2


「あ、先輩。ちょっといいですか?」


梓と屋上で会話をした日の放課後。帰宅しようとしていると、同じく帰宅する直前であろう橘花に引き留められた。

僕は既に下駄箱から靴を取りだし、上履きと履き替えている最中だった。


「いいけど。18時半に予定があるからそれまでだぞ」


 特に予定はなかったのだけど、読みたい本があったからこう答えた。


「2時間はありますね。今から私に付き合ってほしいんです」

 

橘花は笑顔で言った。なんとも怪しく、裏がありそうな笑顔だ。


「買い出し?」


 だから僕は怪訝そうに答えた。


「まぁ、ちょっと町の方へですね」


 濁された。目的は買い物じゃないんだろう。基本的に僕が橘花の頼みや願いを断ったことはない。

まぁそれはいいのだ。男には惚れた弱みという厄介な代物が存在するから。


「なるほど。僕は荷物持ちか」


 僕は知らないフリして答えてみせた。今までもわりと荷物持ちをさせられてきたから、ごく自然な返事になっているだろう。


「そ、そんなこと言ってないですよ……」


 橘花はバツが悪そうにしている。もちろん、本当にそういう目的があったんじゃないことは察しているので、橘花の反応は予想通り。


「いいよ。非力な僕でよければ付き合う」


 問い詰めても本当の目的を喋ったりしないのは知っているので、無理やりにでも流れのままに話を通す。

すると橘花は、「まぁ、いっか」というような納得のアクションを起こし、こう言った。


「ありがとうございます! 時間が迫っているので早く行きましょう!」


 時間が迫ってる?誰かと約束でもあるのだろうか。それとも、電車かバスか?

他に思いつくのは……散髪とか?

いや、だったら僕が一緒に行く必要はないだろ。

正解は今のところ不明だが、何かを予約しているのは間違いなさそうだ。


「僕が了承するかどうか分からないのに、予約したのか……」


 その呟きを橘花に聞かせる気はなかったが、耳の良い橘花には聞こえてしまったようだ。


「先輩なら忙しくても何とか時間を作ってくれる人ですよ。少なくとも私には、ね」


 いつにも増してセンチメンタルな顔をして言った。その心に何を思っているのか、その頭で何を考えているのか。

僕には計り知れないことだが、気になって仕方がなかった。


「……1本取られた」


 感情が表情に現れない様に、僕は強がりのセリフを吐き捨てた。

一歩前を歩く橘花に聞こえるように。

唯一の後輩のためだ。仕方がない。これは強がりではなく、本心だ。

 

校舎を出ると、16時過ぎの夕日が眩しい。もう少し歩くと、校門前の大きな栴檀の木の下に髪の長い女子生徒が立っているのが見えた。

 金曜日の放課後である今日は、すぐに帰宅しようとする生徒の数は僅かだ。みんな、今からの予定や、明日明後日の話題で盛り上がっている。

そんな中、校門から出もせずにじっと校庭のサッカー部を眺めている女子生徒は、ひどく浮いて見えた。


 そんな彼女を通り過ぎ、校外へ出る。橘花は目の前の富士通を左折し、与保呂川方面へ歩いて行く。

こっちに来たということは、赤れんがパークにでも行くのだろうか。

橘花は町と言ったが、その言葉は信用しない方がいいだろう。おそらく咄嗟にでた嘘だから。

 だからあえて追及しない。


「そういやさ。昼休みの謎のピアノの奏者は分かったのか?」


 昼休みのピアノとは、リピートされていたアレだ。


「はい。瑠璃先輩でした」

「南川? あいつはギターじゃないのか?」


 梓の親友、南川瑠璃は橘花と同じ軽音楽部部員で、ギタリストだ。


「紛らわしいですよね。一瞬でも期待した私に謝ってほしいですよ」

「期待した?」


「まだ会ったことのないピアニストに会えたと思ったんですよ、ほんとに」


 それを聞いてピンときた。橘花のピアノ好きは本物だから、色んなピアニストと出会って、語り合いたいと思っているのだ。


「あぁ、なるほど。一緒に演奏とかしたかったわけだ」

「そうです。一応私、軽音楽部なんで」


 いつも思うのだが、ピアノは軽音楽なのか? かなり重量のある楽器だから、あえて当てはめるなら重音楽だと思う。

ちなみに、軽音楽の定義は楽器の軽さで言うのではなく、クラシック音楽以外のポピュラー音楽を表すジャンル区分のことである。


「リクルートに失敗しちまったな」


 軽音楽部は万年部員不足らしく、廃部の危機とかなんだとか。どうも吹奏楽部に部員をかっさわられているらしい。


「やめてくださいよ、その言い方。そこまで部員に飢えてませんから」


 唇を尖らせる橘花だが、軽音部員の南川の情報では部員勧誘に奔走しているそうだ。


「じゃあ僕への勧誘をやめてくれよな」


 それでその筆頭が僕らしい。もともと軽音部員ではなかったので、可哀そうだが断り続けている。

名前だけ貸してあげたいのも山々だが、こういうのは中途半端が一番よろしくない。自分の精神衛生上でも。


「やですよ。一番の有力候補で即戦力なんですから!」


 左手をグッと握り込んで橘花が言う。入部して間もない割には、もう軽音部に思い入れができているようだ。


「前にも言ったろ。僕はもうピアノは弾かないんだ」


 何度目か忘れたセリフを吐き出す。


「……そんな悔しそうな顔で言われても説得力、ありませんよ?」

「僕はそんなにも情けない顔をしていたか」


 橘花がどう思っているのか分からないが、表情を真顔に保とうとしてみた。


「うふふ、今もしてますよ」


 僕は一瞬顔をしかめて、反論しようとする。けど、橘花の笑う顔を見たらどうでもよくなった。それよりも今の向かっている場所を知る方が優先度で言えば高い。


「話を戻すが、橘花。これからどこに行くんだ?」


 何かを予約しているのは間違いないし、それを拒否するつもりもない。ただ、心の準備とかはしておきたいわけだ。


「奏多くんも昔からよく知ってる場所だよ」


ご機嫌になったのか、いつもの呼び方に戻っている。

やっぱりこっちの方が自然でいい。


「昔からっていつからだよ。子どもの頃から知ってて、今も残ってる場所なんて限られてるぞ」

「そんなことないよ。田舎なんて変わるものも変わらない。だからこの街は暖かいんだよ」


 優しさを宿した瞳で何を見ているのだろうか。


「……そうかもな」


 否定しようと思えばいくらではできた。そうしなかったのは、橘花の見ている街が変わっていないのならそれでいい、そう思ったからだ。

 この街はかなり変わってしまったと僕は思っている。小学生の頃、商店街はもっと栄えていた。大きなスーパーなんかなかった。肉は肉屋さんで、野菜は八百屋さんで、魚は魚屋さんで買うのが当たり前。橘花と通った駄菓子屋も、家出した日に食べたコロッケも、立ち読みしていた古本屋も、初めて楽譜を買った楽器屋も、みんな無くなってしまった。


 だけど橘花はこうして僕の隣にいて、今も僕と同じ時を過ごしている。思えば、それは奇跡なんじゃないかと思う。夢なんじゃないかと疑いたくなる。

 目を擦って橘花を見る。夢じゃない。

これは現実だ。これが今だ。

この瞬間は永遠じゃない。1時間、1分、1秒。確かに進んでいく。

今日まで何度も橘花と並んで歩いた。

だからこれも忘れる。そして消えた数多の記憶の中に埋もれてしまう。


「ついたよ、奏多くん」


 三条通を左折して少しの場所。目的地はそこにあった。


「……あぁ、そうだった。ここは変わらないんだった」


 白いコンクリートの建物は昭和の匂いが漂っている。この『舞鶴女千代館』は舞鶴唯一の映画館だ。

創業は1938年だから、もうすぐ70周年になる。大きな黄金の竜のオブジェが懐かしい。何度も通った映画館だ。


「小学生のときだよね。ここに初めて来たの」

「そう、だな……」


 人生で初めて見た映画は、過去に行ったり未来に行ったりするあの映画だ。古い映画だったが、少年時代の冒険心をくすぐられたのを覚えている。


「面白かったんだよね、リバーストゥザフューチャー」

「そうだな。面白かった」


 夢中になってスクリーンを食い入るように見ていた。


「でも最初の方、ちょっと寝てたよね、ふふふ」


 そうだったのかな。あんまり覚えてない。


「確かパート2も見に来たんだ」


 当時、リバイバル上映は2週間ごとに入れ替えられていた。だから、その2週間後にまた二人で来たのだ。

タイムマシンが空を飛ぶ姿がかっこよかったのを覚えている。更にその2週間後。パート3が上映された。


「あの日、パート2を見終わったとき。約束したのを覚えてる?」

「……うん」


 その約束が果たされていないことを僕は知っている。


「パート3も一緒に見に来よう、そう約束したんだよね」


 懐かしそうに話す橘花は、劇場の看板を見上げた。あの頃よりも赤い文字の色は褪せているし、竜のオブジェもくすんだ様に見える。

けれど、あの日の記憶は色褪せないまま透き通っている。


「ごめんね、約束したのに」

「そんなこと気にすることはない。レンタルでも放送でも見れるんだから」


 だけど、僕はパート3の内容を知らない。見る方法も見る機会もたくさんあった。パート2までは何度も見ているのに。


「見てないくせに」


 クスッと橘花は微笑む。気にするなって言う方が無理だろう。だからせめて悔いのない様にしてあげたいと思う。


「奏多くん。約束、守ろうとしてくれてありがとう」


 橘花の瞳の中に僕が映る。僕の瞳の中に橘花が映る。


「これはほんのお礼だよ」


 橘花が差し出したのは映画の前売り券。発行日は10年前の今日から2週間前。

ちょうど、パート2がリバイバルされた日。タイトルは『リバーストゥザフューチャーPART3』だ。

見慣れた車から身を乗り出した主人公と博士、そして知らない女性が描かれている。


 映画を見終わってすぐ、受付で買ったのを思い出した。どこに行ったのか分からなくなっていたけど、2枚分しっかりと橘花が持っていたとは。


「橘花……」


 僕は自分の感情が分からなくなって、目の前が眩んだ。だけど、嬉しさが込み上げてきて、柄でもなく泣きそうになる。


「ふふっ。早く行こっ!」 


 僕は手を引かれながら走った。ガラスの扉を開けると、受付で見慣れたおじさんが笑顔で出迎える。

懐かしい光景だ。いつもこうやって迎えてくれていた。


「いらっしゃい、橘花ちゃん」

「こんにちは、館長さん」


 先ほどの前売り券を橘花が渡したのを見て、僕も慌てて渡した。


「それから、ありがとうございます。無理言って上映してもらって」

 

 おじさんはこの映画館の館長で、橘花も僕も面識がある。

話から察するに、パート3のリバイバルは橘花が頼み込んだものらしい。


「奏多君も久しぶりじゃな」

「元気そうだね、おっちゃん」


 ここに来るのは中学2年生以来だ。その時から館長はおっちゃんだった。

受験で一時期来るのを止めてから足が遠のいたが、館長が覚えていてくれたのは嬉しい。


「ほれ、ぼーっとしとらんで早く行った行った。もうすぐ始まるぞ」


 館長が急かすように手を叩く。


「行ってきます、館長さん」


 橘花が僕の手を引いて一番スクリーンに入ろうとしたとき、後ろから呼び止められた。


「お二人さん、これサービス」


 そう言ってポップコーンとペットボトルのコーラを二本差し出してくれたのは、館長の奥さんのすみさんだ。


「おばちゃん……元気になったんだね」


 最後にここに来た時は、身体を悪くして映画館から遠のいていた。


「もうピンピンしてるわ。心配かけたわね」


 首を横に振る。それから、ありがたく差し入れを頂戴する。


「すみさん、行ってきます」


 橘花はすみさんに手を振って、一番スクリーンに入る。僕と橘花が入ると、重そうな扉が閉められた。薄暗い館内は、僕と橘花の二人しかいない。


「貸切、なのか?」


 小さな首謀者に聞いてみる。


「そ、そうみたい、だね……」


 暗いせいで橘花の表情がよく見えない。

それに、少し俯いてしまったので前髪で目元が隠れてしまっている。でも、耳が赤いのは隠せていない。

僕と同じだ、などと都合の良い解釈をしてしまうのは愚かだろうか。


 僕らは一番真ん中の席に座った。スクリーンが一番綺麗に見える場所だ。

子どもの頃もこの辺りに座っていたはず。


「ねぇ、奏多くん」


 照明が落ちる。橘花の気配が近づいた。そして、その息遣いが耳に届く。


「寝ちゃだめだよ?」


 本来なら上映が始まれば沈黙がマナーだが、今は貸切だ。


「橘花こそ、寝るんじゃないぞ」


 僕は橘花に約束を破らせたくなかった。だから、今日という日がある。この瞬間、橘花と二人でパート3を見ることができている。この10年間の自分を褒めてやらねばならない。

よくやったぞ僕、と。


 近々公開予定の映画の予告は流れず、すぐにあの特徴的な制作会社のオープニングが流れた。これを見ると映画が始まるという感じがしてくる。

 そして、10年の時が拒んできた約束の終わりが始まった。


◆◇◆


 あの日のことを僕はよく覚えている。10年前の春の夕方、僕は橘花と二人で学校から自宅に帰っていた。まだ小学校1年生だった橘花の身を案じて、両親の提案で毎日一緒に帰るのが日常。

小学生にとっては、そんな小さな毎日が世界の全てだった。

だから、僕の世界の中身は限られていて、橘花が占める割合も大きかった。

であるからして。

もしもその一部でも失われるとしたら、僕にとっては世界を失うのと同義だった。

当時はそんなこと思いもしない。

ただ悲しみと恐れと驚きが僕の心を埋め尽くしていた。


橘花が倒れた時、僕はふざけるなよとあしらった。それが体の異変が起こしたものとは露にも思わずに。

事の重大さに気付かなかった悪ガキは、取るべき行動を取らず、為すべきことを為せなかった。

いつもの通学路。橘花とふざけ合った道。

日常を具現化したような場所。

だから、悪いようには考えられなかった。いや、そういう考え方を知らなかったんだ。


5分経っても橘花は倒れたまま起き上がらない。呼吸も途切れ途切れだ。そうして事態の異常さに気付く。


「橘花?」


 呼びかけても返事はない。橘花の頬に触れた。生きているはずなのに、それを疑いたくなるほどに冷たく感じた。


「おい、橘花……」


 僕が抱き上げようとしたとき、誰かの叫びが僕を制止した。


「動かさないで!」


 大人びた女性の声だ。僕は橘花から手を離して振り返る。紺色のブレザーを着た女子高生だ。

その長くてツヤのある白髪と、知的に見えた赤い眼鏡を僕は忘れないだろう。

そんな彼女の姿は小学生の僕にとって、大人以外の何物でもないかった。

だから、助かったと思った。大人は何でもできると思っていたから。


「……ぁ、あの」


 僕は「助けて」と言おうとした。難しい言葉じゃない。

いつもならすんなりと言える言葉だ。


「……」


 倒れこんで動かない橘花に駆け寄るその人には、言えなかった。


「呼吸はしてるけど、意識がない。体温も低い……」


 女子高生は橘花に触れて呟いた。そして、ブレザーを脱いで橘花にかける。


「君、この子の歳は?」


 PHSを取り出しながら僕にそう言った。

レンズの奥の目は焦りに満ちている。


「ろ、6歳……」


 それを聞くとすぐにどこかに連絡をし始めた。

たぶん救急車だ。


「なごみ商店前の九条通りで6歳の女の子が倒れてます。はい」


 冷静に、淡々と状況を伝えた。


「呼吸はありますが、意識がありません。出血は無し。ですが、体温が低いです」


 電話が終わると、僕に近づいてこう言った。


「心配しなくてもいい。ここは病院とも近いからすぐに救急車が来る」


 僕は頭を撫でられた。


「なんで、動かないの」

「……誰だって体調を崩すことはある」


 そう言っても、倒れるような状態はただの体調不良ではない。それくらいは小学生でも分かる。ふいに頭に過った。橘花が死ぬかもしれないということが。


「……死んじゃうの?」


 涙は勝手に流れた。遠くにサイレンの音が聞こえる。


「諦めるな、少年」


 彼女は僕の涙をハンカチで拭いてくれた。


「人はいくつもの恐怖を克服してきた。これからもそうだ。今は無理だとしても、いつかはきっと、どんな病も恐れるに足らなくなる日が来る」


 彼女は曲がり角へと走って行った。サイレンの音の方だ。残された僕が立ち尽くしていると、救急車を引き連れて彼女が戻ってきた。


そこからはあまり覚えていない。ストレッチャーに乗せられた橘花が救急車に収容されるのを見た。彼女は救急車に同行せず、自分の連絡先を渡して救急車を急がせた。一瞬のできごとだ。

彼女も救急隊員も怖い顔をして話していた。そ

れは余計に僕を恐怖させた。大人が難しい顔をしているのを見たことが無かったからだ。

涙が止まらなかった。もう橘花に会えないんだと察してしまったから。


「少年」


 サイレンが遠のいていく。橘花が乗っているのに。

どんどん僕から離れていく。


「少年、行こう」


 彼女は僕の手を取って歩き出す。


「ここに居てもダメだ」


 無理やり引っ張られた。拒んでも力では敵わない。


「僕は……橘花のところに」


 心配で心配で気が気じゃない。


「行ったところで何もできない。それでも、少年は行きたいか?」


 なんだっていい。何にもできなくたって構わない。


「それでも、僕は……橘花のそばに」


 はぁ、とため息が聞こえた。


「少年はあの子のことが好きか?」

「……」


 僕は黙って頷いた。


「そうか」


 彼女は僕の手を優しく引いた。今度は拒まずに横に並んで行く。


「彼女のことが好きならば、私の言う3つのことを守れ」


 彼女は僕の目を見て言った。


「1つ、常に彼女を優先しろ。2つ、約束は違えるな。3つ、さよならを拒むな」


 少し難しい言い回しだったが、言葉自体は理解できた。

でも内容の理解が追い付かない。


「……?」

「今は完全に理解できなくてもいい。けど、忘れてはいけない」


 彼女は学生鞄から取り出したメモ帳にさらさらと書きなぐり、ページを破って僕に持たせた。


「1つ、常に彼女を優先しろ。2つ、約束は違えるな。3つ、さよならを拒むな」


 難しい漢字もあったが、さっきの彼女の声が頭に残っていた。


「それから。私のことは忘れることだ」

「どうして?」

「私を思い出す度に、今日という日を思い出す。それは少年の心を擦り減らすだけだ」


 やっぱり高校生は大人だと思った。大人の話している事はよく分からない。


「……」

「……」


 僕も彼女も黙り込んでいた。病院までの道のりは長くない。小学生に合わせた速度でも15分もあれば到着できる。


「あの……」

「うん?」


 どうしても僕には聞いておかなければならないことがあった。


「名前、なんていうの」

「……秘密だ」

「どうして?」

「名乗ってしまうと少年は私という存在を強く記憶してしまう」


 彼女なりの気遣いだったと今なら分かる。


「……でも——」

「少年、着いたぞ」


 結局、彼女の名を聞く前に病院に着いてしまった。

自動ドアを通り抜けると一気に消毒液の匂いが鼻につく。


「私は向こうで聞いてくるから、ここで待ってて」


 彼女はPHSをポケットから取り出しながら、ナースステーションへ歩いて行った。

一人ロビーで取り残される。

椅子に座ろうと辺りを見渡すと、彼女が立っていた場所に二つ折りのパスケースが落ちていた。

拾って中を見ると、彼女の写真が貼ってあった。どうやら学生証のようだ。東舞鶴高校の生徒らしい。

名前は『日向誘』と書いている。


「ひなた……さそい?」


 かろうじて読める漢字ではあったが、とても女性の名前とは思えない。

正しい名前は何だろうかと頭を捻っていると、彼女が戻ってきた。


「少年、どうやらすぐには会えないようだ。もうすぐ少女の両親が来るそうだからここで待っているといい」


 首を縦に振る。

治療室に入ったらすぐに会えないというのは、何となく知識があった。


「すまないが、私は今から行かなければならない場所があるんだ。一人で待てるか?」

「うん。ありがとう」


 僕は手に持っている学生証を思い出した。聞いても答えてくれないのなら、呼んでみようと思った。

とにかく、この時の僕は彼女の名前が知りたかったんだ。


「あの、さそいさん?」


 一か八かで思った名前を読んでみた。彼女は眉をひそめて首を傾げる。


「なんだ急に」

「ごめんなさい。これ、拾ったから」


 パスケースを差し出す。


「……ピッチを取ったときに落ちたのか。ありがとう」


 彼女は僕の手からパスケースを取る。そして中を見て、ふっと笑った。


「なるほど。少年はなかなかにユニークな発想をするな。ふふ」


 彼女が笑ったのを意外だと思った。


「さらばだ、少年」


 僕の髪をわしゃわしゃと撫でると、彼女は踵を返してロビーを出て行った。

僕はしばらく呆気に取られていた。


やばい、と思い急いで追いかける。

自動ドアを通ると彼女の後姿が見えた。

夕暮れのオレンジに溶け込む彼女は美しかった。今でも思い出せる。


「ねぇ、ほんとはなんて読むの?」


 彼女に届くように僕は声を張った。

足を止めた彼女は振り返り、微笑みながらこう言った。


「私の名前は『いざな』だ。苗字は内緒にしておく」 


 いざな。確かに覚えた。


「僕は冴羽奏多! ありがとう、いざなさん」


 僕が名乗った時にはもう背中を向けていた。

だけど、右手を大きく掲げて振ってくれた。

確かにいざなさんに僕の名前は届いたはずだ。


 これ以降、僕がいざなさんに会うことはなかった。10年経った今も。けれど、この出会いが夢じゃないことは確かだ。


 しばらくして、橘花の両親と合流した。

それからまたしばらくして、病院の先生から容態を聞かされた。橘花の両親の好意で、僕も一緒に聞くことができた。

橘花が倒れた原因はよく分からない。脳と心臓が悪いらしい、ということは分かった。便宜上、脳の癌と心臓の癌と言っていた。

はっきりとは言わなかったが、長くは生きられないのだろう。


 信じられなかった。嘘だと大きな声で先生の言葉を遮ってしまいたかった。

現実だと認めたくなかった。これは嘘だと。

 そんなとき、僕の手元に1枚のメモが残っていた。


「1つ、常に彼女を優先しろ。2つ、約束は違えるな。3つ、さよならを拒むな」


 声に出して読んだ。何故だか分からないが、僕は勇気を貰えた気がした。

橘花のことが好きだ。

だから、橘花のことを最優先にしようと思った。僕より苦しいのは橘花だ。

だから、橘花の望むことをしようと思った。橘花の笑顔を見たかった。

だから、僕は最後の日まで閉ざさないでいようと思った。


橘花はいつか死んでしまう。

それは僕も同じことだ。だが、今日じゃないし今じゃない。

この瞬間は生きているのだから。

橘花から目を、心を、言葉を、閉ざさずにいよう。


 10年前はこんなに具体的に思ってはなかった。もっと曖昧だったように思う。こんなにも明確に思えたのは彼女の言葉が僕の中で生きていたから。

この遠い日のノスタルジアが、今もあの時の僕のままでいさせてくれる。


◆◇◆


「面白かったね、奏多くん」


 上映が終わり、帰路に歩く最中。何度目か分からない言葉を橘花が言った。


「私、実はパート1とパート2を改めて見てきてたの」


 もし最後に見たのがあの日なのだとしたら、予習は大事だっただろう。

僕自身も何度か見ているが完璧に記憶しているわけではない。

できれば直前に2作品を見てから来たかったと思う。


「だから主人公の人生が幸せそうで本当によかった。物語くらいは幸せに終わってほしいもんね」


 橘花の言う通りだ。悲しい物語は数多く存在し、人々の胸を打ってきた。だけど僕は幸せな物語の方が面白いと思う。

みんな自分の見たことのない景色を虚構に望んでいる。それは僕とて同じこと。

現実は悲しい物語の何倍も苦しくて嫌になる。

そんな世界に生きている人間は、幸せな物語を求めている。

悲しい物語を好む人間はきっと、現実が幸せで満ち溢れているに違いない。


だから、悲しい物語を好む人間を僕は一生理解しない。

僕には嘘くさくてご都合主義に塗れた幸せな物語で十分だ。


「……奏多くん?」


 黙り込む僕の顔を橘花が覗き込む。


「あ、なんだ?」


 足を止めて返事をする。


「面白くなかった?」

「そんなことはない。面白かったよ、ありがとう」


 橘花がこうして用意してくれなければ、一生見ることが無かったかもしれない。

何より、橘花がこうして僕の為に何かをしてくれたのが嬉しかった。

例えそれが、ただの兄貴分のような幼馴染に向けられた優しさだとしても。


「でも、なんだか寂しそうだよ」


 楽しそうに感想戦をしていた橘花とは打って変わって、静かに口を開く。


「映画を見た後なんてだいたいそうだろ?」


 壮大な世界に溶け込み、自分が経験したことのない冒険や大恋愛をする。

そんなあっという間の2時間が終われば、物寂しさで言葉を発する気になれなくなるのだ。


「うん……そうだね」


 楽しそうに話す橘花を否定したつもりはなかったが、先ほどよりも静かな微笑みに変わってしまった。気を使わせてしまったか……。


「だけどまぁ、幸せな未来が待っていそうでよかった」

「私もそう思うよ」


 遠く、東の空に一番星が浮かんでいる。

もうすぐ夜は短くなるだろう。

そして日が長くなる。そうすれば、こんな日々は終わってしまうだろう。

ずっと守り続けた自分が、10年という月日の後に崩れてしまいそうで恐ろしい。

きっと映画に触発されたんだ。自分の未来を考えてしまっている。たった数か月先のことが分からないんだ。10年先のことなんか、何に一つ分からない。

分かっているのは、今とは全く環境が変わってしまっているということだけ。

僕の傍に橘花はいなくて、行き場を失った想いが空回りしているだけ。

決して消えることのない痛みと共に。


「また、見に来ようね。色んな映画を」


 裏表が無いのが素晴らしい人間の条件なのだとしたら、なぜこの世界はそんな子を苦しめるのだろうか。


 誘さん。僕は今、さよならを拒みたくて仕方が無い。

現実味を帯びてきたさよならを、受け入れる強さはどうやって見つければいいんですか。

教えてください……。

僕を助けてください……。

あなたの言葉に救われた僕は、あなたの言葉に苦しめられているのです。


「……あぁ」


 それでも、僕はあなたの言葉に従って橘花を何よりも優先して見せます。

約束も違えません。


 誰でもいい。神でも仏でも、ただの人間だって構わない。

誘さんでもいいから。

 時間を。僕が勇気を手に入れる時間を下さい。

決して何にも屈せず、拒まない心を手に入れなければならないから。

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