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掌編「カラオケボックス」

モニターの中のアイドルは、こちらの顔を見ずにずっと話している。
そのくらいが気楽だ。
私も別に、あなたの顔なんて見ていない。

隣の駅にあるカラオケボックス。
歌うのも、勉強するのも、泣くのも、デートにも、私はよくこの秘密基地を使っていた。
家はお母さんのものだし、公園は子供たちのものだ。
学校は先生と、賑やかなクラスメイトのもの。
この箱の中でなら、私は誰でいても良い。

あれ、今日は何を歌いに来たんだっけ。
自分で入ってきたくせに、リモコンを持つ頃にはいつもわからなくなってしまう。

昔、友達と来たときに彼女が歌っていた曲を入れようとして、やめた。
彼女が、私の歌う時間を自分のインターバルにしか思ってないと気づいた日のことを思い出したんだ。
それから、私は一人きりでここに通うようになった。

ガイドボーカルをオンにして、履歴から拾った適当な歌を流す。
私よりも私をうまく歌う誰かの声に、それでも自分を重ねてしまったら負けな気がする。

先週、ひとりのネットアイドルが引退した。
特別にファンだったわけでもない。昔友達に付き合わされて、一度だけライブに行った子だった。

でもひとつだけ、なぜか忘れられない歌があった。
演出のスポットライトとピアノが綺麗で、泣きたくなるような歌だった。

あの歌は、リモコンをどういじっても見つからない。
事務所とケンカ別れみたいだから、再録もきっとないだろう。
動画ももう、いつまで残るかわからない。

結局私は、そのままマイクを持たずに歌を口ずさんだ。
この秘密基地の中では、私は何をしても良い。

モニターは歌詞を流さない。
お風呂の中より響かない。
それでも、少しだけ気持ち良くなれる気がする。

ここでは、誰の声も聞かなくて良いんだから。

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