そもそも創作物というのは往々にして権威主義的だということをおれたち(わたしたち、ぼくたち)は意識したほうがよいのではないかという思考がよぎるのだ。
なぜかというとつまり、おれたちは結局おれたちという主体を通してしか創作物を吐き出すことができない以上、そこには個あるいは個の集合体によるイデオロギーの影響を受けずにはいられない。そこに無垢な美しさみたいなのは果たしてどれだけあるのか、あったとして、それを100パーセント礼賛することは果たして「正しい」ことなのか?
「くらし」に軸足を置き始めると、途端に分からなくなる。おれの幼稚園のころからの幼なじみはおそらくはミソジニストであるが「おれはろくでもないから割とすぐにしぬんや」みたいなこと言った時は本当に悲しかったし、移民がどうとか果たしてどこまでほんとか分からないような仮想敵みたいなものをことさらに問題視する元同僚はメンタルヘルスの問題を抱えている。そして創作物というのはそれらをすべて肥やしにする。怒りの燃料にかえる。あるいは、冷笑する。
そう、それを直視した時、おれたちは敗北感をおぼえる。文字にならない、物語としての鋳型に収まりきらない混沌こそが現実で、それを寸分の狂いもなく紙面上に再現せしめたいというおれたちの欲望は、おれたちというフィルターを通した時点でソフィスティケートされた代物でしかなくなる。それはコッポラがキレるまえのゴッドファーザーであり地獄の黙示録だ。
だったらおれたちの行っている創作とはなんだ。事実を現実を感じたことをある程度の脚色を加えてかたちにすること、それが検閲であり体制側のやり口であると「いえない」わけがないじゃないか。ノンフィクションを謳っている作品だって、誰かのフィルターを通した時点でほんとうの事実のどれだけを汲み取れているのかわかったもんじゃない。おれたちは、ペンを持つことができている時点で、ある程度の特権性を得ることができている。その傲慢さに気付いた連中は、とうにペンを握ることをやめて、カオスのなかに躍り出て、共にあそぶことを選んでいる。
ならばおれたちは。結局「恵まれた」側の人間であると知覚させられたおれたちは、どうすればいいんだ。おれたちを、正しい側に置かせてくれよ。
なに、かんたんなことだ。
恥じらえばいい。後悔すればいい。自分と格闘すればいい。
というより、もとよりそれしかないじゃないか。
それしかないなら、そうするしかない。その行為そのものがほめたたえられることはきっとない。世に出て付加価値がついた時点でそれは、「もとのおれたち」から、幾分かはなれている。
だけどおれたちは生きている。残念ながら生きている。
創作という反吐を撒き散らしながら、ご迷惑をおかけしますと、駅のホームの清掃員のおばちゃんたちに顔向けできないぐらいのわずかな誠実さで、自分のケツをぬぐうしか道はない。
それしかないのだから、そうするしかない。
もとより人間はそうだ。
そして、おれを含むおれたちが人間であることは、おれが絶対に保証する。
きみは一人じゃない。