第3章:新たな霊獣は恋のライバル?
借金完済から一週間。美月と白澄の心は軽やかだった。『月見亭』は相変わらず繁盛し、二人の関係もすっかり「契約」から「本当の夫婦」へと移行しつつあった。
しかし、その平穏は長く続かなかった。
美月が早朝、店の仕込みをしていると、白澄が険しい顔で裏庭から戻ってきた。
「白澄、どうしたの?顔色が悪いわよ」
「……美月、私の力が安定した影響だろう。周囲の妖の『封印』が緩み始めている」
「え、どういうこと?」
「私と同じように、長く封じられていた力の強い妖が、現世に這い出ようとしている気配を感じる」
白澄は言いよどんだが、すぐに真剣な瞳で美月を見つめた。
「そして、その中に……とても懐かしい、そして厄介な気が一つある」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、店先に、まるで真夏の太陽のような強烈なオーラを持った女性が現れた。
彼女は美しかった。鮮やかな緋色の着物に、どこか鋭い眼差し。美月よりも背が高く、ただそこに立っているだけで、店内の空気がピンと張り詰めるのを感じた。
「ようやく見つけたぞ、白澄。ずいぶんと、くだらない封印に閉じ込められていたようだな」
女性は美月を一瞥もせず、白澄に向かって冷ややかな声を上げた。
「……霞火(かすみ)か」
白澄は目を見開いた。
「誰?あんた」美月は警戒心をあらわにして、白澄の前に立った。
「ふん。貴様、白澄の契約者か。穢れた人間の分際で、その男の隣に立つな」
「は? 穢れたってどういう意味よ! 私はこの店の、そしてこの男の奥方よ!」
美月が反射的に言い返すと、霞火は心底軽蔑したように鼻を鳴らした。
「馬鹿げた契約だ。白澄は、私と共にあるべき者。彼の傍は、私のような同種の妖にしか許されない」
霞火は白澄と同じ時代に生まれた妖だ。彼女こそが、霊獣だった白澄の対となる存在。白澄が持つ「癒し」の力と対照的に、霞火は人に害をなす妖を「退治」する、直接的な攻撃能力を持っていた。彼女は白澄の相棒であり、そして白澄を深く愛していた。
美月は、霞火から放たれる、白澄への熱烈な想いを肌で感じ、胸が締め付けられるのを感じた。
(な、なにこの感情……ムカつく。私が契約者なのに、この女がライバル……?)
借金や店のことばかりで、自分の感情を顧みる暇がなかった美月は、この時初めて、白澄に対する自分の気持ちが、単なる「契約」や「ビジネスパートナー」の枠を超え、強烈な恋心であることを自覚した。
「悪いが、霞火。今、私の『契り』の相手は、この美月だ」白澄が美月の肩を抱き、きっぱりと言った。「君の気持ちはありがたいが、私は人間と夫婦になった。君は、現世に留まるための契約などいらないのだろう?」
霞火は歯噛みした。
「霊獣が基となった白澄と違って、私には契約は必要ない。だが、彼の隣にいるのは、私でなければならない!」
店内に激しい火花が散る中、美月は一つの朗報を得た。病院から母が退院したのだ。白澄が施した見えない癒しの効果が、病気の母の回復を早めたらしい。
「お母さん!おかえりなさい!」
美月は、母を家に迎え入れ、霞火の出現でぎくしゃくした空気を吹き飛ばそうと、白澄と霞火を誘って温泉街を散策することにした。
「三人でね! 湯の道とお祭り屋台コースよ! 夫婦と、その……親戚ってことで!」
「ふん、親戚だと。吐き気がする」霞火は不満げだったが、白澄が一緒ならと渋々同行した。
三人は、湯ノ原温泉の風情ある石畳を歩き、白澄と霞火は現代の屋台の食べ物に目を丸くした。美月は、その様子をSNSにアップ。
『月見亭の旦那様と、旦那様の遠い親戚? が、温泉街を楽しんでいます! 不倫茶屋じゃありません! 家族です!(笑)』
強気に投稿し、霞火への牽制と、店への変な噂が立つのを防ごうとした。
そんな和やかな空気の中、異変が起こった。
「くそ……やはり、封印が緩んでいるな」白澄が眉をひそめた。
周囲から、弱い妖の気配が次々と現れ始めたのだ。
「フン、雑魚が。任せておけ、白澄」
霞火は、美月をライバル視しながらも、白澄を守るかのように、その場で一瞬にして妖を撃退した。彼女の攻撃能力は、白澄をはるかに上回っていた。
「私の存在価値は、貴様とは違う。白澄を守れるのは、私だ」
霞火の言葉は、美月の心をまたもざわつかせた。
その数日後、温泉街全体を揺るがす危機が訪れた。
温泉の近くの山から、とてつもない力の妖が現れたのだ。黒と赤の羽根を持つ巨大な梟、**炎梟(えんきょう)**だ。その妖の力は凄まじく、物理的な破壊だけでなく、温泉の源を枯らすなど、自然に干渉する能力を持っていた。それは、江戸時代に倒すことができず、封印するのが精一杯だったという、伝説の妖だった。
「まずい、これは私の力ではどうにもならない。美月、早く逃げろ!」白澄が美月を庇って叫ぶ。
「逃げるか!白澄は下がっていろ!」
霞火が炎梟に向かって突進した。白澄を愛する彼女にとって、彼の故郷であるこの温泉街を破壊しようとする妖は、絶対に許せない存在だった。
激しい戦いの末、霞火は傷だらけになりながらも、なんとか炎梟を打ち倒すことに成功した。しかし、彼女自身も瀕死の重傷を負ってしまった。
「霞火!」
白澄が駆け寄ると、霞火は苦しげに微笑んだ。
「心配するな、白澄……私は、お前が……大切だ……」
その時、失踪していたはずの美月の父が、ひょっこりと茶屋に帰ってきた。
「おお、美月! お前、借金を返したそうじゃないか。さすが俺の娘だ!」
「お父さん!今更何しに!」
しかし、父は美月を無視し、倒れている霞火と、傷ついた白澄を見て、険しい顔になった。
「こいつはまずい。このまま霞火を放置すれば、力は暴走し、他の妖を引き寄せる。これ以上、この女を消耗させないためには、封印するしかない」
「封印……?」
霞火もまた、力尽きかけた声で頷いた。「……その方が、白澄のためだ。私の今の力では、すぐにまた封印が緩んでしまうだろう」
美月の父は、蔵にあった壺の一つを使い、霞火を説得の末に再び封印した。
その後、茶屋を巻き込んだ騒動を起こした父は、商店街の面々から厳しくつるし上げられ、すごすごと家の中に引っ込んだ。
そして、父は美月に向かって、とどめの一言を告げた。
「美月。あの白澄という男も、力の安定しない妖だろう? 今回、炎梟が復活したのは、白澄が封印を解かれたせいだ。もしこの街を本当に守りたいなら、白澄も封印すべきだ」
美月は、白澄への熱い恋心と、父の言う「この街を守る」という大義の間で、激しく心が揺れるのを感じた。
(私が白澄を……封印する? そんなこと、できるわけがない……でも、この街を、お母さんを、守るためには……)
美月は、一人、静かに悩みの底に沈んでいった。