結論として、ふたなり×ショタがおね×ショタ、ショタ×ショタと同一でかつ攻守逆転で成長がメインディッシュかつそれらの猟奇的シーンをサービスのように扱っていた時点で、私はマジョリティを名乗れない。と、この文章を書き終えた私は思うのだった。
以下はそこに至るまでの書き散らし。
あと今後の方針報告は一番下。
マイノリティであることを自称することは良くも悪くも賛否ある。
自意識過剰故に変人を自称する人もいれば、割と妥当な根拠をもったうえで変人を自称する人、どちらでもないけれど何となくそう感じる人、それぞれ色んな背景がある。
ただ少なくとも賛否分かれる大きな原因の一つは「自意識過剰による変人の自称」という可能性が自他ともに完全に捨てられないからだろう。
なんなら背景の正確性より「自意識過剰な奴を叩いて悦に浸りたい」みたいな感情が強く前にでている人が多いように感じる。いや、そういう人に突っかかられたら面倒くさいから単に記憶に残りやすいだけな気もする。
兎も角、自分を変、異端と自認することは良くも悪くもというか。良いことはあまり思いつかないのに、悪いことはぽんぽん思いつく。面倒くさいもんである。
で、私がその変を自認しているという話。
数学が嫌になった私による思考ダダ漏らしノートです。いつもはメモ帳とかに書いていますが、ここに置けばこの無駄な時間を「私は何かをやった」という肯定感に繋げられるかなと。影響力など皆無に等しいネットの片隅アカウントだからこそできる所業。
「近況ノートに出しても意味なかったわ」みたいに必要なくなったら多分消すし、不必要になったものをアッサリ消すのはいつもの事なのでご愛嬌ということで……(逃)
話に戻る。
まず私が変人であるということについて、私がどれほどの確証をもって言っているか。正直40%ぐらい。ほとんど自分のことを変と思ってない。なんなら割とマトモなタイプだろうと思うし小学生ぐらいの時からずっと思っている。
マトモだから中学受験に受かったと思ってるし、でもマトモな奴は高校留年しないよなとも思う。
(ここは私の「マトモ」の定義によって変わる話だし、正直言葉遊びでしかないのだけれど)
ではなぜ変を自認するのか。理由は単純、人に言われたから。要は自分の尺度が疑わしくなるほど外部から変というラベリングを何度も貼られた。
発端の小学六年生。中学受験に受かって、それこそ自分はマトモという意識に大きな説得力が備わった時期に同級生から言われた。お前が学年で二番目の変人だと。学年で一番の変人認定されたY君がなまじ納得できるような変人であったため、余計私の変人No.2に説得力が増した。未だに解せない。
ただここまでならただの身内ノリで終わる。最長8年間、田舎の閉鎖された空間で共に過ごしていればそこに強い意味も付け加えたくなるだろう。
(いやそれでも変人と言われるのは解せないが。私割と真面目だったと思うのになぁ……)
そして辺境の田舎から飛び出し中高に上がってからは、数えられないぐらい変な人判定を食らってきた。
中学の同級生からやんわりと変であると教えられ、部活の顧問からもやんわりと私がマイノリティ前提であることを話され、何となく自分が浮いてる感じも平常運転な気がしてきた。高校に上がってからも変わらず。
なんなら直近でなら、この前、隣接ブースにしていた創作仲間から「創作やっている人は大体変な人と言われるけど、貴方はその創作者の中でも変」というお墨付きを賜り、いよいよ自分がマトモを自称するのはキツいんじゃないかという思いが強まってくる。
私という人間が多数派か少数派かを考えたとき、大体の人間が少数派をあげている。みたいなのである。
ただ、別にそれはいい。
私が変人として見られるのはいい。というか、どのように見られたとしても興味を持つことができない。
例え私が誰かに「分不相応の発言を自覚しないまま自分に酔いしれた行動を他人に押し付け見下す、高飛車能無しの愚図」と思われたとしても、一瞬その評価に不満を示したくとも、3秒後にはなんかどうでもよくなってしまうし、私の事をよく知らない人が言っていたのならばその一瞬の不満でさえも発動してくれないだろう。し、それはある意味私の美点とも思う。
なら何故こんな「私が変である」という自認についてここ6年ぐらいウダウダ考えているのか。
それは、私が私のどこか変なのかを実感できていないからだ。
ここ、ここが一生分からないし、だからめちゃくちゃモヤモヤする! 貴様らのいう変とはなんだ! 至って普通のJKだっただろうが!
ということで、ここからなぜ私が変と言われるのかを考えるターン、内省。
思いつく可能性は以下。
私が天才だから。
支援が必要な性質があるから。
人の目を気にしないから。
好奇心旺盛だから。
田舎で育ったから。
世界の基準が自分の中にありすぎるから。
そもそも私が変なのではなく、相手が誰しもにある個性の一つをまるで異端かのように取ってあげていただけ。
そもそも私が変なのではなく、タイミングにより相手が私を変と思う条件が揃ってしまい、それがなんども繰り返されていた。
これが限界。一つ一つ考えていきたい。
まず、「私が天才だから」。これはない。偏差値高い人ほど変人変態であるとはよく言われるが、私の中高はそこまで天才的に賢い学校ではない。年に一人は東大合格を排出してるっぽいが、それがどれほど凄いのかもあんま分かってない。そんで仮に結構凄い高校だったとしても、私はそこを転校しているわけだからどっちみち違う。
次に「支援が必要な性質があるから」。
この場における支援に必要な性質とは、国の福祉の対象内となっている本人にはどうしようもない身体の特性を指すこともする。
これに関しては考えない。というか、私の特性を分析するという上では考えても仕方がないと思っている。
そういう特性は素人が語っても根拠として弱すぎるというか。よく言われるADHDもAさんのADHD、BさんのADHDとかあって、診断の都合上ADHDという名をつけているだけで言葉で一括りにできるほど単純なものでもないんじゃないか、みたいなことを思っていたりする。多分、特性がなんであろうが結局は「これからどう生きやすくするか、マシにするかを考える」という個人単位の考えに落ち着くだろうし、それは今私がやっていることと何ら変わらない。
だから仮に私が何が特性があろうがなにか診断の下るものだろうが、私の変と思われてきた説明にはならないので、そこを考えても何も進まないやー、てことでこれもナシ。というか変に見えなくても診断がおりてる人とかも世の中にはいるだろうしね。
ただ、これがナシになることは初めから分かっていた。
それでもこの可能性について語ったのは、ネット上で見かける気に食わない人、変だと思った人と障害を簡単に結びつける、その雑な一般化が気に食わねぇ、という謎の不機嫌があったからと思う。特性に関わらず、今回私がなぜ変と思われるのかに引っかかっているのもそうだ。解像度の低いものをそうと認識せず雑に括る姿勢に共感できないし、けど自分がそうでないかと言われると胸を張ってはいと言えない。誰しもが行う、自分を納得させるための無理な因果の結びつけに、ちょっとキレてて、ちょっと悲しんでる。まあ今回はそんな話じゃないし、仮に自分が雑な一般化をした時に気づいて反省できればいいだけだし、雑な一般化を禁止した状態では生活できないのでいい塩梅の別軸を適当に探っとけばいい。
とりあえずこれはこれで終わり。
次に、「人の目を気にしないから」
これはありそ〜!! 私を変とさせる大きな原因ではないだろうが、助長させる要因の一つでは確実にある。
私は羞恥心がない訳じゃない。でも毎度それを上回る何かがあるのと、無駄にある行動力で羞恥心が機能しない。
人の目を気にしないというのは、他人の基準に引きずられないという点では良いことだが、社会で生きていく上では致命的すぎる。要は社会性がない。
ただ、人の目を気にしないというのは、私の特性の一つと言うより別の特性によって表面化した特徴の一つ、というような気がする。だから「私の何が変なのか」で核なのはこの特徴を引き起こした別の特性、なんじゃないか。
そこを把握すれば、人の目を気にしないことによる不利益をなくせるかもしれない。多分。
次に、「好奇心旺盛だから」
「人の目を気にしないから」と同じような臭いがする。
前述した羞恥心を上回るなにかとは、この好奇心のことなんじゃないのだろうか。
では、「人の目を気にしない」を引き起こす別の特性は「好奇心旺盛だから」だったのか。いやぁ……なんかそうは思えない。単純に肯定できる根拠がない。でも否定もできない。
次に、「田舎で育ったから」
数年前、とあるコミュニティでどんぐりを食べただけで数ヶ月同じ話をされたことがある。なんか昔も似たような事で同級生に引かれた記憶があるので、今度こそは忘れないようにしようと思ってどんぐりのことは覚えている。
私の認識としては、公園でどんぐりを食べただけだった。ただ、先述と同じ隣接ブース創作仲間の「都会にどんぐりの木ってそんなにあると思う?」という言葉を頂いて、変と思われるちょっとだけ理由が分かった気はした。
要はカルチャーショックだ。
私が育ったところは近所にある山菜を食べるのと、近くにコンビニさえなくお菓子を入手できないド田舎であることが相まって、拾い食いが身近なものとなってしまった。なんならそこら辺の知らない草や虫に手を出すのではなく、マキの実や野いちごやドングリなど、食えるモンを食っていただけ賢いとさえ思う。いや賢くはないな。拾い食いはダメだ。
私が変な人と思われる核ではないと思うが、誘発させる要素の一つだったのではないかと思う。
ド田舎の男女比バグった小学校出身は結構マイノリティであることを私は忘れがちだ。
なんなら中学受験も家庭環境も進路もやってることもマイノリティだが、ここまできたら私がマイノリティなんじゃなくて、誰にでもある個性なのではと思ってしまう。
誰だって個性の単位を細かくして言ったらマイノリティの塊になるし、そのマイノリティをかき集めたのがマジョリティなんじゃないか。何言ってるかわからなくなってきた。この話やめよう。次。
次に、「世界の基準が自分の中にありすぎるから」
なんかもうこれな気がしてきた。「人の目を気にしない」「好奇心旺盛だから」「田舎で育ったから」などなどの理由を浮かばせる一番の原因なのではないか。
要は私は頑固なのか。でも頑固とか素直って、評価する側の機嫌や都合に大きく左右される夜八時の寄り合いにいる爺さんたちが使いがちな好感度計測装置になりがち範囲バカデカな言葉(強火)と思っているので、もっと私が腑に落ちる言葉を当てはめたい。
自分の基準が優先されがち、というのは行動だけ見ればそうだと思う。なら意識的にそうしているのかと言われれば違う。私が浮いている原因がこんな単純だったらここまで悩んでないし、今まで私に「変」と教えてくれた人達だって「もっと他人のことを考えて」みたいなことを言ってくれたと思う。今までの私が要領を得ないながらも確かになにかあるような発言を受けてきたのは、私が知りたいと思っている「変」が他者でも上手く言語化できないからこそなんじゃと思う。
結果的にそうなっている、な気がする。
他人に興味がない。という言葉も部分的には当てはまるが、しかし他人と話してなかったら考えが極端になったり、久しぶりに人と話したら気持ちよくなるので、極端にそうとも言えない。
なぜ基準が自分にありすぎるのか。
私はそこまで私の事信じてない。
信じてないのは私ではなく、多分感情。自他ともに感情を信じてない。感情の何を信じてない? 感情を判断基準にしていないというか、情報としての優先度が低いんじゃと思う。
例えば、私はAさんが悪い、と、Aさんが嫌い、を混同してAさんを責める。という現象に酷い忌避感を覚えている。他人がやってる分には何とも思わなそうだが、自分がすると考えると非常に気持ち悪い。
人間である限り判断に感情が混ざることは避けられない事だと思う。けれどそれは判断と感情を混ぜて振るっていい理由にはならないし、自覚があるのならばできる限り感情は自覚し、コントロールして振る舞うべきだと思う。し、それでも人間は一生自分の感情を完全にコントロール出来ることはないだろうから、だからこそ感情コントロールをミスった人がいても許すべきなのではと思う。
この場における許すというのはやった事を認めるということではなく、ミスはミスとして認めないがそれでもミスをした人間と今後付き合っていくことは認める、という意味での許す。
許すも許すで個人によって認識が違うし、許すべき許さないべきとかの話題で前提認識が違うまま、それを認識出来ず整理もせずに話を進めようとするからめんどくせぇよなぁ、と思ったり思わなかったりするがこれもまた別の話なので置いといて。
普段こんなことを考えて生きてはいないが、改めて考えるとそう思う。
自他ともに感情を一次情報として信用していない。というか、自他の快・不快よりも、どうしてそう至ったのかの真実の方が重要なだけなのかもしれない。
物事を正確に把握したい。という思いが感情より優位なせいで、自他の感情を蔑ろにして偶に他人から反感を買う。自分に対しても反感が来ないことをいいことに感情を蔑ろにしがち。自覚してないだけで心身の不調の原因になっているかもしれない。
この特徴ならば私の基準でマイノリティと言える。
要は自己中。
とりあえずの結論!
私を変たらしめる要素の核は、思考の最優先が正確性であること。
そこに田舎育ち、好奇心旺盛、自他の感情への興味のなさ、などなどの性格が噛み合ってなんか変な方向に行っていそう!
「そもそも私が変なのではなく、相手が誰しもにある個性の一つをまるで異端かのように取ってあげていただけ」
「そもそも私が変なのではなく、タイミングにより相手が私を変と思う条件が揃ってしまい、それがなんども繰り返されていた」
に関しては、私が変でないという前提が必要であるがその前提が成立するほど私が信じられる根拠がないのと、相手のせいにしたらそれはそれで面白くないというか、こういうのって自分のどこに何があるのかを考えてどうチューニングするかの机上論を膨らますのが楽しい節もあるので、もう考えないものとす。
でもまぁ、人生で一番恨んでる祖父をモデルにふたなり巨乳ヒロインを作ってその尊厳破壊で復讐を済ました気になっていたり、早い段階でふたショタ(おねショタ、ショタショタと同一存在)みたいな訳分からんモン作ってたりグロ嫌いなのに猟奇的シーンをなんか艶めかしく書いてご満悦になってたり人格分割がどうの記憶入れ替えだのリセットだの記憶破片ごちゃまぜミンチだの自分の中で思考実験を作ってはニヤニヤしていたり、なんかそういうヘキの時点で、少なくとも創作者の中でのマジョリティは名乗れないのかもしれないな。
あと謎に完璧主義だし、創作仲間といいつつその人の創作へのスタンスや作品にしか興味がなくて、仲間意識が大きくなればなるほど相手の人間性が視野から外れていく感じが怖いし、もう私は人里に降りず山奥に引きこもり、寂しさに耐えながら黙々と創作をし続けるスタイルにした方がいいんじゃないかなと思ってきた。なんか別の話になった。とりあえずここで終わりにしよう。
【今後の方針】
直近の目的
・蒼穹イドラの原稿完成&どっかの公募突っ込んどく。挿絵もつけて本にする。受験優先のためイベント参加は不明。ついでに宵賂事屋もどっか突っ込む。
今後の創作活動のスタンス
何よりも楽しむことが第一優先。
今後気をつけたいこと
「創作している自分」をアイデンティティにしない。永久に創作活動の主語は作品であるべし。
長期の目的(大学生以降の活動)
・二次創作でも一次創作でも漫画描いてコミケに出る。
・技術向上のため、ラノベ純文学大衆文学児童文学長編短編関係なく、たくさん公募に出す。
・漫画の公募も出す。構図やコマ割りなど上手いネーム作りを優先させて技術を磨く。画力はないに越したことはないので余裕があれば磨く。
・作曲が低いハードルでできるぐらい上手くなる。多ジャンルに手を出せたら尚良。
・Unityでルカ過去外伝の2Dフリゲ作る。プログラミング、イラスト、BGM、全部自分で。
・blenderをマスターする。まず3Dモデルで踊ってみたを作りたい。
・戦闘シーンが描けるぐらいぬるぬる動きのアニメーションを作れるようになる。
・貯めてるイメソンで手描き動画を作る。(画力、構図、blender、アニメーションなどで疾走感ある物を作りたい)
・俺為を公募に突っ込んで、三次選考以上に行けたら書き始める。
・自作四六判ラノベの資料集、漫画の単行本、CDを作ってイベントに出す。
やりたいことが沢山あります。
できるかは分かりませんが、人生、対戦よろしくお願いします。
こういう意味の無い自語りをダラダラネットに投げるの、掲示板時代の自語りスレを思い出して懐かしい気持ちになる。