お世話になっております。28です。
冷え込みが厳しい今日この頃ですが、皆様はお風邪など召していらっしゃいませんでしょうか。
年度末の残務処理と新年度の準備等でご多忙の時期とは存じますがご自愛ください。
お話の続きの進捗のご報告です(サボらないよう自戒も込めてご報告を書き込ませてください)。
【お品書き】
1 進捗
2 執筆のために読んだ本
【1 進捗】
・物語を破綻なく進行させるために必要なシーンの整理と取りまとめがようやく終わりました。数えたら45シーンが少なくとも必要、という計算になりました。
・従前投稿したストーリーではなるべくダレないように、短めになるよう意識し設計をしました。確かそのときは35シーンくらいだったかと思います。
・それでも色々と進行上必要なシーンが後から後から出てきたので、結局40シーンくらいにはなったかと記憶しています。
・というわけで、続編は前回よりも少しだけ長くなりそうです。
【2 執筆のために読んだ本】
・コンセプトとなるだろう自由と孤独の関係について知見を深めたいと思い、ようやくエーリッヒ・フロム著(日高六郎訳)『新版 自由からの逃走』(東京創元社、1952年)を読みました。
・多くの本に引用される名著、古典のため、内容は大筋理解していたのですが、このテーマについて考えを深めるためにはこれ読んでおかないと書けないだろうな、ということで(訳著ではありますが)原典を読む機会を得ました。
・正直、エッセンスを理解したり現代における応用と考察をするのであれば、名著であっても古典にあたる必要はなく、その後のアップデートも加えた新しい研究書を読むのがタイパはいいと思います。
・けれども古典にはまた、エッセンスの概略では抜け落ちたり劣化してしまう要素や洞察がなお残っていて、原典にあたることでそうした要素や新たな思索を得られることも多々あります。『自由からの逃走』も同様で、1940年台に書かれた同著は現代的な計量分析ではなくフロイト的な精神分析による著作ではあるものの、時代の考証や論証においてなおその鋭い洞察や思考に舌を巻く部分が多々ありました。
・内容をざっくりまとめると次のようになります。
「人は帰属を求める。
しかし近現代においては社会的政治的経済的変化により、個人化された人々には孤独がつのり、個人に無意味さと無力さの感情が高まった。
つまり自由によって孤独がもたらされた。
枷からの解放と孤独の両義性を持つ自由を与えられた個人には、とりうる道が2つある。
①愛や生産的な仕事を通じて、自発性の中で(自由意志によって)外界とつながる。
②自由や個人的時がの統一性を破壊するような絆により安定感を求める(1940年ごろの群衆はこれに走っているが、これは孤独の快復の根本治療とはならない。これらは個人に幸福と積極的な自由をもたらすものではない)。
現代における自由からの逃避(=②)は、ナチスの統治下のファシズムと(おそらくアメリカのような)近代民主主義下においてそれぞれ異なる様相を示す。
ファシズム下においては、サディズムとマゾヒズムを本質とする権威主義的性格の下、群衆は指導者へ隷従する。
近代デモクラシーにおいては人間の自動機械化が起こり、群衆は既成の行動様式に順応するようになる」
・読んでみると、自由と孤独と群衆に関しては、エッセンスの抽出により紹介されている内容とはややニュアンスというか感触が違ったな、という印象でした(翻訳や概略も解釈者の主観や興味関心が大いに反映されるため当然と言えば当然でしょうが)。
・個人的に読んでいて面白かった部分は、自己犠牲的なマゾヒズムと献身的な愛はどう違うのか、というところでした。ここには『愛するということ』でみられるフロムの基本的な視点が通底していて、「確かにそのとおりだな。いやそう思いたいな」と感じさせられた次第です。
・以上、世界大戦とナチの脅威が色濃い1940年台の意識の下に書かれた内容でしたが、それではこの自由と群衆と幸福の関係は現代においてはどう整理できるのでしょうか。以下、私見が多々混じりますがお目汚しをお許しください。
・まず、インターネットとSNSというテクノロジーが一般化した現代の社会では、民主主義下においてフロムの言うところの画一化と自動機械化がいっそう進み、かつそれがブロック化していると見て良いように思います。
・すなわちエコーチェンバーにより思考と価値観の蛸壺化、あるいは蠱毒化が進み、「先鋭化した多様な思想のバブル内での普及ならびにバブル内の群衆の画一化」が進展しているとみることができるでしょう。
・そして緩やかに連帯した各種画一思想(ないし価値)の群衆は、内集団バイアスにより身内贔屓と思想の先鋭化を繰り返し、外集団バイアスにより他集団への強制と攻撃を繰り返している、そういう状況なのではないのでしょうか。
・フロムの分析から漏れている内集団(ないしマイサイド)バイアス等はおそらく1940年代当時にも存在していて、それがテクノロジーの恩恵によりさらに捻じ曲がった形で現出しているとみてもよいように思います。
・またテクノロジーは、自由からの逃避の形態もさらに一歩進めたと評しても良いように思います。
・ここではわかりやすく、Amazonの会員登録を例にとらせてください。
・Amazonでは買い物をすると、購入者の行動の記録が集積され分析されます。またそうしたビッグデータをもとに、消費者の行動を予測し、その行動に先回りする形で次なる最適な(=当該消費者の嗜好と合致する)選択肢が提示されます。
・たとえば、私がアートとビジネスに関する本を探していて、ようやく目的に合致する本に巡り合い購入できたら、サジェストにより私の目的によりいっそう合致する本たちが選択肢としてさらに提示され、私を助けてくれるように(これはPrime Videoの紹介などでも変わりません)。
・こうしたAmazonというプラットフォームとアルゴリズムが、無数の個人データの集積と利用によって私の先回りをして、私に次の最適行動を教えてくれます。いわば、そこでは私は自分の自由意志を働かせる余地を減らし、選択の負荷と責任を万能の母たるアルゴリズムに肩代わりしてもらい、幸福にしてもらっています。
・こうした私の在り方は、フロム的にいえば自由ではないでしょう。
・しかし、プラットフォームという柵に囲まれた家畜のようではありますが、(快楽という1点においては)幸福です。そして私はこの柵から離れて自由になるよりも、柵の中で幸福を貪る選択をし続けています。
・つまり私は集積・分析されたデータの下ではこうして、自由を放棄し幸福になるわけです。
・逆にこうしたシステムから排斥され、参加させてもらえない人間の生活は現代においてはおそらくもはや不便きわまりないものとなるでしょう。少なくとも、一度この便利さを味わった人間は、この柵から離れることが選択肢とはならないでしょう。
・では、以上のAmazonの例が個人データを集積し(監視し)利用する、高度に電子化された福祉国家・政府となったらどうなるのでしょうか? そこでは国民は、システムから外れた荊の自由よりも、囲われて選択肢を与えられ選択と決断の責任から免られる幸福を選ぶでしょう。
・現代における自由からの逃走はこういうかたちに違いない、などとかつては中国での国民のデータの集積と利用状況を見ながら考えていました。
・その後、大屋雄裕『自由か、さもなくば幸福か?』(筑摩選書、2014年)を読み、「ああ。私のような凡愚が考えることはすでに俊英がより洗練された形で論じていたのだな」と感動させられたことはいまだに記憶に新しいことです。
・以上、駄文と愚考の垂れ流しでした。
・特にオチはありません。
・駄文ではありましたが、わざわざ読んでくださった方になにかしらの面白みや共感を提供できたのなら幸いです。
・ご感想やご批判などもいただければ悦ばしいことこの上ございません。
・それでは、皆様も風邪にはお気をつけて。