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全肯定の哲学あるいは全否定

いま個人的にエッセイを二本書いているところで、いまのところ日英と両方の言語を行ったり来たりしている。
このふたつに少しのギャップも私にはない。
どちらも同じというか、何も変わらないし、何も変わってないし、どうせ何一つ出来もせず感得に至りもしない
まったく同じ、そういう印象である。

人々が、というより人々の意識とでも言おうか。

気がついたひともいるが、気がついたところで何もしないし出来やしない。

実践と一口に言うが、ようするに実践とは崖っぷちである。

たいていのひとはそんな状態を脱するべく、崖っぷちだあ、頑張る(⁠>⁠0⁠<⁠;⁠)と、今いる陣地を守りぬいたはずである。

その意味では実践は既にこの世に、ない。
その意味では実践は死者の領域であるとも学者諸君ならひとりごちで、ムラムラしてきて本とか上梓しちゃうのかも。

2次創作ですね。

けっこうおもしろいっすよ(笑)

うぅん、死者というかね、生きるとは死ぬことというか

ようするに芸、芸術家のことですよね

これが芯から健康な人間にしか出来ない。たいてい犠牲が必要になり黒歴史製造業になりにけりとなるはず。
そのまま舞台に立つって、信じられない芸当なんですね、普通には。
私は昔から好きでした。

最近歴史のこと調べると、性癖をうっかり知るはめになるみたいに、あ、このひとも低脳だったんだ、とわかってしまうことがあります。

低脳ってなんだかわかりますか。

ようするに痛みも感じないし、自分の気持ちもわからないひとのことです。

昔の言葉で言うと、死ななきゃわからないパアってことです。

そういうひと、いまは半分以上いますよね。

昔ならたぶん今頃しもた屋で膝を出して何も見てない目をしていたことでしょうか

テクノロジーはまさにこの層を見事に救い出し、社会の上層にも居られるようにしました。

だからたぶん今度こそ

どうせ何一つ出来やしないです。

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