ネヴ・マーチ『ボンベイのシャーロック』(『MURDER IN OLD BOMBAY』 2022年 早川書房)読了。
世界の素晴らしい小説が訳されて読めるのは日本語の良いところの1つで、それは世界の多くのところから来るほどに価値は高まる。欧米だけでなく中国や台湾、そしてインド。
最近、『台北プライベートアイ2』、独立間もないインドが舞台の『帝国の亡霊、そして殺人』を読んだ。そして英植民地下のインドを舞台とした『ボンベイのシャーロック』を読んだ。
英統治下植民地×ホームズだと、上海が舞台の『辮髪のシャーロック・ホームズ』もかつて読んで、こちらは本家ホームズの事件を元にしたその上海版だが、『ボンベイのシャーロック』は入院中にホームズと新聞を読んで、謎めいた転落事件を調査しようと決めた退役騎兵大尉の物語だ。
中心となるのは富裕な拝火教徒(パールシー)の義姉妹が図書館時計塔から転落した事件だが、大尉自身のトラウマや過去、そして家族と言うものに対する思い入れ、動乱のインドの中で証人を追い求めての大冒険などが彩りを添える。
中でも印象に残ったのが大尉と被害者の姉妹であるヒロインとの恋である。2人の恋はしかし、障害によって阻まれる。パールシーの娘であるヒロインを混血児である大尉と結婚させるとヒロインの家族の評判が破壊されるという障害に。この障害の厄介なのは、大尉がヒロインの一家のことも好いていて、それを壊すようなことをしたくないことである。かくして大尉は愛と風習のもとに苦悩する。
神聖なるところの結婚とは、その実、家どうしの結びつきだったり、縁故を結んで共同体となって利権を占めたり、あるいは民を統治するため管理しやすい家単位の戸籍を作るためだったりと、もっぱら実利的なことを求める者達のための物であった。愛のためという視点は抜け落ちており、それを求める者達はしばしば結婚という制度から逸脱した。作家の森奈津子氏がゲイの偽装結婚を糾弾する投稿をイーロン体制下ツイッターでしておられた
https://x.com/MORI_Natsuko/status/1874273739883659441 が、個人的にはこれは愛というものに対しても結婚というものにたいしても間違った向き合い方ではない。ただ、それらが関連しているというのが全くの嘘として存在しており、巻き込まれた女性が不幸になっているだけで。愛の対象ではないし、結婚にとっては当事者間の幸不幸というのは無関係である。近年になって愛と結婚を合致させようという運動こそが不幸を減らすだろう。
それでも結婚は本質的に愛とは無関係な絡繰り細工だ。だが、神聖なる緑の目をした大魚・レヴィアタンとは関係ある。嫉妬。独占欲。この聖なる貪欲さは自分と愛する人を縛り付け、逃がさないためならばあらゆるものを求めるだろう。法的な拘束は物理的な監禁よりは穏当な手段だ。
心は手に入らぬ。それでも身体を縛り付け、自分の物にしておきたい。これもまた愛ではない欲望が結局の所結婚の機能なのだと思う。それでも愛に幸あれ。せめて結婚がそれを引き裂かぬように。