※日々と日々との狭間には、予期せぬ日常が入り乱れているわけではなく、無為な時間のぽっかりが漠然とまだらに分布している。
501:【うんうん】
いいコしかでてこない物語、いくひしに足りないのはそれだー!
502:【頭の構造がおかしい】
https://www.youtube.com/watch?v=QwR4ls8sXHQ503:【なぜ?】
無限にある組み合わせからなぜそれを選んでこられるのか。唯一解としか思えない。最初から解答案を見てしまっている観客からしたら、それの驚異はピンとこないかもしれない。しかし砂浜からピンポイントで真珠を拾い当てるのにも似た感性の鋭さは、まったくもって謎である。
504:【ミュータント】
https://www.youtube.com/watch?v=-Vxq7ocgeeshttps://www.youtube.com/watch?v=DkTMrCUjbSkhttps://www.youtube.com/watch?v=q0ddbQuDxTYhttps://www.youtube.com/watch?v=yJwPydpJHyA505:【AyaBambi&IBUKI】
https://www.youtube.com/watch?v=r3ZbfF_NUckhttps://www.youtube.com/watch?v=CEB078Lt0_Q506:【パナマ文書】
けっきょく租税回避してた資本家たちは今もまだタックスヘイブンを利用しているのかなぁ。その後の動向がまったくわからんぺんぺん。
507:【様式化からの圧縮】
海外ドラマ「スーツ」のシーズン5のつづきを観た。主人公が弁護士ゆえに法廷ドラマの側面はひきつづきある。しかしさすがにシリーズが嵩んだだけあって、ある種の様式ができてしまった。パターンと言ってもいい。そこでシリーズ5では、極力、裁判の決着場面を省略し、人間ドラマに磨きをかける方向に注力している。材料だけを提示し、そこからどのように勝利へ導いたのかは、過去のシリーズを通して、形式美をインプットされた視聴者の想像に委ねられている。圧縮されたその分を、登場人物たちの内面へと、より切りこんでいるのが、シーズン5の特徴と言えよう。さらに言うと、過去に登場した宿敵が、依頼人として再登場したり、或いは過去に信頼を築いたクライアントと仲違いしたりと、ファンにはうれしい展開が目白押しである。さすがというべきか、しかし過去のエピソードを知らずとも楽しめる構成には目をみはるばかりである。様式化されたらそこを美とするのではなく、削る。思いきりのよさを見習いたいものである。
508:【世間話】
さいきんヨーグルトを食べるようにしたんですよ。まいにち。グリコのビフィックスってやつ。白桃&ザクロヨーグルトで、さらさらしていてほとんど液体っていうか飲み物で、まあ摂取しやすい乳酸菌なわけですよ。でね、こっからが本題なんですが、まあ乳酸菌と言ったら腸内環境を整える役割があるわけじゃないですか。御多分に漏れずいくひしの腸内環境も整ってきたわけですよ。整理整頓上手、家政婦として世のいそがしいご家庭に送りだしたいくらいの整い方。で、まあ、お通じがよくなったのはご想像のとおりなんですがね、ちょいとね、えっとね、あれのほうの頻度がねって、なんか下品な話でもうしわけないのですがね、ホントあれがねって、やっぱり下品なのでやめておきますけれどもね。とりあえず、音が鳴らないようにする技術は日々むだに磨かれているなぁという近況報告でした。
509:【プロット】
いわゆる物語の設計図、プロットをつくらない主義だ。否、設計図はある。頭のなかに。それを一般的な方法で文字に置き換えることをしない。したくともできないからだ。要約できる物語になんの意味があるのだろう、というのが個人的にずっと抱きつづけている初心である(言い換えれば、読者によって要約したときに抽出される成分が異なるような物語をつくりたい)。いくつかの物語を立体的に組み合わせてひとつの作品として顕現させる。目指すべきはいつだってそこだ。ゆえに、プロットは、頭のなかで図形として立体的に展開させてある。それを文字に落としこむとき、それはすでに物語としてはじまっているのである。そういう意味で、物語の枠組みは、どんな作品であれ基盤として用意されている。2017年5月22日、本日、はっと気づいたのだが、まっさらなキャンバスになんの指標もなく、自由に筆を走らせるよりも、端から書くべき題材を用意し、下書きのようなものを規定しておいたほうが、じつはそこから織りなされる筆の新規性は、より高いものになりやすい傾向にある。それはたとえば、まったくなんの音楽もかけずに踊りの型を模索するようなものであり、下地となる音楽を定めてから型をつくっていくほうが、じつはずっと新しい動きが生みだされやすい。基盤となる音楽はじぶんが用意したものではない。端からあるものを選んだだけである。しかし、そこに合うように点を起き、線をつむいでいくことで、じぶんではけっして思いつかない予想外の動きに出会うことがある。確率でいうとそれは、端から自由であるときよりも高いのである。そういう意味で、プロットの存在は、自由を限定するものではなく、より自由に表現を行うために不可欠な基盤であるのではないかと個人的につよく意識されたいちにちであった。
510:【やる気がでないので】
いつものやつやります。15いったらやめます。2017/5/24