私が目を覚ました時、世界はとても薄暗かった。
まだ夜明けに届くかどうかという時間で、だというのになぜか、異様に『眩しかった』ことを覚えている。
目が太陽の光を受けて、過敏に反応していたのだろう、と今は思う。
それが、私がずっと眠り続けていたゆえなのか。
それとも、私がもう太陽をマトモに見られない種族になったゆえなのかは、定かではない。
ただ、そんな眩しさの中にあって、それでもはっきりと見えたのは。
志摩くんの、私の好きな人の泣きそうな顔だったことは、ずっと忘れられないだろう。
「それじゃ、また後でね。茉莉ちゃん」
「うん、気をつけてね。志摩くん」
そんな言葉で、私たちは別れる。
去っていく志摩くんの背中を見送ってから、私はクミンちゃんに声をかけた。
「さて、私たちもやることをやらないとね」
『はい。ウチは当初の予定通り、効率は悪いでしょうが吸血蝶の狩りに入ります。茉莉さんはこの後はおやすみですか?』
クミンちゃんに尋ねられる。
今の時刻は、朝の10時ごろ。
普通の人間であれば、おやすみどころかここからが一日の本番というところだが、今の私は違う。
ラベンダーさんに貰った『黄昏の衣』というローブを羽織っていてなお、眠気と虚脱感を感じる。
私の体は、ダンジョンの中にある作り物の太陽にさえ、軽い拒絶反応を起こしているのだ。
この装備がなければ、それこそ自分で歩くこともできないほどに。
でも、私は昨日志摩くんと同じ時間に寝て、同じ時間に起きた。
多少無理をした感じはあるけれど、ちょっとでも、なんだろう。
志摩くんに『私は人間だよ』と、安心して貰いたかったんだと思う。
「ううん、今日は頑張って起きてるよ。一度ラベンダーさんに顔を見せるように言われてるし、多分特訓が始まるんだと思う」
『……大丈夫ですか? 昼間に行くと、機嫌が悪くなりそうな気が』
「さすがに、自分で呼んだんだから大丈夫じゃないかな」
今私たちがいるのは、志摩くんの部屋に生えた(未だに意味が分からない)ダンジョンの五階層。
人類の遥か高みにいる吸血鬼であり、私の命の恩人でもある『ルゥ・ラ・ルゥ』さんの別荘。
その管理を一人で任されているのが、これまた吸血鬼のラベンダーさん。
私の教育係を買って出てくれた、紫色の髪をした美人さんだ。
昨日一日は、志摩くんと一緒に吸血鬼の『飢餓』の説明を受けたり、家事能力をチェックされたりした程度で、あまり積極的には関わっていない。
だから、美人だということと、志摩くんと一度殺し合いをしたということしか私は知らない。
そんな人を信用できるのか? と疑問には思ったが、志摩くんがもう大丈夫だというので、信じることにしている。
昼間は基本的には寝ていて、叩き起こされるようなことがあると機嫌が悪いという話は聞いたけど、これも多分大丈夫だとは思う。
だって、自分で呼んだんだし。
「それじゃクミンちゃんも、また後でね」
『はい。特訓、頑張ってくださいね』
見た目は大きなアリさんだけど、なんだったら志摩くんよりも気が使えるクミンちゃんに見送られて、私は五階層の大きな屋敷──その中のラベンダーさんの自室へと向かった。
この屋敷には数え切れないくらいの部屋があるけれど、使用人用の部屋は隅っこの小さい場所。なんならお風呂は屋敷の外にあるという。
分ける意味なんてあるのか、と私は思うけれど、それをしっかりと分けているからメイドさんはメイドさんなのだろう。
「ラベンダーさん、夜柳です」
使用人の部屋の前に着き、軽くノックをして様子を窺う。
すぐに中から「入りなさい」という声が聞こえた。
意を決して部屋の中に入る。
「待っていましたよ」
「はい」
相変わらず、ラベンダーさんはニコリとも笑わない。
彼女が笑みを浮かべたのは、初対面の一回しか思い出せない。
それでも見とれるほどの美人は、他人に悪感情など抱かせないのだからすごいと思う。
ラベンダーさんの部屋はシンプルに何もない。
ベッドと机と、何か植物の世話をするための道具があるだけ。
生活に必要な最低限のものを除いて、まるで『それ以外自分には必要ない』と言っているかのよう。
「さて、まずはお互いの呼び方を決めておきましょうか」
「呼び方、ですか?」
何を言われるのかと思えば、まるで今から友達になりましょう、と知らないもの同士で話し合うようなことを言われた。
と思ったのもつかの間、ラベンダーさんはピシャリと言った。
「あなたは我が主人のメイド見習い候補ではありませんが、我が主人の命により同等の教育を行うことになっています。ゆえにこのメイドは、あなたを『新米』と呼ぶことといたします」
「は、はい」
「『新米』を卒業するまではしばらくかかるでしょう。それまでは私のことは『師匠』と呼びなさい」
「えっと『先輩』とかじゃ、ないんですか?」
メイドの上下関係になど詳しくはないが、普通は先輩後輩の間柄になるもので、師匠と弟子みたいな間柄にはならない気もする。
素朴な疑問だったが、ラベンダーさんは淡々と言い聞かせるように答える。
「あなたが人間を辞め、吸血鬼として我が主人に仕える気持ちがあるのならば、そう呼んでも構いません。ですがあなたの主人は上杉様でしょう。であれば、このメイドを先輩と呼ぶ理由はありません。私はあくまで臨時の教官です」
「なるほど……わかりました。師匠」
「よろしい」
つまりは、いずれ敵対することが決まっているのだから、身内のような呼び方をわざわざする必要はないということだ。
考えれば考えるほど、相手側の余裕というか、わざわざこちらを『育ててくれる』理由が、わからなくなりそうだ。
「お互いの呼び方が決まったところですが、今の時間は昼間。このメイドはともかく新米ではろくにスキルを発動することもままならないでしょう」
「それは、はい」
「この屋敷内であれば、動くくらいはできるはずですが、まぁ、今の新米では人間より少し強いくらいですかね」
肯定しかできない。
そもそも、私はまだこの世界のシステムというものをちゃんと理解していない。
パッシブスキルだのアクティブスキルだの言っていて、ゲームのようだと認識しているが、実際に魔術スキルを覚えて遊んでみたような経験はない。
だから、今からいきなり『魔術の特訓をはじめます』などと言われても、どうすれば良いか困り果てたことだろう。
「では、今からメイドとしての家事特訓を開始します。まずは我が主人より賜ったメイド服があるので、その学生服から着替えなさい、新米」
「はい?」
だが、いきなり家事特訓をすると言われても、やはり困り果てることしか出来なかった。
そして数時間、私は師匠に言われてひたすら家事を行なっていた。
メイドとしての正しい姿勢、正しい動き方、正しい仕事。
今までの、お母さんから教わった家事よりもさらに厳しい、メイドとしての家事。そしてその動作。
プロの動きは、ちょっと人間離れしているようにしか思えない。
まずスピードが違う、そしてキレが違う。最後にパワーが違う。
脳みそが何個あるのかわからないようなテキパキした動きは、それまでの私の家事がおままごとだったのでは、と思わされるようなものだった。
そりゃ、こんな広い屋敷を一人で管理しているなら、これくらいできないといけないのかもしれない。
そして、その人間離れした家事を叩き込まれて、なぜかすんなりと習得できてしまう自分が、まるで人間じゃなくなったように感じられた。
「まぁ良いでしょう。我が主人の前に出すことは到底できませんが、最低限の動きはできるようになりました。休憩とします」
「あ、ありがとうございます……」
数時間経って、ようやく習ったことを一通りできるようになったころには、体はへとへとになっていた。
休憩の言葉を聞いて、思わず床に座り込んでしまうくらいには。
これが果たしてなんの修行なのか、そう問いかけたくてたまらなかった。
「家事労働はメイドの嗜みです。常に頭を使い、体を動かし、今行うべき最適を考えて実行する。これは戦闘や魔術といったあらゆる分野に応用できます。そして、新米はそれを頭ではなく体で理解したでしょう」
「そう言われると、そんな気はします、けど」
「そして同時に良く分かったはずです、新米。自分がすでに人間ではないということも」
なんでもないように告げられた一言に。
あまり、心臓は跳ねなかった。