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『好事家ルシアンの蒐集館』 蒐集余話――現実の拡張

 おや。また来たね。

 前に残した問いを覚えているかな。

 創作になった瞬間、それはもう現実ではなくなるのだろうか。

 どうやら君は、そのあとで少し妙なものを見てきたらしい。

 物語を知っていた千代子さんは、肖像画の青年を寂しそうだと思った。本を読んでやり、帰る時には挨拶をした。そして、差し出された手を取った。

 藤四郎君も、絵を見る前から、暗い袖の先に置かれた白い手を思い浮かべていたという。

 物語を聞く前と、聞いたあとで、同じものは同じように見えるだろうか。

     *

 『遠野物語』という本がある。

 山の神、河童、座敷童、死者、狐。岩手県の遠野に伝わった、不思議な話を集めた本だ。

 その初版の序文で、柳田國男は「この話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり」と書いている。鏡石とは、佐々木喜善のことだ。

 では、私たちが『遠野物語』を読む時、いったい何を読んでいるのだろう。

 遠野で起きた出来事か。土地の誰かの記憶か。その人から話を聞いた佐々木喜善の言葉か。それを聞き、選び、文章にした柳田國男の言葉か。

 おそらく、そのどれか一つだけではない。

 怪異が本当にいたかどうかを、ここで決める必要はないよ。

 ただ、人々が山を恐れたこと。死者を語ったこと。禁じられた場所へ入らなかったこと。その話を次の人間へ渡したこと。

 それらは現実に、人の行動を変えている。

 怪異がいたと証明できなくても、人々が怪異とともに暮らした現実まで、消えてなくなるわけではない。

     *

 昔の人は御伽噺を作ったが、現代の私たちはもう作らない――などと思ってはいないかい?

 友人の友人が見た。ある学校で起きた。あの駅の、使われていない階段に出る。夜中にこの番号へ電話をかけると、妙な声が答える。

 学校の廊下が、道路や駅になった。囲炉裏端が雑誌や掲示板になり、今ではSNSになった。

 話は昔より速く走る。走りながら土地の名を替え、別の事件と結びつき、よくできた結末を拾ってゆく。

 それを都市伝説と呼ぶなら、私たちは今も、なかなか熱心に御伽噺を作っているわけだ。

     *

 前には、現実から物語が生まれるところを見た。

 今度は反対側から眺めてみよう。

 生まれた物語は、人の目に入り、感情を動かし、行動を変える。そうして新しい出来事を生み、その出来事がまた語られる。

 現実から物語へ。物語から、もう一度現実へ。

 一方通行ではないんだよ。

 ここで、シュルレアリスムという少々長い名の話をしよう。

 今では「シュール」といえば、奇妙だとか、脈絡がないとか、現実離れしているという意味で使われることが多い。

 けれど、シュルレアリスムの「超現実」は、現実を捨てて空想へ逃げるという意味ではない。

 諸君の言葉を借りれば、「超かわいい」は「かわいくない」という意味ではないだろう?

 ……何だい。その言葉を私が使うと、そんなにおかしいかね。

 もちろん語源が同じだと言っているのではないよ。ただ、「超」は否定ではなく、向こう側まで押し広げるものだと考えてみたまえ。

 アンドレ・ブルトンは一九二四年の『シュルレアリスム宣言』で、夢と現実という、一見相反する二つの状態が、やがて一種の絶対的現実――超現実へ解消されることを信じる、と書いた。

 夢か、現実か。無意識か、理性か。どちらか一方だけを本物にして、もう一方を捨てるのではない。普段「現実」と呼んでいる箱を、もう少し大きくしてみる。

 夢、記憶、欲望、恐怖、誤解、噂、民話、創作。

 そういうものは、帳簿の上では事実にならないかもしれない。だが、人が生きる現実には、ずいぶん深く手を入れてくる。

 ならば、こぼれ落ちたものまで拾い直せば、今までとは少し違う現実が見えてくるかもしれない。

     *

 民話は、現実を人の語りの中で煮詰めてゆく。

 シュルレアリスムは、当然だと思っていた現実の結び目をほどき、別の結び方で眺め直す。

 方法は同じではない。けれど、どちらもこんな問いをこちらへ返してくる。

 日頃、現実と呼んでいる範囲だけが、現実の全量なのだろうか。

 もしかするとファンタジーとは、現実ではないものではなく、現実が異様な密度まで煮詰まった姿なのかもしれない。

 恐怖、願い、愛情、悪意、土地の記憶。そうしたものが選ばれ、削られ、混ざり合い、ひとつの異様な像になる。

 それは現実そのものではない。だが、現実と無関係でもない。

     *

 さて。あの肖像画の青年は、本当に絵から出てきたのだろうか。

 最初からそこにいたのか。噂が彼を作ったのか。千代子さんが見つけたのか。藤四郎君も同じものへ触れたのか。

 私から答えるのはよそう。

 ただ、千代子さんの手首には指の痕が残り、藤四郎君の手には爪の傷と、男の手首を掴んだ感触が残った。

 そして怪談には、新しい話が一つ加わった。

 昔、絵の男に連れていかれそうになった女学生を、その兄が引き戻したことがある。

 この先、誰かがそれを語るだろう。少し忘れ、少し間違え、何かを足して、次の誰かへ渡すだろう。

 百年後には、兄は軍刀で絵の男と戦ったことになっているかもしれないね。藤四郎君なら、さぞ嫌な顔をするだろう。

 その時、それは創作だろうか。現実だろうか。

 表と裏が違っていても、硬貨は一枚だ。

 ファンタジーもまた、現実という一枚の硬貨の、まだ見慣れていない側なのかもしれない。

 君には、どう見えるだろうね。


【主な参考資料】

・柳田國男『遠野物語』初版(明治四十三年)
https://dl.ndl.go.jp/pid/767944

・柳田國男『遠野物語』青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/52504_49667.html

・André Breton, “Manifesto of Surrealism” (1924)
https://theanarchistlibrary.org/library/andre-breton-manifesto-of-surrealism

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