養老さんの日本語云々という話を読んで
なんとなく、そうか、と思った。
書き言葉として特化されている日本語は、
フラれる音(=ルビ)による存在証明の必要が
必ずしも無いということ。
ここから少し飛躍して、
想像のレベル、即ち個人の頭の中で留まりやすい言語、ということ。
語として意識された時点と、発話との間に、
口語体系、文語体系の止揚を追究した現代社会においても尚、
他言語より大きな隔たりがあるということ。
やっぱりとても、面倒な感じがする。
何故なら、一人称が、
どこまでも個人の視点として完結してしまいやすく、
その個人が、自身と向かい合った社会との間にしかるべき接点を
沈黙のうちに見出すことがあっても、
その事実を、社会の方が気付かないという光景が、
容易く想像できてしまうから。
音を介することで、物理的な相互認証が可能なのだから、
日本語を使用する際、語の意味を加重にしすぎると、
あまりに孤独な世界が出来上がる可能性が高い。
よって反対に、一語にかける意味を限りなく薄め、こなれた文脈の連鎖によって、一文にかかる音の比重を回復しようとする意識も働く。
「ライトな文体」が持つ魅力は、日本語ゆえに、
という解釈も、ありかもしれない。