僕にとっての最初の外国語は日本語だった。
ソ連では、家の中でしか聞かなかった言語が、フェリーに乗って到着した先では、周囲の人間すべてが口にしていた。
そこまではいい。
だがそれまでと違ったのは、自分が口にする言葉を、誰もが顔を顰めて
「分からない」と明言すること。首を振り、妙な笑顔を浮かべて、首を傾げる。
だから僕は自分の感覚を研ぎ澄まし、意味を推察して、彼らの音を拾うしかなかった。
頭のてっぺんに意識のアンテナを立て、正しいと判断される蓋然性の高いニュアンスのピースを集めて、言葉を組み立てる。それでも僕の口から出る曖昧な音の日本語を、親たちは逐一、うんざりするほど訂正してくれた。僕は長く「さしすせそ」が言えなかった。
そんなことばかりで、まともな会話というよりも、一方通行の伝達形式として、僕の日本語の音は形成された。
読む言語としての日本語は、専ら折り紙の本だった。
正方形の色紙を抜き取り、指に触れる暖かな感触。紙が折られ、開かれ、
膨らまされ、矢印が誘う画の変化。
そのすぐ横には、どうしたらこの形になるのか、丁寧な物腰で指示が綴られていた。今でも目に浮かぶ。とてもきれいな3冊組の本だった。
日本語を読む言語として眺める分には、抵抗が無かった。要するに、意味さえ分かればよいのである。
だが、自分が口にする音、自分で考えたことを"書く"手段としての日本語には、ずっとわだかまりがあった。
一歳の僕が置かれた状況は決して対等ではなかった。
自分一人に対して、世界全てが日本語を強要する。そんな感じだ。
間違いのない憎しみを込めて、壁に貼られた「あいうえお表」と「カタカナ表」を見つめていた。書きなぐる様にノートに練習を重ねた。
小学校では、転校3回、四つの小学校。今度は地方特有のイントネーションの問題で困惑する。もちろんいじめの対象だ。それでもなんとか切り抜けたと思えば、中学では、今度は英語だと、家でも親からテキストを渡される。
内心むかついて仕方が無かった。言葉もない、というやつだ。けれど日本語が「当然の言語」では無い分、やってみれば、英語の音も形も、覚えるのがずっと日本語より簡単な気がした。
そして受験戦争を駆け抜け大学に入り、この世界の中での日本語の位置付けをあれこれ知るようになると、スッと気が楽になった。
本当に何でもないことだ。自分の思うように使えばいい。誰のものでもない、自分が習得した言語。もしくは日々学びつつ、更なる深みを追究している言語に対して取るべき態度は、無限にあっていいのだ。
そうして今に至る。