※日々、あさく、つたなく、ぶれぶれで。
2611:【爪と髪】
古代のひとって爪をどうやって切ってたんだろう、と疑問に思って考えるよりさきにネットで検索してしまった思考放棄人間のいくひしさんですが、どうやら原始人くらいになると何も手入れをしなくとも生活しているだけで爪が摩耗するみたいですね。切る必要がそもそもなかったと考えればたしかに筋は通っていますが、うーん。やっぱり爪を齧るなどして手入れはしていたのではないか、と妄想してしまいます。というよりも、必ずどこかの時点では爪を切らないと危なくなるくらいに生活水準があがるわけですから(つまり、爪が摩耗しないくらいに効率よく安全に生活できるようになっていくはずですから)、猿人ならばたしかに爪切りは不要だとしても、道具の扱いを覚えた原始人ならば爪の手入れは不可欠だったのではないか、とやはり疑問してしまいます。手の爪はよいとして足の爪はどうしてたんでしょうね。じぶんで齧っていたのでしょうか。それから髪の毛はどうしていたのでしょうね。伸ばしっぱなしだったのか、どうなのか。ひょっとしたら人類の祖先は、道具の扱い方を覚えるよりさきに髪の毛を道具とする術を覚えたのかもしれませんね。そう妄想してみますと、髪の毛の伸びやすい人ほど生存に有利になりますから、結果として人類の髪の毛はこうまでも伸びやすい形質に進化したと考えられます。とはいえ、むかしの人はいまほどには清潔感に溢れてはいなかったでしょうから、案外に脱毛症に悩まされていた可能性もなきにしもあらずですが。(妄想ですので、うんにゃらかんにゃら真に受けないでください)
2612:【ぜんぜん公平ではない】
いくひしさんは差別主義者なので好きなひとたちには漏れなくうんとしあわせになってほしいと望んでいるし、好きではないひとたちにはそこそこまあまあしあわせになってほしいと思っています。(ギャグっぽく書いたつもりでふつうにこれは差別ですね。一般的には区別と認識されるのでしょうが)
2613:【公平であればいいってもんじゃない】
いくひしさんは差別をしないので好きなひとたちには漏れなくうんと苦しんでほしいと望んでいるし、好きではないひとたちにも漏れなくうんと苦しんでほしいと思っています。(ふつうに容赦なく、疑いようのないくらいに最悪ですね。しかしこれは差別をしていないので公平ではあるのです。差別や区別をしないことと、その人物の態度や行為の善し悪しはまた別ということです)
2614:【映画みた】
ひっさしぶりに映画を観た。やっぱり映画はいいな。おもしろいな。しかもかなりおもしろい映画だったのですごくとてもうんと楽しかった。いくひしさんは食事に関しても、ほどよく甘くて、ねちょねちょしてなかったらたいがいのものを美味しく感じるし、甘いのに飽きてきたらしょっぱいのがすごく美味しく感じる。映画も似たところがあって、とりあえずテンポがよかったらおもしろく感じる。ちょっと置いてきぼりにされるくらいがちょうどよい。待って待っていまの台詞もっかい言って、くらいのテンポだとすごくうんとおもしろい。あ、いくひしさんは字幕で観るタイプで、字幕でおもしろく感じたのに吹き替え版だとそれほどでもなく感じることがあって、これは吹き替えの声がいけないということではなく、どちらかというまでもなく、字幕で文字を読むことでいくひしさんに負荷がかかっていた分の情報処理の遅れ――言い換えれば映画のテンポの速さが、吹き替えになったことで余裕ができて、その分、テンポが遅く感じられてしまう点の作用が大きいと推し量っている。映画を倍速で観るひとがいるのも理解できる。情報処理能力の差というよりも、映画の何を見ているのかがひとによって違うから生じる観方の差といったほうが正確かもしれない。圧縮されたときにそぎ落とされる情報を重宝しなければ早回しをして観ても楽しめるのだ。本の速読にも同じことが言えるだろう。どちらがよいわるいの話ではない。楽しめるほうを選べばよいのだ。ただし、受け取る情報量、或いは処理する情報量に差が生じるのは、避けられないだろう。それはおそらく個々人にある情報処理能力の差よりも大きくなるはずだ。もっとも、処理する情報量の多さが直結して情報の質に繋がるとは言えないのだが(ここで言う情報の質とは、処理する人物にとって応用する価値が高いものを言う。これもまた個々人の世界観――私生活――に左右されるだろう)。映画、もっと観たいな、と思った日だった。
2615:【打鍵はゆびの運動】
実感として六万字の中編をつくる労力は腕立て伏せを千回するのと同じくらいの労力に思える。いちにち五十回ずつするとして、腕立て伏せ千回は二十日でできる計算となる。六万字の文章を二十日で並べるとするといちにち三千字ずつ並べればよいので、腕立て伏せ五十回と文章三千字は同じくらいの労力と言えそうだ。いい加減に言ってみただけだけれども案外に的を得ていたかもしれない。いくひしさんにかぎった話かもしれないけれども五十回の腕立て伏せを連続して行うのはつらいものがあるので、ここでは十回を五セットとしておこう。十回の腕立て伏せをするのにだいたい三十秒かかるとして、五セットなら二分半だ。途中で休憩を一~二分とるとして、だいたい十分あればできるかな、といった塩梅だ。張った腕をマッサージして乳酸を飛ばす作業を含めても三十分もあればできるだろう。腕立て伏せ五十回に三十分として、三千字の文章を並べるのも三十分もあればいけるのではないか。そうでもないのだろうか。計ったことがないのでよく分からないが、この「いくひ誌。」はボツにしないかぎりは一つの記事に五分~二十分をかけているので、それほどかけ離れた推測ではないだろう。で、三十分で五十回の腕立て伏せをするとして、それを二十日間毎日行うのと、六万字の中編を並べるのはだいたい同じ労力がかかると踏んでみたわけだけれども、もちろんどちらがより大きな負担に感じるかはひとそれぞれだ。腕立て伏せ五十回を毎日なんて無理だ、と思うひともいれば、毎日三千字なんて無理だ、と思うひともいるはずだ。三十分ではなく一時間かければ、と思うひともいるだろう。そこは個人差があって当然なので、はやければいいというものでもなかろうし、もっと言えば、腕立て伏せを毎日五十回していったい何を成したいのか、のほうが遥かに考える価値があるかもしれない。六万字の中編をつくることよりも、どんな中編をつくるのかのほうが考える価値はありそうだ。断るまでもなく、腕立て伏せをすることを目的としてもよいし、とりあえず作品をつくることに意味があるのだ、としてもまったく問題はない。とはいえ、個人的にはこんな文章を並べるだけなら腕立て伏せを十回するよりも楽だし労力をかけないし疲れないので、本当になんてダメな物書きだろう、とがっかりしてしまう。楽なほう、楽なほう、に流されてしまっていったいいくひしさんは皮下脂肪にでもなりたいのかな? 皮下脂肪ならまだしも、いざ死亡、とならぬように、すこしくらいは身体を鍛えたり、頭をつかったり、吟味しながら文章を並べたりと、すこしでも何かに挑戦をする習慣をつくってもよいのかもしれないけれども、怠け者なのでそれも無理かもしれない。すぐに無理と言ってしまうのがいくひしさんのわるい癖なのだけれども、それはそれ、これはこれ、ダメダメでも生きていける日々に感謝をしつつ、ここ十日ほど毎日のごとく夜になると雨が降っていて、出掛けたいのに出掛けられない日々にうんざりしつつも、雨が降ってるくらいで引きかえすな、引きこもるな、ちゃんと出掛けろ、用を済ませ、とほかのいくひしさんに叱られてしまったので、罰として腕立て伏せを一回だけしたいと思います。しゃがむのですら面倒だ。そのまま床に転がると、思ったより気持ちよくてこのまま寝てしまおうと企む、本日のいくひしまんでした。
2616:【雑音と室温】
いま夜中で部屋のそとから物音は聞こえないし、外を出歩く人の気配もなく、自動車のタイヤが地面を舐める音もエンジン音も聞こえない。夜の静けさが好きで、きょうはその好きを手元に引き寄せてむぐむぐできた日だ。いま部屋に響いている音は、キィボードを打鍵するカタカタテン、カタカタテン、だけだ。いいや、もっとある。耳を澄ます。すると音が浮きあがってブロックのように、或いは交わることのないフォログラムのように感じられる。暖房のゆるやかな吐息音、メディア端末のHDがうなる声、それをなだめる小型空調のささめき、キィボードを打鍵するたびになぞる衣擦れの音に、キッチンから聞こえてくる針時計のチクタクが律動を刻む。つぎに並べる文字を選ぶ際にあく逡巡の間には、床を擦る足のゆびの音が、砂浜をなぜか脳裡によみがえらせ、ときおり出処不明な家鳴りが、パチともカチとも言えぬみょうに水気を帯びたしずくの響きを弾ませる。今宵は風がないのだな、ときのうおとといの暴風が嘘のようで、窓のそとに耳の焦点を合わせたところで、背骨がポキっと小気味よい音を立てた。背もたれに身体を預けると椅子が軋み、そうして新たな音に意識を奪われるともう、ほかの音は静寂の二文字に仕舞われて、暖房の一律な長い長い溜息が、空虚な日々の節目に途切れることなく溶けていく。そそがれるでもなく、留まるでもなく、室温を一定にすべく、部屋のそとに広がる静寂と交じりあうのを拒むように、息継ぎすら忘れて、あっ、今どこかで誰かが自転車のブレーキを踏んだ音が聞こえた。
2617:【一気呵成に加勢を】
ぼくの名前は世界一長い、それはそれはとても長くていちども口にできたことはないのだけれど、それはだって未だに父はぼくの名前をつけつづけていて、実際のところぼくは無名なのかもしれず、或いは生まれてすらいないのかもしれない、というのも出生届の受理期間はとっくに過ぎてしまっているから、本当にいったいいつになったらぼくの名前は落ち着くのかと、一向に口を閉ざす気配のない父の底なしの肺活量には舌を巻くばかりだが、父はきっと優に数万回は舌を噛んでいるに相違なく、一説によれば父はすでに円周率を三周ほど唱え終えているらしくて、つまり円周率は循環する無限であって、ある意味では有限の組み合わせの羅列からなっているとも考えられ、それは見方を変えれば、ぼくは生まれていないがゆえに死ぬこともなく、だからこそこうして無限にも思える長い長い、父の「我が子の名づけの儀式」の終焉を待ちわびていられるのかもしれない、もっと言えば父の口にする言葉の組み合わせはそれこそ円周率なみに膨大であり、無限に循環しつづけているものだから、そのなかにはもちろんいまこうしてぼくが思い浮かべているこの思念にも似た文章の羅列だって含まれており、言い換えればぼくはいまじぶんの名前を口にしているとも呼べ、そう自覚した瞬間にぼくはぼくとしての輪郭の一部を得、すくなくとも存在の一端をなすことで、父がぼくの名を唱え終えずとも誕生でき、ゆえに途中で幾度も死したとしても、こうしてふたたび生まれ落ちる余地にくるまれており、こうしてまたじぶんの思念にて再誕の繰り返しを連綿と、営々と、いつかは訪れるだろう父の死までつづけていくのだろう、或いは父の口さえ塞いでしまえば、ようやくぼくは安定してこの世に生を享けるのかもしれず、そうではないのかもしれない、思えばぼくは未だに父の名を知らず、母の名も、その姿すら目にした覚えがなく、それはそのはずで父はぼくの名を唱えるのにいそがしく、ぼくがぼくとして存在していられるのはこうして独白を思い浮かべているあいだだけなので(つまりじぶんの名の一部を唱えているあいだだけなので)、ひとたび欠伸をして、眠くなって、或いは目のまえを通り過ぎる一匹のハエに目を留めるだけでも、もう、ぼくはぼくとしての輪郭を保てずに、死ぬことすらなく、眠ることもなく、ふたたび父の唱える輪っかのなかを巡りながら、再誕のときを、春夏秋冬、四季のごとくぐるっと一周するまで待ちわびることもできずに、いったいこれが何度目の誕生であるかも曖昧なままで、いつまでもいつまでも思念を巡らせていたいと、頭の底から、どうにかこうにか、途切れずに済むように祈るほかにできることはなにもないのかもしれない、せめてあとすこし、あとすこしでもぼくに言葉を、ねえ、ああ、どうしたらよいのかな、もう何も思い浮かばないよ。
2618:【困らせてたらやだな】
好きな絵描きさんたちが立てつづけにアカウントをこっそり移動するみたいでかなしい。フォローもせずにリツイートばっかりしてるいくひしさんのせいかも、と思うといたたまれないけれども、そこまでの影響力がいくひしさんにあると思うほうがおこがましいので、偶然、偶然、と思うことにする。けれどもかなしい。
2619:【ねすぎじゃ】
やあやあ、おねぼうさんでござる。おはようございますでござるなあ。いくひしさんはきのう、夕方の五時にちょっとだけ休憩しようと思っておふとんによこになったでござる。マンガを五冊読んで、そのまますやすやしたでござるよ。で、起きたら何時だったと思うでござる? つぎの日の朝の九時でござる。じゅ、じゅ、じゅうろくじかんすいみんでござる。十六時間も寝てしまったでござるよ。こんなにすやすやぐーぐーしたのはおひさしぶりでござるな。でもたまにあるでござる。二十時間はぐーぐーしちゃうでござる。そういう生き物でござるよ。いっぱい寝たらさっぱり目が覚めてさわやかごきげんようだと思うでござろう? これがそうでもないんでござるよ。もうもう、身体はバキバキのグキグキで、背中は痛いわ、口のなかぱっさぱさだわ、もうもう退化を体感でござるよ。退化の快進撃でござるよ。退化の改新でござるよ、ってしつこいでござる。元ネタの大化の改新がなにを示しているのかも知らないのにかってにネタにするなんて失礼でござる。失礼つかまつったでござる。ごめんなさいでござる。いまはお腹がぺこぺこのぺこなのでトーストにピーナツバタをたぁっぷりつけて紅茶をちゅっちゅしながらぱくりんちょしているでござる。ぱくぱくのぱくでござるよ。おいちい。ピーナツバタはそのまま舐めてもうんと、ほわあ、なので、ほわほわあ、なので、スプーンですくってぱっくんちょするでござる。こんなことしてるからいくひしさんのおなかは、たっぷんたっぷんなんでござるな。いくひしさんのおなかはたっぷんたっぷんなんでござるか? いやらしいでござる、そんなに見ないでほしいでござる、いやんでござる、それはそれとしてたっぷんたっぷんのおなかはかわいいでござる、お気に入りでござるよ、おへちょもふにょふにょしててかわいいでござる。たれ目みたいでかわいいでござる。かわいいって言っとけばなんとかなるでござる。投げやりになって、鏡を覗いたら、お風呂に入ってそのまま寝ちゃったでござるから髪の毛がばーんってなってて、イソギンチャクみたいになってて、あっはっは、って笑ってきぶんがよくなったのできょうはお出かけするでござる。おひさまぽかぽかきもちいな。きょうも書店さんに寄って本を買うでござるー。あ、きょうはオチはないでござるよ。こんな日もあるでござる。
2620:【ラッキーな日じゃった】
自転車でコキコキお出かけできる距離にある公園に行ってきた。すごくとてもうんと大きな公園で、近くにサッカースタジアムがあったりして、公園の隅から隅がどこからどこなのか、その全部、全貌、そういうのも分からないくらいで、というよりも奥のほうに歩いていくのも、あームリー、ってなってしまうくらいに広い公園で、遊具もあるらしいのだけれども、遊具のある場所まで歩いていくのですでにハイキングやん、ピクニックやーん、みたいなね、もうもう入口進んで、芝生のあるところまで辿り着くので散歩を満喫した気分で、あ、もういいっす、おなかいっぱいす、足ぱんぱんっす、ってなってしまった。引きこもりにしてはがんばった。噴水とかあったはずなんだけれどもそれはシーンって止まっていて、ベンチに座ってしばらくそこでぼーっとした。ひなたぼっこした。ああこういう、なんもしない時間もいいな、インターネットから切り離された生活すばらしいな、と感動してたらポツポツと雨が降ってきて、風がびゅーびゅー吹いてきて、あっという間に曇り空の、太陽さんバイバイで、せっかくのぽかぽかひなたぼっこが、いくひしさんのきもちよいお心が、うみゃーっとなってしまった。よくある、よくある。お出かけようとしたら雨降るとか、お出かけしたさきで、よっしゃ気分転換サイのコーや、ってなったとたんにお天気さんが崩れてきて、きぶんさんがダイナシになるの、あるあるだけれども、そこにきて、こうして日ごろから書くネタに困ってるときには、シメシメこれで一つネタができたぞ、と雨に濡れながらいまきたばかりの道を引き返して、途中でマックに寄って、大好きなテリヤキバーガーセットを注文したらコーラを注文したはずが飲み物がソーダに変わっていて、いくひしさんはまあ滑舌わるいからな、しょうがないな、コーラがソーダに聞こえちゃったんだな、とやっぱりネタが一つ増えてラッキーと思って、思いのほかソーダが美味しく感じて、二重にラッキーってきぶんで、書店さんにも寄って、きょうはもうもう、大満足の満腹ぷくぷく満喫日和であった。疲れたのでいっぱい寝るぞ、おやすみー。
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参照:いくひ誌。【31~40】
https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054881262191