タイトル:『指先のポリフォニー』
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### 第一章 雨と珈琲、そして君の骨格
六月の雨は、古い図書館のページをめくるような匂いがする。湿ったアスファルトと、少しのカビ、そして沈殿する埃。
大学からの帰り道、私はいつものようにその路地裏へ足を向けた。看板のない茶房『深呼吸』。重たい木の扉を押し開けると、カラン、と真鍮のベルが控えめに鳴る。その瞬間、世界の色が変わる。外の湿気た灰色の匂いは遮断され、深く焙煎されたマンデリンの苦味と、古い木材の甘い香りに包まれた。
そして、その奥に、彼がいる。
「いらっしゃい、アオイちゃん」
カウンターの奥で、ヤマシロセイジさんが微笑んだ。四十七歳。白髪の混じった髪を後ろで無造作に束ね、洗いざらしの綿シャツを着ている。私がこの場所に通い詰める理由は、珈琲の味だけではない。ヤマシロさん自身が放つ、奇跡のような「無臭の清潔さ」に惹かれているからだ。
それは無臭といっても、単に匂いがないわけではない。天日干しされたリネンや、研磨されたばかりのガラスのような、透き通った存在感。私の鼻腔は人より少し敏感で、他人の生活臭や香水の残り香にすぐに酔ってしまうけれど、彼のそばだけは、深海にいるように呼吸が楽だった。
「今日は雨が強いね」
彼がポットから細くお湯を落とす。その所作に見とれた。彼の手は大きいけれど、決して武骨ではない。血管が美しく浮き上がり、指先は繊細にカップの縁を愛でている。
「ヤマシロさん」
私はカウンターの椅子に浅く腰掛け、意を決して口を開いた。今日こそは、と言い聞かせてきた言葉。
「私、ヤマシロさんのことが好きです」
お湯を落とす音が、一瞬だけ止まった気がした。けれど彼は動揺を見せず、最後の数滴まで丁寧に抽出を終えると、私の前にカップを置いた。湯気とともに立ち昇る香りが、私のと彼の間の空気を緩衝材のように埋める。
「……アオイちゃん、知ってるよね。ぼくには、パートナーがふたりいる」
「知っています。ヨシアキさんと、トキワさん」
ヤマシロさんはポリアモリストだ。複数の人と合意の上で、同時に愛を育む。私はその概念を知識として知っていたし、彼がそれを隠していないことも知っていた。
「ぼくはもうすぐ五十になる。君はこれから社会に出る大学生だ。それに、ぼくの恋愛は少し特殊でね。君のような若いお嬢さんを巻き込むわけにはいかない」
彼の拒絶は、予想通りだった。やんわりとした、大人の拒絶。けれど、私はその先にある「条件」を持っていた。
「私、セックスはいりません」
ヤマシロさんが、初めて驚いたように目を丸くした。
「ただ、あなたのそばにいたいんです。あなたの匂いに包まれて、同じ空間で息をしていたい。あなたの家の、あの清潔な空気に埋もれたい。それだけでいいんです」
私はカウンターの上に自分の両手を置いた。願いを込めるように、指を組む。
ヤマシロさんの視線が、私の顔から、カウンター上の手へと滑り落ちた。彼の瞳の色が変わるのを、私は見逃さなかった。まるで美術品を鑑定するような、熱を帯びた、けれどねっとりとした欲望とは違う、崇高な眼差し。
「……綺麗な手だ」
彼は呟いた。無意識に手が伸び、私の指先に触れる。彼の手は温かく、少し乾燥していた。
「指の関節の比率、爪のカーブ、そして皮膚の下に透ける静脈の青さ。……完璧だ」
彼は手フェチだ。それも、ただ形が良いだけではなく、その手が語る「生活の音」のようなものを愛しているらしい。私の手は、ピアノも弾かないし、特別な労働もしていないけれど、彼にとっては琴線に触れる何かがあったようだ。
「体の関係は、求めない。本当に?」
「はい。私は、あなたの存在そのものを吸い込んでいたいだけですから」
彼はしばらく沈黙し、私の指をその長い指でなぞった。親指の腹が、私の手の甲を滑る。ぞくり、と背筋に電流が走る。それは性的な快楽というよりは、鍵盤が正しく叩かれた時のような、共鳴する震えだった。
「わかった。……アオイちゃん、君を三人目の恋人として迎えよう」
雨音が強くなる。けれど、私の世界はかつてないほど静寂で、そして満ち足りていた。
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### 第二章 硬質な金属と、あたたかな掌
大学の工学部棟は、いつも微かに油と金属、そして無機質なオゾンの匂いがする。私の所属する研究室は地下にあり、夏でもひんやりとしていた。
「そこ、トルクのかけすぎ。ネジ山潰すよ」
背後から降ってきた声に、私はビクリとしてレンチを持つ手を止めた。振り返ると、白衣を着た長身の男性が立っていた。
「すみません、ヨシアキさん」
「いーよ。最初はみんなそうだから」
ヨシアキさんは、大学の技術職員だ。三十八歳。いつも少し気怠げで、でも仕事は驚くほど速い。電子顕微鏡や分析装置のメンテナンスを一手に引き受けている。
彼が私の手からレンチを取り上げる。その瞬間、私は息を飲んだ。
美しい手だった。
指は長く、節くれ立っているようでいて、動きは滑らかだ。油にまみれたその手は、冷徹な機械に命を吹き込む魔法使いのようにも見えた。
「貸して。ここのコツはね、手首で回すんじゃなくて、肘で回すの」
彼が私の背後に回り込み、手を重ねてくる。その距離感に、ふと懐かしい匂いが鼻をかすめた。
機械油の匂いの奥に潜む、深く焙煎された珈琲と、古い木材の香り。
これは、ヤマシロさんの匂いだ。
「……ヨシアキさん、もしかして」
私が呟くと、彼はニカっと笑った。目尻に笑い皺が寄り、少年のようなあどけなさが覗く。
「ん? ああ、匂う? 昨日セイジん家に泊まってたからなあ」
彼は隠そうともしなかった。セイジ。その呼び捨ての響きが、彼らの歴史の長さを物語っている。高校一年生の時から二十年以上。彼らの間には、私なんかが到底入り込めない、地層のように積み重なった時間がある。
「アオイちゃんだろ? セイジから聞いてる。手が綺麗な子だって」
「……はい」
「俺、ヨシアキ。セイジの腐れ縁。よろしくな」
彼はレンチを回しながら、世間話でもするように言った。
「俺はね、肯定派なんだよ。ポリアモリーも、新しい君のことも。セイジがああいう人間だから、独占しようなんて思ったことないし。それに、君みたいに『体はいらない』なんていう珍しい子、セイジにはお似合いかもね」
「ヨシアキさんは、嫉妬しないんですか?」
「嫉妬?」
彼は作業の手を止め、油で汚れた手で前髪をかき上げた。
「セイジはさ、俺たちの『手』を愛してるんだよ。俺の手は、機械をいじるための手。トキワの手は、ピアノを弾くための手。そして君の手は……なんだろうな。何も持たない、無垢な手なのかな」
彼は私の手を取った。油のついた彼の手と、私の白い手。対照的な二つの手が重なる。
「俺たちは、セイジという美術館に展示されたコレクションみたいなもんさ。隣の展示品に嫉妬しても仕方ないだろ? むしろ、いいコレクションが増えたら、美術館の価値が上がるってもんだ」
彼の言葉は軽快で、けれどどこか諦観を含んでいた。彼はヤマシロさんを愛している。けれど、それは「所有」とは別の次元にある愛なのだ。
「でも、気をつけなよ」
ヨシアキさんは声を潜めた。装置のブーンという駆動音が、低く響く。
「トキワは、俺ほど物分かりがよくない。あいつは芸術家だからね。白か黒か、和音か不協和音か、はっきりさせないと気が済まないタチだ」
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### 第三章 不協和音のディナー
その警告の意味を理解したのは、数日後のことだった。
ヤマシロさんに招かれ、初めて彼の自宅を訪れた夜。そこには、ヨシアキさんと、もう一人の恋人、トキワさんがいた。
ヤマシロさんの家は、彼そのものだった。
余計なものが一切ない、ミニマルな空間。床は無垢材で、壁には抽象画が一枚。空気は研ぎ澄まされ、あの清潔な匂いが充満している。私はその空気を肺いっぱいに吸い込み、陶酔しそうになるのを必死で抑えた。
「初めまして、アオイです」
緊張しながら挨拶をする私を、トキワさんは冷ややかな目で見下ろした。
三十五歳、ピアニスト。
彼女は「僕」という一人称を使う。中性的なパンツスーツに身を包み、ショートカットの黒髪が鋭い印象を与える。そして何より、その手が圧倒的だった。
鍛え上げられた指。筋肉の筋が微かに浮き、爪は極限まで短く切り揃えられている。それは音楽を奏でるためだけの、機能美の極致のような手だった。
「ふうん。君が」
トキワさんの声は、低く、よく響くチェロのようだった。彼女はダイニングテーブルにつくと、私の正面に座った。
「セイジが新しい子を入れたいって言った時、僕は反対したんだ。三人でバランスは取れていたはずだから」
乾杯のグラスが触れ合う音が、やけに鋭く響く。ヤマシロさんは困ったように眉を下げ、ヨシアキさんは「まあまあ」とワインを注いでいる。
「アオイちゃんは、体の関係を求めないそうだよ。精神的なつながりを求めている」
ヤマシロさんが助け舟を出すが、トキワさんは鼻で笑った。
「プラトニック? そんな寝言、いつまで続くかな。人間は貪欲だよ。匂いを嗅げば触れたくなる。触れれば中に入りたくなる。……君は、僕たちの和音を崩すノイズだ」
彼女の言葉は鋭利な刃物のように、私の胸を刺した。彼女はフォークを握る。その握力、指の動き。すべてが計算され尽くした演奏のように無駄がない。
「トキワ、言い過ぎだ」
ヨシアキさんが低い声で嗜めたが、トキワさんは止まらなかった。
「僕はね、チェコで学んだんだ。調和の美しさを。セイジと僕とヨシアキ。この三角形は完璧だった。そこに異分子が入れば、構造そのものが崩壊する」
彼女は私を睨みつけた。その瞳には、明確な敵意と、そして隠しきれない焦燥があった。彼女はポリアモリーという形を許容しているように見えて、その実、誰よりも独占欲が強いのかもしれない。あるいは、彼女なりの「完璧な愛の形」を維持することに必死なのか。
「私は……壊すつもりはありません。ただ、ヤマシロさんのそばにいたいだけ……」
「それが傲慢だと言うんだ。存在すること自体が、場に影響を与える。君がここに座っているだけで、空気の質量が変わっていることに気づかないのかい?」
トキワさんは立ち上がった。
「今日は帰る。この空気の中じゃ、食事も喉を通らない」
「トキワ」
ヤマシロさんが彼女の手首を掴もうとしたが、彼女はその手を振り払った。その瞬間、彼女の美しい手が空を切る軌跡が、スローモーションのように見えた。拒絶の形さえも美しい。
「セイジ、選ぶ日が来るよ。混沌か、調和か」
彼女は風のように去っていった。残された部屋には、重苦しい沈黙と、彼女が残した柑橘系の香水の匂いだけが漂っていた。それはヤマシロさんの清潔な匂いを、一時的に塗り潰していた。
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### 第四章 空白という名の布石
トキワさんが姿を見せなくなってから、二週間が経った。
その間、私はヤマシロさんの家に通い、ヨシアキさんとも何度か顔を合わせた。表面上は穏やかな日々だった。ヤマシロさんの匂いに包まれ、彼が淹れる珈琲を飲み、彼が私の手を愛でる。それは私が夢見ていた楽園のはずだった。
けれど、何かが欠けている。
ヤマシロさんの視線が、ふとした瞬間にピアノの方へ向くのを私は知っていた。部屋の隅に置かれたアップライトピアノ。蓋は閉ざされたままだ。
「トキワさん、連絡ないんですか?」
ある雨の夜、私はヤマシロさんに尋ねた。彼は読みかけの本を置き、寂しげに微笑んだ。
「うん。彼女は一度決めると頑固だからね」
「私が……いない方がいいんでしょうか」
「そんなこと言わないでくれ。アオイちゃんの手を見ていると、心が落ち着くんだ」
彼は私の手を取り、指先に口づけた。唇の感触。熱い吐息。私はそれに喜びを感じながらも、胸の奥で小さな棘が疼くのを感じた。
彼は私の手を愛している。ヨシアキさんの手を愛している。そして、今はいないトキワさんの手も、狂おしいほど愛しているのだ。
翌日、大学の研究室でヨシアキさんに会った。彼はいつものように分析装置の前にいたが、その背中は少し丸まって見えた。
「トキワのやつ、連絡がつかない」
ヨシアキさんがモニターを見つめたまま言った。
「でも、心配ないよ。あいつは手を引いたわけじゃない」
「え?」
「あいつの演奏スタイルと一緒さ。フォルテシモの前に、あえて長い休符を入れるんだ。聴衆を不安にさせ、渇望させるためにね」
ヨシアキさんは、油で汚れた指先を器用に動かしながら、苦笑した。
「あいつは今、セイジに『トキワがいない世界』の味気なさを痛感させてるんだよ。アオイちゃん、君という新しい香りがしても、やっぱり馴染みの音がなきゃ寂しいと思わせるためにね」
「……計算、なんですか」
「戦略、と言ってほしいね。あいつは諦めてないよ。絶対に。戻ってくる時は、以前よりも強くセイジを縛り付けるつもりだ」
私は背筋が寒くなるのを感じた。トキワさんの不在は、敗走ではなく、包囲網を敷くための準備期間だったのだ。
その夜、私は再びヤマシロさんの家を訪れた。
雨はまだ降り続いている。部屋の中は、相変わらず静謐で、清潔な匂いに満ちていた。私はソファに座り、目を閉じる。
ヤマシロさんが隣に座る気配がした。
「アオイちゃん」
「はい」
「……少し、抱きしめてもいいかな」
彼の声は弱っていた。トキワさんの不在という「休符」が、彼を蝕んでいるのがわかった。私は無言で頷いた。
彼が私を抱きしめる。彼の体温、心音、そして大好きな匂い。天日干しのリネンのような、静かな匂い。
けれど、その匂いの奥底に、私は微かな違和感を嗅ぎ取った。
それは、不在の誰かを求める、渇きのような匂い。
私は彼に抱かれながら、自分の手を見つめた。
白く、細く、何も持たない手。
この手で、彼を繋ぎ止めることができるのだろうか。
それとも、トキワさんが戻ってきた時、彼女が奏でる圧倒的な和音の前に、私はただのか細いノイズとして消え去るのだろうか。
「……ヤマシロさん」
私は彼の背中に手を回し、シャツの生地を強く握りしめた。
「私は、ここにいます」
私の手が彼の背中の骨格を捉える。
これから始まるのは、甘い生活ではない。四人の、それぞれの「手」が絡み合う、静かで激しい攻防戦なのだ。
雨音が窓を叩く。その音はまるで、遠くから近づいてくるピアノの旋律のように聞こえた。
(了)