ミハエルは右手を静かに持ち上げる。指先から溢れ出た蒼い光が、空中で複雑な紋様を描き、やがて収縮した。
「パストレコード」
低く呟いた声に応じて、虚空に光の幕が広がる。投影されたのは、数日前のこの街の光景。煤けた壁、逃げ惑う人々の影、そして――贅を尽くした衣服を身にまとい、肥え太った体躯を揺らして悲鳴を上げる男の姿だった。
男はカイアス王国の悪徳国家公務員。その胸元を、眩い金髪の若者が持つ剣が容赦なく貫く。若者の名はガイズ。現実に捕らえられ、魔力を縛られて床に膝をついている男その人であった。
光の幕の中のガイズは、冷酷な笑みを浮かべて剣を引き抜く。床には、食べかけのステーキが転がり、皿から溢れた赤い肉汁がじわじわと絨毯を汚していく。部屋の隅では、魔力で動く冷房機が静かに冷気を吐き出し続けていた。
「はは! 愉快だな!」
現在のガイズが、縛られたまま喉の奥で笑声を上げた。泥と血に汚れた顔を歪め、傲慢な響きを帯びた声を響かせる。
「今まで苦しめてきた民に、いざというときは助けを求める!
どこまで矛盾したら気がすむのだ!?
逆累進課税で税金をむやみに吊り上げ、
民が苦しみ、搾取した税でステーキを食べ、
エアコンもつけ、搾取した税で煌びやかな服を着て!
で、恨みを買って最後はこうだ。これが政治屋の末路だ」
投影された過去の映像が、ぷつりと途切れて霧散する。
ミハエルは冷ややかな目をガイズに向けた。コートの袖を軽く払い、静かに問いかける。
「大義さえつかめば、虐殺していいと思ってる? ガイズ。身に降りかかった悲劇は、殺人許可証じゃないんだけど」
その問いに対して、ガイズは怯むどころか、唇の端を吊り上げてミハエルを正面から見据えた。その瞳には、狂気と紙一重の強い光が宿っている。
「なら問おう」
ガイズの声が、廃墟の静寂を切り裂いた。
「地球を滅ぼした貴様は勇者か? 主人公か? ヒーローか? 地球にはいたいけな命もたくさんいたはずだよな」
「…………」
言葉が、喉の奥で硬く凍りついた。
ミハエルは眉を僅かに動かし、沈黙する。
(知っているのね。わたしとサリサとフィオラと木花咲耶姫で地球を滅ぼしたこと)
思考の海が、一瞬にして冷たい泥で満たされる感覚があった。
あの凹型の星。
ブルーブラッド・レプティリアンによる魂の家畜場と化し、死んでも強制的に輪廻転生させられる地獄の球。それを根こそぎ叩き壊すため、北半球を吹き飛ばし、月を砕き、最後はアーリマンごと燃やし尽くした。
そこには確かに、何も知らずにただ生活していた無数の地球人たちがいた。彼らの魂を牢獄から解放するためという目的はあった。それでも、物理的な破壊という手段を選んだ事実は消えない。
張り詰めた沈黙が、廃都市の空気を重く支配していく。
「……あら」
その静寂を最初に破ったのは、フィオラ=アマオカミだった。
深紅のスリットドレスの裾を揺らし、黒竜の尻尾をゆっくりと左右に振る。赤い瞳に退屈そうな光を浮かべ、ガイズを見下ろした。
「ずいぶんと狭い視野で物事を見るのね。
芸術の世界でもそうだけれど、朽ち果てたキャンバスにどれだけ美しい絵を描こうとしても無駄なのよ。
あの星は、根元から腐っていたわ。
それを綺麗に片付けたことを『虐殺』と呼ぶなんて、お門違いもいいところね。額縁ごと燃やして、新しい絵を飾る準備をしただけだもの」
彼女にとって、地球の消滅は壮大な宇宙の営みの一環に過ぎない。美を解さぬ家畜小屋を解体した、ただそれだけのことだった。
「ふん」
サリサ=アドレッド=ティーガーが鼻を鳴らし、白いホワイトライガーの耳を不機嫌そうに伏せた。オッズの異なる瞳が、ガイズの肉体を品定めするように細められる。
「あのさ、何も知らない子供みたいに吠えないでくれる? 地球人なんて、あそこに閉じ込められて、トカゲの餌にされるためだけに生まれて死んでいく存在だったんだよ。
その地獄のループを力ずくで止めてあげたのが、どうして責められなきゃいけないわけ? あいつらの魂は、これでやっと自由になったんだから。感謝されたって良いくらいだよ」
サリサの言葉には、神獣としての冷徹な真理が含まれていた。
彼女にとって、肉体の死など通過点に過ぎず、魂の救済こそが本質であるからだ。
「ももももーん!」
桜雪さゆが、ピンク色の十二単を大きく翻してガイズの前に躍り出た。頭の上の子狐が、鋭い威嚇の声を上げる。
「春女はね、サクヤ姫様の懐刀なの! あの星は悪魔でいっぱいになって、もうどうしようもなかったの! 悪い虫がついた桜の木は、根元から燃やして灰にするしかないでしょう? そうしなければ、次の春に綺麗な花が咲かないもの。
あなたの言っていることは、ただの『木を見て森を見ず』ね!」
桜雪さゆの周囲の気温が、一瞬だけ不自然に上昇する。時間すら燃やし尽くす炎の気配が、ガイズの肌を焦がさんばかりに漂った。
「さゆ、そこまでにしなさい」
水鏡冬華が、セーラー服の襟元を正しながら、さゆの肩を手で制した。
彼女の茶色い瞳には、かつて幕末の戦火を潜り抜けた者特有の、深く暗い光が宿っている。
「……地球が滅びたことについては、わたしも複雑な思いがないわけじゃないわ。新選組の仲間たちがいた土地だもの。でもね、ガイズ。あなたがやったことは、目先の不満を暴力で解決しただけよ。悪徳公務員を殺したところで、カイアスの奴隷制度そのものが崩壊するわけではない。制度を生み出す人間の醜い欲望が残っている限り、第二、第三の悪徳官僚が生まれるだけ。
あなたの『天誅』は、ただの自己満足よ。これこそ頭が病めそうだわ」
水鏡冬華の言葉は、歴史の重みを知る者としての冷酷な現実を突きつけていた。
「あの……」
空夢風音が、おっとりとした声を絞り出すようにして会話に割り込んだ。
セーラー服の上に千早を着た彼女の体は、微かに震えている。
「わたしは……パラレルの地球から来ました。だから、こっちの地球がなくなってしまったと聞いた時は、本当にショックでした。
たくさんの思い出や、普通に暮らしている人たちがいたのにって……。
でも、ミハエル様たちがそうしなければ、もっと酷いことが起きていたのも分かっています。
それでも、それでも……命が失われるのは、悲しいことです。ガイズさん、あなたの怒りも分かります。
でも、それを言い訳にして、他の誰かを傷つけていい理由にはならないと、わたしは思います」
空夢風音の手は、脇差の柄から離れ、胸元で固く握りしめられていた。彼女の葛藤は、誰よりも人間らしい道徳観に裏打ちされている。
「風音ちゃんの言う通りだね」
アリウスが、静かに一歩前に出た。
銀色の髪が、風に小さく揺れる。彼の背後には、半霊半物質の白い翼が微かに光を放ちながら展開されていた。
「魔法も、歴史も、全ては情報の集積なんだ。
地球の消滅という事象は、宇宙規模で見れば情報の再配置に過ぎない。
ルシファーが施した遺伝子の呪縛、強制的な輪廻転生という『バグ』を取り除くには、あの方法しかなかった。
論理的に考えれば、ミハエルの選択は最適解だったと言える。
……けれど、それを当事者ではない君に理解しろと言うのも、確かに酷な話かもしれないね。僕たちのクロック数と、君たちの認識速度には、埋められない溝があるから」
アリウスの赤い瞳は、冷徹な分析結果を告げる機械のように淡々としていた。
「ふん、小難しい理屈はどうでもいいさ」
フレデリックが、漆黒の鎧を軋ませながら、愛用の二振りの剣を肩に担ぎ直した。
緑の瞳に宿る光は、ガイズの言葉を完全に無視している。
「地球がどうなったかなんて、地球人じゃねぇ俺には関係ねえ話だ。
俺が知っているのは、目の前のミハさんが俺のダチだってことだけだ。
ダチがやったことを、外野の悪党にとやかく言われる筋合いはねえよ。
ガイズ、お前が大義名分を掲げて気持ちよくなっている間に、この街のどれだけの民が飢えてるか、少しは考えたらどうだ?
言葉返すぜ。言葉のクーリングオフだ。
ヒーローごっこなら、他所でやりな!」
フレデリックのざっくばらんな口調には、一切の迷いがなかった。彼にとっての世界は、理屈ではなく、誰を信じるかという極めてシンプルな法則で動いている。
「みなさん、そこまでです」
東雲波澄が、白いブラウスの袖を整えながら、凛とした声で場を収めた。
彼女の指先に挟まれた呪符が、周囲の乱れた霊波を吸収するように淡く発光している。
「これ以上の議論は平行線です。ガイズ、あなたの指摘は、一面の真実を突いているかもしれません。
ですが、私たちはあなたを裁くためにここにいるのではありません。
カイアス王国の霊気の乱れを収め、これ以上の無益な殺生を防ぐために来ました。
あなたのその歪んだ霊波動が、周囲の民にどのような悪影響を及ぼしているか、式神を通して全て視認しています。まずはその傲慢な心を鎮めるのが先決です」
波澄の茶色い目が、委員長タイプ特有の厳格さをもってガイズを射抜く。
「……」
ガイズは、次々と突きつけられる言葉に、一瞬だけ気圧されたように言葉を失った。
特に、サリサやフィオラの放つ、人間という規格を遥かに超脱した圧倒的な霊気のプレッシャーが、彼の生存本能を直接削り取っていく。彼らがその気になれば、このカイアス王国どころか、星そのものを一瞬で塵にできるほどの力を持っていることは、肌で理解できた。
「は……はは……」
ガイズは、乾いた笑いを漏らした。
「化け物どもめ。やはり、強者が弱者を蹂躙するのが、この世界の唯一の摂理というわけか。俺が公務員を殺したのも、貴様らが地球を滅ぼしたのも、本質は何も変わらない」
「いや、違うな」
ミハエルが、ようやく口を開いた。
その声は低く、しかし廃墟の隅々にまで届くほど明確だった。
「わたしは、自分が正しいなどとは一度も言っていない。地球を滅ぼしたことも、そこにいた命を奪ったことも、全てはわたしの背負うべき業だ。それを否定するつもりはないし、お前からどう思われようと構わない」
ミハエルはガイズの目をじっと見つめる。
「だが、お前がやっていることは、ただの『復讐』を『正義』と言い換えているだけだ。それでは、何も生まれない。わたしはそれを止める。たとえお前から悪魔と呼ばれようと、な」
ミハエルの背後で、呪禁道の冷たい光が揺らめいた。
