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改稿前原稿保存庫 第1話 切った【薔薇食む】


 もう、好きに、死ねよ。


 口からついて出て、はじまった。


 前向きになれた|だけ《・・》の、物語未満な、青春。





 時計の音から、耳を塞ぎたい。だけど、手を止められない。

 均一的で、熱がない、モニターの光。私の瞳は、瞬きも忘れて、見つめ続けている。
 ネイルもしていない指先は、まるで強行軍に疲れ果てた軍人みたいに、ヨタヨタとキーボードを叩く。

 私が立ち向かっている作業は、歩くよりも単純だ。

 書類を見て、データを打ち込み、整理する。それだけ。
 普段通りの作業だし、これだけなら、心を無にして進められる。

 だけど、今はひたすら、時間がない。

 終電まで30分。
 駅までは10分。
 タイムリミットは、のこり20分。

 終電を逃したら、最後だ。ネカフェに泊まる夜が待っている。それだけは嫌だ。絶対に、嫌だ。想像するだけでも、肌が|粟立《あわだ》つ。

 アイツがいるのだ。
 干からびかけたミミズのような指で、私の腰を撫でまわした――あの店員が。
 まるで、土の中に埋められる気分だった。
 全身が冷たくて動かなくて、見えない何かに食べられていくような……。
 指の感触は、まだ許容できる。

 この体は、はっきりと、美しくない。顔立ちも平凡以下だ。
 色白が七難を隠しているだけで、魅力のかけらもない。
 あの男は、この汚物を前に、なぜ欲情できるのか。不気味で、|末恐《すえおそろ》ろしい。

 思い出したせいで、帰りたい欲が湧き上がってくる。
 シャワーを浴びて、アイスを食べて、アニマルビデオに癒され、裸で惰眠を貪りたい。

 だけど、この資料は絶対に、終わらせる必要がある。

 私はこの会社でしか、生きていけない。
 どんなに嫌なことがあっても。

 つくづく、身に染みる。
 過去が、自分自身を苦しめていると。


「……ちっ」


 ストレスのせいか、右のまぶたが、ピクリと動いた。
 最初はわずかな動きだったけど、それは地震の初期微動のようなもので、徐々に|痙攣《けいれん》が激しくなっていく。
 最初は、無視しようとする。だけど、ピクピクと動く視界の鬱陶しさに、我慢の限界に達した。

 顔全体を、手のひらでほぐしていく。次は頭皮。最後に、目の周りを指の先で押す。筋肉のこわばりがとれ、まぶたは静かになった。

 でも、まだだ。
 心地よさにかまけて、さらにマッサージを続ける。パフォーマンスを維持するため。自分に言い訳しながら、満足がいくまで繰り返した。


「……ふぅ」


 一息つき、モニターに向き直って、タタタとキーボードを叩く。
 指が軽い。
 視界がボヤけていない。
 さっきまでとは、作業効率が段違いだ。

 この調子なら、間に合う。

 意気揚々と、モニター端の時刻に目をやって、指が止まった。


「……え?」


 マッサージにかけた時間は、1分か、2分ぐらい。そう、誤認していた。
 意識が飛んでいたのか、それとも体内時計が壊れているのか、わからない。

 あるのは、現実。
 すでに終電の時刻が過ぎているという、現実だ。
 状況が飲み込めるまで、呆然とするしかなかった。


「……死ねよ」


 いつも、こうだ。
 時間は、待たない。私はどんくさい。

 時計が笑っている。
 カチ、カチ、カチ。勝ち。時計の勝ち。

 彼の声は、私の耳に届いている。

 ほら、僕の予想通りになったじゃないか。
 |鳥海《とりうみ》| 恵巳《めぐみ》。君は間に合わない。

 理不尽だったよね。
 見たことない資料を持ち出して『今日までにやってと言ったでしょ』って。
 あの、お|局《つぼね》。
 自分は仕事ができて、社員は全員無能だと思っているよ。

 他もひどいよね。

 怒鳴りっぱなしの課長。
 やる気もなかったくせに、産休中の後輩。
 私用の命令を平気でする、社長一族。

 こんなところ、会社じゃない。
 もう、資料なんて放り出しちゃおうよ。

 え、一日中、怒られるって?

 仕方ないじゃん。
 君は忘れてたんだもん。
 きっと、言われた事実も、忘却していたんだ。

 君は、あのお局より、無能なんだ。

 有名な女子大を卒業した彼女は、高校中退の君なんかより、何倍ものモノを知っていて、|思慮《しりょ》深い。|そうに決まっている《・・・・・・・・・》。

 みんなも思っているよ。
 恵巳だって、わかっているだろ? 

 どんくさい恵巳。
 中退の恵巳。
 もう32歳なのに、平社員の、恵巳ちゃん。


「…………クソっ」


 切り替えないと。
 時計の言葉は無視。
 過ぎたことは仕方ないでしょ。
 悩んでいる時間は、クソ。
 通勤中に流し読みした、『デキる女の条件百選』にも書いてあった。

 デスクの引き出しを開けて、ハンドクリームを取り出す。
 フタを開けるだけで漂う、バラの香り。胸が軽くなって、温かいため息が漏れる。
 私のお気に入り。ささくれた心を癒してくれる、魔法のアイテム。


「……ぁ」


 絞り出そうとした瞬間、察した。
 中身が残っていない。
 いや、いやいや。切り開けば、1回分はかき集められるはず。

 ハサミは産休中の後輩に貸しっぱなしだから、カッターを使うしかない。
 隣のデスクを殴りたい気持ちを抑えながら、スライダーを動かしていく。
 カチ、カチ、カチ。自然と、時計と同じリズムを刻んだ。

 刃が露出すると、実感する。
 カッターは、刃物だ。私は刃物を握っている。

 生唾を飲み込みながら、ハンドクリームを、引き裂く。
 中身がうまく出てこなくて、何度も突き刺した。


「あれ……?」


 違和感をおぼえて、困惑した。
 出てきたハンドクリームが、ゆるい。公園の水飲み場みたいに、あふれ出ている。

 ハッとした時には、手遅れだった。

 私が切っていたのは、ハンドクリームのチューブじゃない。
 自分の、手首だ。

 太い血管を破ったのか、血の流れが、とめどない。
 ぬるい液体が、よれたスーツの繊維の隙間を流れ、タイツを伝い、ローファーの表面を滑り、床へと広がっていく。
 めまいを覚えて、思い出す。私の血は無限ではないし、貧血気味だ。

 血の、ねばりつくような、鉄の匂い。
 体が凍り、両耳の穴がつながったような、けたたましい耳鳴りが、響く。
 まぶたが痙攣して、ついに立てなくなり、私はひざを折った。

 血の池に座り込むと、自らの温もりだったものが肌に沁みて、不快感で顔が歪む。

 ああ。
 この感触はまるで、高校でやってしまった、おもらしみたい。
 心の中で、おむつを幾重にも重ねて覆い隠していた過去。虚しいだけの感情があふれて、横漏れした。


「…………あは、あはは……あひゅっ……」


 上手に笑えなくて、涙も出てこない。
 体が、脱力感で満たされていく。

 ねえ。
 もういいじゃん、私。
 明日って、なに?
 なんで、苦しいのに、生きてるの? バカなの?
 終わりだよ。全部終わり。
 くだらない。
 アホ。
 クソ。

 本当。

 全部、どうでもいい。

 パワハラ上司も、クソ店員も。私の体も、心も。気持ちを受け入れなかった、あの子も……。

 お願いだから、さ。

 全部、ハンドクリームになってよ…………。













【後書き】
この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません
また、自死を肯定するものでもありません

毎日12:21投稿予定です。休載する場合は、近況ノートで連絡予定。

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