本作のテーマは再起の権利です。
るいかは幼さゆえに愚かなことをやってしまい、ジョゼをひどく傷つけました。だけどその偽りの出会いの中でしか、ジョゼを愛することを知ることはなかったのです。本作はそのジレンマからの解脱を必死に試みる話でした。人が人を赦すことは難しい。
人は人を赦せない。それは古代から続く人類の課題の一つです。人によっては人を赦す必要などないと言うかもしれない。それもわかります。自分自身も振り返れば人を赦せないことが圧倒的に多い。じゃあ自分は?自分自身は他者から赦されないことをしているんじゃないか?そう思うこともある。この問題は簡単には決着がつかない。だから法律は少なくとも裁判などで一定の歯止めをかけて人が人を罰することを禁止しているのです。
人が人をゴシップで許さないのはそれこそ原始時代からだそうです。そして現代においてもネットでの炎上などで職を奪われていく人が多い。罪を犯したのだから制裁を!そう言って人が人を罰して社会から追いやります。それは果たして正しいのか?それが私には靄っとしていた。るいかにはその役割を担ってもらいました。ひたすら不安定な地位で足掻き続けて罰に怯える。それでも足掻いて足掻いて罪を贖おうとする。だけど彼女は結局追い込まれます。だけどただ一人すみれがるいかに手を差し伸べます。るいかは芸能界という地獄、ソドムのような罪深い場所ですみれに手を差し伸べました。だからすみれはるいかを愛して、その愛がジョゼを動かしました。
わたしが好きな神話に旧約聖書のロトの物語があります。ロトの住む街は退廃とした罪深い街です。そこに義人がいるならば神は罰さないといいます。ロトは義人を探しますが、見つからない。結局ロトは妻と娘と共に逃げました。そして振り返った妻は塩の柱となり、ロトと娘は生き延びました。
ルイカは地獄に墜ちた。そこで義人を見つけた。そして神は罰することをやめた。僕飛はそれだけの物語でした。芸能界は人に見られる地獄の街。人に見続けられるという罰の場でした。その中でるいかは人を一人でも。よき人を。自分を愛してくれる人を見つけ出せた。それが救いだった。そう思っています。もしも誰も義人を見つけることができなかったのならば、るいかは凄惨な死を迎えて人々にモラルハザードを引き起こす偶像になっていたでしょう。
私自身もこの物語はただひたすら自分の中のドロッとした部分を掘り起こす作業でした。救いなんてあるものか。いやあるはずだ。やっぱりない。そんな揺れがるいかを襲っていた。
もしもこの物語で誰かが再起を決意できたなら。誰かの再起を応援できるようになってくれた。一人でもそう思ってくれるだけでいい。そうであればわたしは幸せです。
読んでくださってありがとうございました。ではまた別の物語でお会いしましょう。またね。