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かくぶんわはだらけたい(第2話の背景情報)

(1) 人物
賈詡(文和):かく(ぶんわ)。本作の主人公。帝国の西北辺境「涼州」武威郡姑臧県の出身。自分を引き立てた太尉段熲が政変で死んだため洛陽から逃げ出した。賊に身ぐるみ剥がされてからは董卓を頼って洛陽への帰還を目論む。

董卓(仲穎):とうたく(ちゅうえい)。同じく涼州隴西郡臨洮県の人。西域戊己校尉だったが解任され、洛陽へ戻る途中。賈詡を助けたばかりに政変に巻き込まれる。

檀石槐:だんせきかい。漢に仇なす異民族「鮮卑(せんぴ)」の英雄。鮮卑はそれまで匈奴に逼塞させられていたが支族内で頭角を現すと鮮卑を飲み込みその首魁となり、瞬く間に周辺の諸部族を支配下に置き、最盛期の匈奴の支配域を確保して漢と対立した。

張奐(然明):ちょうかん(ぜんめい)。涼州敦煌郡酒泉県の人。「涼州三明」の一人。皇甫規、張奐、段熲は後漢桓帝の御世に帝国西北を脅かす異民族に対し代わる代わる起用されて成果を残した。董卓は張奐の司馬を勤めた。

段煨(忠明):だんわい(ちゅうめい)。賈詡と同じ武威郡(姑臧県)の出身。字の忠明は後漢書集解における盧弼の言。年代的に段熲の族弟か族子にあたる。物語上、段熲に大恩ある賈詡は段一族の命脈確保のため段煨の生存を図ろうと逃亡を手助けしていた。


(2) 官制・制度
戊己校尉:西域都護の下に付けられる軍務官。秩六百石。和帝の時に置かれた際には車師後部に鎮守した。なお西域都護(秩二千石)は加官で騎都尉や諫議大夫などが本官である。董卓のドサ回り具合が泣けてくる。

使匈奴中郎将:匈奴を使役する中郎将の意。比二千石の官。漢に帰属した南單于を護る。実際は南單于を率いて戦う。幹部職として従事が二人だが、有事には増員される。掾属の吏員もまた同じく員数が変わる。護羌校尉、護烏桓校尉も同じである。

度遼将軍:秩二千石の官。明帝が初めて置き、安帝の元初元年に常設官となった。長史、司馬を幹部職に持つ。

中郎將張奐:董卓を司馬としている時(延熹九年(166))の張奐は後漢書張奐伝によると「使」ではなく「護」匈奴中郎將で、九卿の秩を以てして幽并涼三州及び度遼、烏桓の二営を監督し、刺史、二千石の能否さえ評価する権限を与えられていた。

軍司馬:将軍や中郎將の副官で比千石の官位。軍を分遣する時に将帥として部隊を率いる時は「仮司馬」となる。

郎中:三署郎の官職。中郎が比六百石。侍郎が比四百石。 郎中が比三百石で定員が無い。

羽林郎:羽林中郎將の部下。三百石の官。定員はなく、宿衛侍従を掌る。官吏の補充は常に漢陽、隴西、安定、北地、上郡、西河の六郡の良家から補われる。漢官儀によれば羽林郎は出れば三百石の(県)丞、(県)尉の官職を補う。

廣武令:帝国北辺にある「并州(へいしゅう)」鴈門郡(がんもんぐん)廣武県(こうぶけん)の行政長官。廣武県はもともと太原郡に属していた。辺境の県である。県令は秩千石の官だが、辺境の鴈門郡廣武県の戸数が万以上とは思えない。四百石の秩禄だった可能性がある。そう考えると董卓の人事異動がまあまあ納得できる。

県令と県長:県、邑、道で大きなものは令を置く。千石である。それに次ぐは長とする。四百石である。小さなものは長でも三百石とする。県の大小は基本的に戸数で決める。万戸以上が令でそれより下は長である。ただ三辺(辺境)で武帝が開いた所は県の戸数が數百だとしても県令と為すものがある。荊揚の江南七郡については、ただ臨湘、南昌、呉県だけが県令である。南陽の穰中などは肥沃で民が富んで四五万戸あっても県長である。桓帝の時に汝南の陽安県が女公主の邑と為ったおり、号を改めて令としたが、主が薨ずると元に戻した。

蜀郡北部都尉:郡の中で治安の悪い地域に宛がわれる。蜀郡だと西部と北部に都尉が置かれた。秩石は不明だが、丞と同じかそれ以下なので千石から六百石であろう。董卓の出身の隴西郡にも南部都尉があり、順帝の時に再度置かれている。三国志時代だと会稽東部都尉だった張紘がいる。

県尉:三百石の官。県の治安を掌る。

県の賊曹掾吏:郡県の曹掾吏は公府と同じで東西曹が無いだけである。戸曹、奏曹、辭曹、法曹、尉曹、賊曹(盜賊の事を主る)、決曹、兵曹、金曹、倉曹などがいる。

刺史に引き立てられて兵曹從事:刺史の部下として從事史、假佐がある。定員職名は司隸校尉と同じで都官從事が無いだけである。また功曹從事が治中從事となる。治中、別駕、簿曹、兵曹、部郡國從事(属する郡国担当の従事)、ここまでは刺史が自分で任命する。百石である。他に假佐や主簿、門亭長、門功曹書佐などがある。

茂才:郡が挙げる孝廉のほか、中央の高官と刺史がキャリア候補として挙げる選抜枠。三公は茂才一人と廉吏二人、光祿は茂才と四行各一人と廉吏三人、中二千石官は廉吏一人、廷尉と大司農各は廉吏二人、將軍は廉吏二人、御史と司隸、州牧は茂才一人を歳ごとに察挙する。

六郡良家子の制度:羽林中郎將の部下の羽林郎(三百石)は漢陽、隴西、安定、北地、上郡、西河の六郡の良家から選んで補充する。この羽林郎は人事異動で外に出ると三百石の(県)丞、(県)尉を補うことになる。ここで治績を上げて評価を受ければキャリア官僚となる六百石以上の官位への道が拓ける。孝廉制度を補う官吏登用のバイパスルート。董卓はこの制度を用いてキャリア官僚への転出を図った。

孝廉:郡が中央政府に推挙する将来のキャリア官僚候補。人口二十万に一人の枠で、人口十万に満たない郡は二年に一人である。大体は在地の豪族、中央政府の権力者の請託で枠が埋まる非常に狭き門。詳しくは第一話の注参照。

在地の官吏:ここでは県吏。

三署の郎官:五官及び左右中郎將の部下。詳しくは第一話の注参照。

司隸校尉:洛陽を中心とした三河(河南・河内・河東)三輔(京兆・馮翊・扶風)と弘農郡を管轄とする比二千石の「特殊な」行政官。一州を領し、京師を典ずる。外にあっては所管する諸郡で糺さない所などなく、封侯、外戚、三公にわたって尊卑などない。朝廷にあっては道行く時には使者を立て、最後にやってきて最初に去る。

比二千石官:太守以上の官は大体比二千石。


(3) 地名
玉門関:敦煌郡にあり、ここより西方が西域三十六国となる。

酒泉:涼州に属する郡。洛陽の西方四千七百里にある。属県は九城。福祿(郡治)、表氏、樂涫、玉門、會水、沙頭、安彌、乾齊、延壽(以上九県)。

幽并:幽州と并州のこと。幽州は東北辺にあり、三国志で劉備や公孫瓚、盧植先生が住んでいる。并州は北辺にあり、三国志で王允や呂布、張遼が住んでいる。

隴西郡臨洮県:南部都尉の治所がある。また地勢として西頃山がある。董卓の出身県。

洛陽:後漢王朝の都、帝都である。
 
 
(4) 風物
鮮卑:東胡の支族であったが分かれて鮮卑山に依拠したことから鮮卑と呼ばれるようになる。言語や習俗は烏桓と同じ。それまで匈奴のために逼塞していたが、桓帝の時に檀石槐が現れてから強勢となり、南の方は漢朝の辺縁を抄し、北の方は丁零を拒み、東の方は夫餘を卻し、西の方は烏孫を撃って匈奴の故地を尽く我がものとし、東西万四千餘里、南北七千餘里にわたる広大な領域に跋扈することとなった。

西域諸国:西域三十六国と呼ばれる。その消長があるため国数は一定しない。西域に内屬する諸國は東西六千餘里、南北千餘里にわたり、東は玉門、陽関で西は葱領に至る。東北で匈奴、烏孫と接し、漢朝は彼らとこの地域の覇権を争った。

段氏の氐:ここでの氐は柱石という意味。

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