昨日は三角荘にて『今昔物語集』で読書会をしました。
題材として扱ったのは、(巻第十九・31)「髑髏、高麗の僧道登に恩を報ぜる語」です。
この物語は、いわゆる報恩譚で、前後には、第30話「亀、佰済の弦済に恩を報ずる語」また第32話「陸奥の国の神、平維叙に恩を報ぜる語」という物語が並んでいます。これらと比較したときの特徴しては、「恩返し」が、物語の山場を成しているわけではなくて、むしろ、殺人事件の真相を暴くという決定的場面に主人公である童子を向かわせる導入を成していることです。
また、現代の寓話であれば、殺人を犯した兄に罰が下ったり、その財産である銀の一部を童子が手に入ったりした方が、スッキリした物語になりそうですが、そうはなりません。そうならないところに、俗な道徳よりも高尚な宗教的価値っぽいものが感じられる、という意見が参加者からあって、印象的でした。
私が気になる点は二つあって、一つは、この物語の中では死んだ家族の霊が戻ってくるという「お盆」のような家族祭祀が、大晦日に行われていることです。柳田國男『先祖の話』には、お盆と正月が見かけ上似ているところから、柳田が著した当時「正月さま」などと呼ばれて正月に迎えられていた神が、古くは先祖の霊だったという説が述べられています。つまり、正月も、かつてはお盆のように祖霊を迎える儀礼だったのではないかということです。柳田が説くのは、日本人の伝統的な霊魂観は、外来の宗教である仏教が説く極楽浄土ように、死後はるか彼方の世界に霊魂を追いやるようなものではなく、すぐに戻ってこられるような近場にその霊魂を住ませるようなものだった、ということです。『日本霊異記』にも類話を持つこの物語は、そうした家族祭祀や他界観を示す、かなり古い例であることになるかもしれません。
もう一つは、これほどまでに生者の世界に干渉できる身でありながら、弟の霊が、みずから家族にその真相を暴いてみせようとしないことです。これには、自身が死者というケガレた存在であり、そのケガレをプラスの価値に転じさせるには、童子の存在が必要だったからではないか、と考えてみました。
昔話には、「大歳の客」や「大歳の火」と呼ばれるタイプの物語があります。大晦日の夜、主人公のもとを神秘的な存在が訪問して、主人公は、死体のような汚れたものを押しつけられるが、やがてそれが黄金などの財産に変化し、主人公は財産を得るというものです。新谷尚紀『日本人の葬儀』では、こうした物語が、他の葬送儀礼などと共に引用されつつ、「厄払い」されたケガレたものが、他者に贈与された場合にはプラスの価値に転じることがある、という分析が示されています。
この物語も、こうした葬送儀礼の構造を隠し持った物語であると考えれば、童子の霊との供食も、一種の「食い別れ」であることになりるように見えそうです。
ただ、会を通してこの考えはうまくまとまりませんでした。べつの機会があったらまた考え直してみたいと思います。