生きものは、死ぬことで、生きていた頃の記憶をすべて空に返す。
それが、この世界に生まれ落ちた者に等しく課された約束だった。
記憶は雲のようにほどけ、風に運ばれ、やがて光に溶けていく。
愛したことも、呼ばれた名前も、ぬくもりも、何ひとつ。
けれど、たった一匹の猫だけが、その約束からこぼれ落ちた。
目を閉じると、まだそこには残っているものがあった。
やさしく背中を撫でる手の感触。
低く、少し掠れた声で呼ばれる、自分だけの名前。
理由はわからなかった。
ただ、それだけが胸の奥に沈み、消えずにいた。
猫は再び生まれた。
小さな体で、どこか分からない場所に。
音も、匂いも、光も、冷たさも。
自分が、なぜここにいるのかもわからない。
それでも、心の奥にひとつだけ、欠けた形のまま残るものがあった。
「呼ばれる」という感覚。
それがどこかにあるはずだと、体の奥が知っていた。
まだ小さな僕は、雨の日には段ボールの中で身を丸めた。
水の音が世界を満たし、地面の冷たさが体に染みた。
風の日には、古い家の軒下に隠れ、通り過ぎる影に息を殺した。
差し出される手は怖かった。
それが救いかどうか、僕には判断できなかったから。
それでも、足は勝手に動いた。
僕は太陽の方へ、太陽の方へ向かった。
暖かさのある方へ。
呼ばれていた気がする方へ。
けれど太陽は、歩くたびに遠ざかっていった。
近づいたと思えば雲に隠れ、また別の空に現れた。
それでも僕は歩いた。
町から町へ。
古い家から、古い家へ。
舗道の匂いと、土の匂いを踏み分けながら。
僕が探していたのは、場所ではなかった。
声だった。
あの、胸にすっと染み込む呼び方。
名前を「名前」として呼んでくれる、ただひとつの声。
長い旅の終わり、僕は足を止めた。
そこには、どこかで何度も見た気がする庭があった。
低い木と、縁側。
午後の光が、静かに地面を温めている。
ひとりの人がいた。
少し寂しそうに空を見上げ、ぽつりと僕の名前を呼んでいた。
その声だった。
その人は、縁側に座って、静かに泣いていた。
音を立てず、肩だけがわずかに揺れていた。
そこは、僕とその人が並んで日向ぼっこをした場所だった。
何も話さず、ただ同じ光を浴びていた、あの時間の場所。
僕は知っていた。
ここが、僕の帰るところだと。
そっと近づき、その人の隣に身を寄せる。
するとその人は、僕に気づき、驚いたように目を見開き、やがて微笑んだ。
「寒かったね……ミケ」
その一言が、すべてだった。
その瞬間、胸に残っていたものが、静かにほどけた。
声も、手の感触も、旅の理由も。
すべてが空へ返っていった。
それでも、僕はそこに座っていた。
名前はもう思い出せない。
理由もわからない。
けれど、この場所が安心だということだけは、体が覚えていた。