# 手のひらの庭、香る迷宮
## 第一章 雨とリネンと琥珀糖
雨の匂いがした。
アスファルトを濡らす埃っぽい降り始めの匂いではなく、降り続いて大気中の塵をすべて洗い流したあとの、透き通った水の匂いだ。
大学の講義を終え、濡れた石畳を歩く。私の足は自然と路地裏の雑居ビルへと向かっていた。錆びついた手すりのある階段を三階まで上る。踊り場の空気は少し重く、湿気を含んでいたが、重厚な木の扉を開けた瞬間、世界の色と匂いが変わる。
喫茶『シエナ』。
扉を開けた私を包み込んだのは、深煎りの豆が爆ぜた瞬間の香ばしさと、古い文庫本のページをめくった時のような枯れた甘さ。そして何より、私が焦がれている「彼」の匂いだった。
「いらっしゃい、アオイちゃん」
カウンターの奥で、ヤマシロさんが微笑む。四十七歳という年齢は、彼の場合、衰えではなく年輪のような深みとして機能していた。
白シャツの袖を捲り上げた腕。カウンターを拭く所作は、まるで壊れ物を扱うように静かだ。彼から漂うのは、高級な香水などではない。洗いざらしのリネンと、微かなサンダルウッド、それに彼自身の体温が混じり合った、清潔で、どこか泣きたくなるような匂い。
「今日はマンデリンにしますか?」
「はい。……あの、ヤマシロさん」
私はカウンターの端の席に座り、湿ったコートを膝に抱えたまま言った。今日こそは言わなければならない。私の鼻腔を満たすこの愛おしい匂いの発生源に、触れてみたいと願ってしまったから。
ヤマシロセイジは、ポリアモリストだ。彼には二人の恋人がいる。それを公言しているし、隠してもいない。その事実は、私にとって障害ではなく、むしろ安心材料に近かった。私は誰かを独占したいわけではない。ただ、この心地よい庭の片隅に、私の場所が欲しいだけなのだ。
「ぼくのこと、好きだと言ってくれるのかい?」
私が言葉を濁しているうちに、ヤマシロさんは全てを見透かしたように言った。ドリップポットから細く落ちるお湯が、粉を膨らませる。その蒸気が、私たちの間の空気を柔らかく隔てていた。
私は小さく頷いた。
「私、ヤマシロさんの匂いが好きなんです。ここにいると、息がしやすくなる。……体の関係とか、そういうのは求めてません。ただ、あなたのそばに置いてほしい」
ヤマシロさんはポットを置き、困ったように眉を下げた。その表情には、大人の余裕と、少年のような無防備さが同居している。
彼はゆっくりと私のほうへ手を伸ばし、カウンターに置かれた私の右手に触れた。指先が、私の指の背をなぞる。彼の指は少し冷たく、乾燥していた。
「ぼくはね、手が好きなんだ」
唐突な告白だった。
ヤマシロさんの視線は、私の顔ではなく、私の手に注がれている。熱を帯びた、それでいて解剖学者のように冷静な瞳。
「アオイちゃんの手は……綺麗だ。関節が小さくて、指先に向かって流れるラインが、雨の雫みたいだね。白くて、儚くて、でも芯がある」
褒められているのか、品定めされているのかわからなかった。けれど、彼に触れられた箇所から、チリチリとした熱が体全体に広がっていく。私の手首を包み込む彼の手のひらが、たまらなく心地よかった。
「ぼくにはヨシアキとトキワという大切な人がいる。それでも、ぼくのそばにいたいと思う?」
「はい。あなたの匂いに包まれていられるなら」
ヤマシロさんは私の手のひらを返し、その手相をなぞるように親指を滑らせた。
「肉体的な繋がりがいらないなら、ぼくたちはうまくやれるかもしれない。……その美しい手を、ぼくの生活の一部に加えさせてくれるなら」
彼の言葉は契約のようだった。私はその契約に、自身の嗅覚と触覚のすべてを賭けて頷いた。
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## 第二章 硝子とオイルと電子音
大学の研究室は、喫茶店とは対極にある無機質な匂いで満ちていた。
エタノールのツンとする揮発臭、電子回路が焼ける微かな焦げ臭さ、そして埃一つ許さない冷たい空気。私は卒業研究のために、分析機器室に籠もっていた。
目の前の質量分析計がエラー音を吐き出して停止した。
「あー、またか……」
溜息をついて、私は技術職員を呼ぶために内線電話をかけた。十分もしないうちに、ドアが開く。
「はいはい、三号機? 調子悪いんだよね、最近」
入ってきたのは、ヨシアキさんだった。三十代後半の彼は、作業着の袖を無造作にまくり上げ、手には工具箱を提げている。
私は彼を見るたび、その「手」に視線を奪われてしまう。
男の人にしては指が長く、けれど骨格はしっかりとしていて、節々がゴツゴツとしている。爪は短く切り揃えられ、オイルの染みが微かに残るその指先は、機械という名の複雑なパズルを解くために特化した鍵のようだった。
「アオイさんだっけ? 四年の」
ヨシアキさんは私の顔を見ずに、慣れた手つきで装置のカバーを外していく。
「はい。……あの、直し方、見せてもらってもいいですか?」
「ん? 珍しいね、学生さんでメンテに興味持つなんて」
ヨシアキさんが振り返り、私を見てニッと笑った。人懐っこい、屈託のない笑顔。
私は彼の横に並び、その作業を見つめた。六角レンチを回す手首の動き、細い配線を指先でより分ける繊細な所作。彼の指は、まるで生き物のように機械の内部を這い回る。
ふと、彼から漂う匂いに気づいた。
機械油と、ミントのタブレット。そして、その奥底にある、懐かしくて切ない残り香。
――ヤマシロさんと同じ柔軟剤の匂いだ。
「……ヨシアキさん」
「んー?」
「ヨシアキさんは、ヤマシロさんの恋人、なんですよね」
私の問いかけに、彼の手がぴたりと止まった。ドライバーを握る手の甲に、青い血管が浮き上がる。彼はゆっくりとこちらを向き、瞬きをした。
「へえ、知ってたんだ。セイジから聞いた?」
「はい。あと、その……匂いで」
「匂い?」
ヨシアキさんは自身の作業着の匂いを嗅ぐような仕草をして、それから吹き出した。
「ああ、そっか。俺、あいつの家に泊まること多いから。……ってことは、君が新しい子?」
敵意は感じられなかった。むしろ、仲間を見つけたような親愛の情すら感じる。
彼は作業を再開しながら、独り言のように続けた。
「セイジ、君の手のこと褒めてたよ。『水中で揺れる百合のようだ』って。あいつ、詩人ぶってるけどただの手フェチだからさ」
「ヨシアキさんの手も、素敵です。……機能的で、強そうで」
「お、わかる? これはね、セイジ曰く『世界を構成するねじを巻く手』らしいよ。意味わかんないよね」
ヨシアキさんは笑いながら、私の手をちらりと見た。
「俺はいいと思うよ、君のこと。セイジが選んだ手だ、悪い子じゃない。それに、ポリアモリーってのは、愛を分けるんじゃなくて、増やすことだからさ」
装置のファンが再び低い唸りを上げて回り出した。
ヨシアキさんは工具を片付けながら、「今度、三人で飲もうよ」と言ってくれた。
私は彼の背中を見送りながら、彼の手が紡ぐ寛容さに救われた気がした。冷たい機械室の空気が、少しだけ温んだように感じた。
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## 第三章 鍵盤と不協和音
事態が動いたのは、それから一ヶ月後のことだった。
ヤマシロさんの自宅に招かれた。そこは、彼の匂いの源泉だった。古い木造家屋をリノベーションした平屋。玄関を開けた瞬間、あのアロマと古書の香りが私を包み込み、私は陶然として立ち尽くしかけた。
けれど、リビングには鋭い緊張感が張り詰めていた。
ローテーブルを囲むように、ヤマシロさん、ヨシアキさん、そしてもう一人。
トキワさんがいた。
「初めまして、アオイです」
私が頭を下げると、トキワさんは読んでいた楽譜から顔を上げた。
三十五歳。ショートカットの黒髪が似合う、凛とした女性だった。彼女の一人称が「僕」であることを、ヤマシロさんから聞いていた。
彼女の視線は、私の顔を通り過ぎ、すぐに私の手元へと落ちる。
「……ふうん。これが、セイジの新しいお気に入りか」
声は低く、チェロの音色のように響く。けれどその旋律は冷ややかだった。
彼女の手は、テーブルの上で組まれていた。ピアニストの手。指の一本一本が独立した意思を持っているかのように長く、筋肉がしなやかに発達している。爪は極限まで短いが、指先は硬質で、何万回もの打鍵に耐えてきた強度がにじみ出ていた。
「トキワ、そんな言い方はないだろ」
ヨシアキさんがビール缶を開けながらフォローを入れるが、トキワさんは無視した。
「僕はね、理解できないんだよ」
トキワさんは私を射抜くように見た。
「セイジとヨシアキの関係はわかる。僕と出会うずっと前、高校時代からの絆だ。それはもう歴史だ。でも、君はなんだ? ただ手が綺麗で、セイジの匂いが好き? そんなふんわりした理由で、この均衡に入り込んでくるのか」
彼女の言葉は、鋭利なナイフのように正確に私の弱点を突いた。
ヤマシロさんが口を開こうとするのを、トキワさんは手で制した。その手のひらの動きひとつで、場の空気が凍りつく。指揮者のそれだ。
「アオイさん。君の手は綺麗だ。何もしてこなかった、お嬢さんの手だね」
彼女は自分の手を見つめた。
「僕の手は、音楽を掴むために変形してる。ヨシアキの手は、現実を修理するために汚れてる。セイジはそういう『生きた手』を愛してきたはずだ。君のその、飾られただけのような手に、何の重みがある?」
悔しかった。何も言い返せなかった。私はまだ学生で、社会に出る前で、確かに私の手は何者でもなかったから。
部屋に充満するヤマシロさんの優しい匂いさえ、今は私を拒絶しているように感じられた。
「トキワ、言い過ぎだ」
ヤマシロさんが静かに、しかし強い調子で言った。
「アオイの手は、これから何かを掴む手だ。その可能性を、ぼくは愛おしいと思うんだよ」
トキワさんはふんと鼻を鳴らし、立ち上がった。
「……響かないね。今のこのカルテットは、不協和音だらけだ」
彼女はバッグを掴み、玄関へと向かった。
「しばらく、ここには来ない」
「トキワちゃん!」ヨシアキさんが声を上げる。
彼女は振り返らず、背中越しに言った。
「別れるわけじゃない。ただ、僕には休符が必要なだけだ。……この雑音が整理されるまでね」
ドアが閉まる音が、銃声のように響いた。
残された空間には、気まずい沈黙と、トキワさんが残していった鋭い香水の匂い――冷たいミントと金属的なムスク――が漂っていた。
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## 第四章 休符のあとの旋律
トキワさんが姿を見せなくなってから、季節は秋から冬へと移ろった。
ヤマシロさんの家での時間は穏やかだった。ヨシアキさんは変わらず陽気で、ヤマシロさんは相変わらず私の手を愛で、紅茶を淹れてくれた。
私はヤマシロさんの匂いに包まれ、幸せだった。けれど、どこか欠落感を抱えていた。
それは、あの日トキワさんが置いていった「不協和音」という言葉が、ずっと耳の奥で鳴り止まないからだ。
ある雪の降り出しそうな午後。
私は喫茶『シエナ』で、ヤマシロさんがカウンターの中で豆を挽く音を聞いていた。
「ねえ、ヤマシロさん。トキワさんは、まだ戻らないんですか?」
ヤマシロさんは手を止めず、穏やかな顔で答えた。
「彼女はね、ピアニストだから。曲の構成を考えているんだよ」
「構成?」
「そう。今は第一楽章が終わって、静かな緩徐楽章……あるいは、カデンツァの前の溜めのようなものかな」
彼は笑って、私の手の上に自分の手を重ねた。
「彼女は諦めてなんていないよ。トキワの手は、一度掴んだら絶対に離さない手だ。鍵盤を叩くあの指の力強さを、きみも見たろう?」
その時、店の扉が開いた。
寒風と共に飛び込んできたのは、懐かしく、そして背筋が伸びるような冷気を含んだ匂い。
トキワさんだった。
厚手のコートに身を包み、マフラーを巻いている。頬は寒さで紅潮していたが、その瞳は以前よりも澄んでいて、強い光を宿していた。
「いらっしゃい、トキワ」
ヤマシロさんが、まるで昨日も会っていたかのように声をかける。
トキワさんはツカツカとカウンターに歩み寄り、私の隣に座った。
そして、手袋を外す。
その手は、相変わらず美しく、強靭で、圧倒的な存在感を放っていた。けれど以前のような拒絶の硬さは消え、どこか余裕のようなものが漂っている。
「アオイさん」
名前を呼ばれ、私は背筋を伸ばした。
「はい」
「考えたんだ。不協和音も、解決すれば美しい響きになるってね」
彼女はカウンターに置かれた私の手を見た。そして、ためらうことなく、そのピアニストの指で私の手に触れた。
熱い、と思った。彼女の手は、演奏後のように熱を持っていた。
「君の手は、確かにまだ何も掴んでいない。でも、だからこそ、誰の手とも重なれる柔らかさがある。……セイジが欲しがったのは、その『余白』だったのかもしれないって、チェコの師匠に手紙を書いていて気づいたよ」
彼女は少しだけ口角を上げて笑った。それは初めて見る、彼女の柔らかな表情だった。
「私が身を引いていたのは、君を受け入れるための準備運動だ。……それに、悔しいけど、セイジもヨシアキも、君がいないとどこか調子が狂うみたいだしね」
ヤマシロさんが、私たちの前に二つのカップを置いた。湯気が立ち上る。
「おかえり、トキワ」
「ただいま。……さて、第二楽章を始めようか」
トキワさんは私の手を、ぎゅっと強く握った。痛いほどだったが、その痛みは、私がこの複雑で奇妙な、けれど温かい関係の一員として認められた証のように感じられた。
私の鼻腔をくすぐるのは、コーヒーの香り、ヤマシロさんの清潔なリネンの匂い、そしてトキワさんが纏う冬の風の匂い。
それらが混ざり合い、新しい和音となって私の心を満たしていく。
窓の外では、粉雪が舞い始めていた。
私たちはそれぞれの手のひらの中に、確かな温もりを感じながら、長い夜を迎えようとしていた。
(了)