私はルシアン。好事家だよ。
……おや。また会ったね。
今日は少し、変なものを見てもらおうか。
便器。
自転車の車輪。
瓶を乾かすための道具。
どれも、もとは美術品ではない。誰かが絵筆で描いたわけでも、鑿で彫り出したわけでもない。店で売られ、日々の用を果たすために作られた、ありふれた品物だ。
ところが、それを一つ選ぶ。いつもの場所から引き離し、別の場所へ置く。向きを変え、題をつける。
――さて。これを芸術と呼ばれたら、君はどう思う?
「屁理屈じゃないですか」
横から声を挟んだのは藤四郎だ。
「おや」
「腹が立ちます」
「まだ説明の途中なんだが」
「最後まで聞けば、腹が立たなくなるんですか」
「それは保証できないね」
*
マルセル・デュシャン。1887年にフランスで生まれ、二十世紀の美術にずいぶん大きな厄介事を持ち込んだ芸術家だ。
彼はあるとき、「上手に作る」というところから、少し離れてみた。
作るかわりに、選ぶ。
作り変えるかわりに、置く。
そして、見慣れたものを、いつもとは違う目で見てみる。
たとえば、1913年の《自転車の車輪》。木の腰掛けに、自転車の前輪が取りつけられている。
車輪には走るという役目があり、腰掛けには座るという役目がある。だが、こうして一つにされると、どちらの役目もうまく果たせない。
役に立っていたものが、役に立たない場所へ置かれた。
すると妙なことに、それまで見えていたはずの形が、急によく見える。細いスポーク。丸い輪。回転する影。
車輪というものは、こんな形をしていたのか、とね。
物そのものが別物になったわけではない。変わったのは、物を取り巻く関係の方だ。
*
そして1917年、《泉》が現れる。
男性用の小便器を普段とは違う向きに置き、「R. Mutt 1917」と署名し、《泉》という題をつけたものだ。
「便器でしょう」
「便器だね」
「ひっくり返して名前をつけただけでしょう」
「そうとも言える」
「それを芸術だと言い張るんですか」
「さて。そこが面白い」
藤四郎は、まったく面白くなさそうな顔をした。
「じゃあ俺がこの煙草盆を床へひっくり返して、《大海原》と名づけたら芸術ですか」
「やってみたまえ」
「やりませんよ」
残念だ。少し見たかったのだがね、《大海原》。
*
デュシャンは、選んだ既製品を作品として示す、こうした仕事を「レディメイド」と呼んだ。
もっとも、出来合いの品を持ってくれば、何でもたちまち芸術になる――と覚えて帰る必要はないよ。それでは新しい規則が一つ増えただけで、あまり面白くない。
選ぶ。置く。向きを変える。名づける。
そうすると、何でもなかった物と、それを見る人間との間に、何かが起こる。
美しいと思うかもしれない。笑うかもしれない。馬鹿にされたようで、腹が立つかもしれない。
「こんなものは芸術ではない」と思ったなら、それでもいい。
ただ、ひとつ気になる。
藤四郎。君は、なぜ腹が立ったんだい?
「便器を持ってきて、芸術だと言うからでしょう」
「では、何を持ってくれば芸術なんだろう」
「そういう話ではなくて」
「うん。そういう話になってしまうんだよ」
つい先ほどまで何とも思っていなかった便器の前で、芸術とは何かを考えさせられている。
納得していないのに、もう無視もできない。
私には、そのあたりが面白いんだよ。
*
「俺は嫌いです」
「うん」
「納得もしてません」
「それでいいんじゃないか」
「先生は?」
「私は好きだよ」
「先生は好きでしょうね」
「よく分かっているじゃないか」
さて、君はどうだろう。
芸術というものはね、気に入らなくても見られるんだ。
腹を立ててもいい。笑ってもいい。「こんなもの」と言って帰ったって構わない。
それでも、帰り道でまだ考えていたなら――
まあ。
なかなか厄介なものを見てしまったね。
【主な参考資料】
・The Museum of Modern Art, “Marcel Duchamp. Bicycle Wheel. New York, 1951 (third version, after lost original of 1913)”
https://www.moma.org/collection/works/81631・Philadelphia Museum of Art, “Marcel Duchamp, Fountain, 1950 (replica of 1917 original)”
https://www.philamuseum.org/objects/92488