作文という課題が怖かった。
小学生のころ、作文を書いてくるように言われると、
もうその瞬間から苦悩し始める。
何が怖いのか、何が苦痛なのか。
それは「あなたの思ったことを、書きなさい。」
この指示の意味するところが、全く理解できなかったからだと、
今なら思う。
まず「あなたが思う」で言われている私とは、どの私のことか?
その体験をしたときの私なのか、
それとも、その体験を思い出しながら、いま作文を書こうとしている、この私か。
いや、今だってこの私は苦悩しつつ、変化してしまっているわけで、いつまでも追いつかないではないか。
そもそも、「思う」という行為は、いったい何を指しているのか? 「考える」と言い換えては駄目なのだろうか。
もし、自身の感情のことを指しているのなら、そもそも、感情を言語で表現することの”絶対の無理”を踏まえた上で、それでも書かなくてはならないのか。
だとしたら、それはとんでもなく、苦痛である。
私の感情は常に矛盾したものだらけで混沌とし、音としか呼べないものばかりだったり、規則性や基底も欠いている。
この社会性の欠如した「私」なるものを、
人類が、彼らの心身の共有手段として生み出した言語によって、それがどんなに限定的であっても、学校という一個の社会に示さなくてはならないなんて、いったい、どんな拷問だ?
高校に入学して、作文ではなく、小論文を書くように言われたとき、心から時の流れに感謝した。
そういう理由で、小学校のころには戻りたくない。上手くこなせないまま、それでも耐え抜いた自分には頭が下がる。
そのせいか、義務教育を受けている子どもたちを見る度、
「がんばってるんだろうな」と思ってしまう。
そう、今だけ。今だけなんだと、エールを送りたい。