沈黙で頷いた。そして息継ぎの間の後、再び問い掛けてきた。


「なんで振られたの?」


 再び腰を下ろす姉さん。


「ピアノの上手いお兄ちゃん、だとさ」

「あるあるだね。そんで今日は何があったの?」


 同情の意味を込めて髪をわしゃわしゃと撫でられた。僕は猫じゃねぇよ。


「橘花が『愛の夢』を弾いてたんだ」

「『愛の夢』?」

 思った通りの返事だった。姉さんは楽器を弾かないし、音楽も聴かない。

そこは父親の影響だろう。僕は母親の影響で音楽を聴くのが好きだ。


「クラシックを聞かない姉さんは知らないか」

「『愛の喜び』なら知ってるけど」


 ちょっと驚いた。

確かに有名だけど、クラシックの中では超有名までは言わない曲だ姉さんは『カノン』くらいしか分からないと思ってた。


「それはクライスラーだよ。『愛の夢』はフランツ・リスト」

「ふーん。それが何かあるの?」


 クラシックには興味なさそうな声色だが、話には興味があるらしい。


「僕の話を絶対に笑わない?」

「うん、笑わない」


 姉さんはいつも僕のことをからかうけど、今の表情にそういう類の意思は宿っていなかった。

だから僕は珈琲を一気に飲み干し、息を吐いてから口を開いた。


「僕が橘花に告白する時に『亜麻色の乙女』って曲を弾いたんだ。ピアノの先生が旦那に告白する時に弾いた曲なんだって」


 めちゃくちゃ痛いことを言ってるのは分かっている。

こういうのは分かる人間にしか共感されず、そうではない人間からは奇異な眼差しを向けられることも分かっている。


「私にはまったく分からないんだけど、ピアニストにとってピアノを弾いて告白するのって浪漫なの?」


 それみろ。やっぱり姉さんには分からない。


「そうだね。ピアニストは口下手が多いから。今も昔も」


 だから五線譜に想いを綴り、旋律に希望を託したんだ。

そんな純粋な心が、今も弾き継がれるクラシックには宿っていると思う。


「でもそれってさ、可否問わずだけど返事はどうするの?」

「可ならそれに見合った曲を弾くんだ。クラシック界にはそういう曲は多くあるから」


 日本の俳句にも同じことが言える。

なんならクラシックよりも、やりやすいんじゃなかろうか。告白の句と、その想いに答える句が分かりやすく残っているから。


「それが『愛の夢』なの?」

「僕が最初に言っておいたから。了承なら『愛の夢』を弾いてほしいって」

「ぅわぁ‥‥きしょっ」


姉さんが僕から少し距離を置いた。


「マジ顔で引くなよ」


 ブルーな心に、ボディブローをくらわされた感じだ。


「普通気持ち悪いよ、あんた」

「そうかな……」


 結構オシャレだと思ってたんだけどなぁ。

姉さんもそういうの好きだと思ってたのに。


「そもそもなんで、その選曲なの?」


 姉さんの疑問はもっともで、ちゃんと選曲には意味がある。


「もともと『亜麻色の髪の乙女』って詩があるんだけど」

「あぁ! あの二十年くらい前に着メロで流行った曲の歌詞?」

「いや違う。まぁニュアンスは似てるんだけど」


 『亜麻色の髪の乙女』が有名なのは、ある女性アーティストがカバーして大ヒットしたからだ。だから姉さんでも知っている。


「花に囲まれひばりと歌を歌う愛する人よ。口づけさせてはくれないだろうか? って内容の詩なんだ」

「へぇ~?」


 姉さんが気持ち悪いくらいニヤニヤしている。


「なんだよ。あくまで詩の内容であって僕のポエムじゃないからな?」


 痛いようにも感じるが、今の自分が書けるような幼稚なものじゃない。


「でもそれを告白曲に選んだってことはさ、橘花ちゃんとキスしたいって思ったからなんでしょ?」

「……」


 嫌なところを突くな……。


「ノーコメント」


 一々姉さんの話に乗っていたら、話が一向に進みやしない。


「あ、怒っちゃった? ごめんね?」


 あからさまに不機嫌な態度を取ると、姉さんは態度を一変させる。


「それでどうして『愛の夢』が返事になるの?」

「これも歌詞なんだけどさ。『愛しうる限り愛せ』って歌詞がある」

「おぉ……なんか偉そうな詩だね」


 僕も最初はそう思った。だから姉さんの反応は間違いじゃない。


「自分に心を開く者がいれば、その者の為に尽くせ。どんな時も悲しませてはならない。いつかあなたが墓の前で嘆き悲しむ日は必ず来るのだから」

「あんまり意味がわからないんだけど?」


 姉さんは本当に芸術を受け取るセンスがないと思う。

やはり読書とか音楽鑑賞は幼いうちからやっておくべきだな。


「一言で言うなら、大切な物を失ってから大切と気付くのはもう手遅れってこと」

「それを橘花ちゃんから伝えられたかったのね」


 姉さんはやっと理解したようで、小声で「そっかそっか」と呟いていた。

そうして苦笑いを浮かべている。

 どうしたもんかと悩んだように髪をいじっていた姉さんは、決心したように口を開いた。


「そんな気持ち悪いことしたから振られたんじゃない?」


 普通の人からすればそうなるのか。覚えておこう。


「それはないと思う。橘花本人がピアノで告白のことをロマンチックだって言ってたから」

「ふーん。じゃ普通に異性に見られてなかったって事だね」

「分かってるからトドメを刺すな」


 そして、それが一番切れ味の高い言葉なのだった。


「でもなんで橘花ちゃん、今日『愛の夢』を弾いてたんだろうね」

「さぁ。でもなんか落ち着かなくてさ」


 まさか誰かに告白されて、その返事に弾いていたわけじゃないだろう。

もしそうだったら……。

南川に聞いた話では、入学から一か月と経たずして橘花を狙っている男子がいるらしい。


むぅ。落ち着かない。そわそわする。

橘花が出会ってまもないよく知らない男子の告白を承諾するような女の子じゃないことは分かっている。


 でも、もし。万に一つも有り得ないことだが、僕が知らない間に知り合っていた男で、もう何年もの付き合いが続いていて、そいつから告白されたのだとしたら……。もしかしたら、もしかすれば。

橘花が……承諾の演奏をしていた可能性も捨てきれない。


「奏多もそんな顔するのね」


 一人で考えすぎて頭が痛くなってきた僕を、止めてくれたのは姉さんだ。僕は今自分がどんな顔をしているのか全然分かっていない。


「僕は今どんな顔をしてる?」

「恋する少年って感じかな」


 姉さんは僕にデコピンをした。全然痛くない。涙一つ浮かばない。


「面白くない恋愛小説のタイトルみたいだ」

「あはは、そうだね」


それっきり姉さんは口を開かなかった。

空にはもう、欠けた月が浮かんでいる。波音が静かに近づき、遠のき、また近づく。それを永遠に繰り返していく。


「もしかしてさ。あんたがピアノを弾かなくなったのってピアノが上手なお兄ちゃんを脱出するため?」


 姉さんは僕を気遣うように問いかけた。


「かもね」


 当たっているが、素直に返事などしてやらない。


「不器用すぎ。そんなことしたって”ピアノが上手な”が抜けるだけよ」

「………」


 そうなんだよな。姉さんの言う通りだ。どうして、気付かなかったかなぁ……。


「それでいいの?」


 諭すような優しい口調だ。こんな声聞いたことが無い。


「………」


 僕の中で、その声を受け入れる余裕が無くなっていくのを感じた。


「あんたにもだけど、橘花ちゃんには時間がないのよ?」


姉さんは俯く僕に手を伸ばす。


「じゃあどうしろってんだよッ‼」


叫び声と共に姉さんの手を払いのける。姉さんの目に哀しさが宿っていた。

僕はただのガキだった。他人の優しさを拒み、否定する。最低だ。


「奏多……」

「ッ……ごめん」


 どこも痛くないのに、目尻に涙が浮かんだ。

俯いて、両腕に顔を埋める。涙を隠したかった。表情を隠したかった。この心を隠してしまいたかった。


「……あんただって考えたんだよね」


 姉さんには全てお見通しだった。

恐ろしく思うほどに、姉さんは姉としての才能に溢れている。

嬉しくもあり、恐ろしくもある。


「でも、私からのお願い。ちゃんと向き合いなさい」


 姉さんが僕を抱きしめた。そして、耳元でこう囁く。


「心を尽くせ。汝の心が燃え上がり、愛を育み、愛を携えるように。愛によってもう一つの心が温かな鼓動を止めない限り」


 それは『愛の夢』の詩だ。

姉さんに話さなかった残りの詩の部分。


「そうでしょ? 奏多」


 微笑みの声を僕にくれた。

姉としての立場からくる愛の一つをくれたんだ。


「……知ってたの?」


 それが恥ずかしくて、こんなことしか言えない。


「ノーコメント」


 我が姉ながらズルい人だ。


「奏多は橘花ちゃんが好きなんでしょ?」

「……うん」


小さく返事した僕に姉さんは、抱く力を強くした。


「だったら、愛しうる限り愛さなきゃ。すぐにその時が来ちゃうから」

「……うん」


 そうだよな。そうなんだよな。嘆いたって、拒んだって、目を逸らしたって。

もうすぐ、橘花は死んでしまうのだから。

じっとしていても、橘花は僕の前からいなくなるのだから。


 僕が、僕だけが。橘花のために。橘花のためだけに。

僕が持ちうる力の全てを使って、愛しうる限り愛さなければならないんだ。

 そう確信できるほどに、僕は橘花のことを想っていたのだ。


「姉さん……」

「なぁに?」


 涙は溢れたままだが、気にしない。当分、止みそうにないから。


「ありがと」


 素直に礼を言えたのは、姉さんが僕の姉さんだったからだろう。


「お姉ちゃん、だからね」


 姉さんは僕の頭を撫でながら、「帰ろっか」と言った。

僕はその腕の中で小さく首を縦に振った。

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