諸君は、二次創作を書く側だろうか? 書かない側だろうか?
遥か昔、ある男と「二次創作する作品と、そうではない作品」について語り合ったことがあった。
二次創作において、「感動したかどうか」と「それを書くかどうか」は一致しない。
このズレは、二次創作を長く続けた者ほど、はっきりと自覚している。
まず前提として、題材に選ばれる作品はいずれも、一定以上「愛している」作品である。
愛のない作品は、そもそも二次創作の候補にすら上がらない。
したがって、「書かなかった」という事実は、熱量や評価の低さを意味しない。
では、何が「書く/書かない」を分けるのか。
決定的なのは、作品に存在する余白の性質である。
重要なのは、余白があるかどうかではなく、その余白をどう扱うべきだと感じるかだ。
たとえば「CLANNAD」の余白は、「言語化されることを待っている余白」である。選ばれなかった可能性、語られなかった時間、未確定の感情が読者に委ねられ、読後に感情の一部が未処理のまま残る。
そのとき二次創作は、補足ではなく、解釈の表明として成立する。
一方、「雲のむこう、約束の場所」の余白は異なる。
沈黙や曖昧さそのものが主題と結びついており、余白はすでに完成形である。
そこに言葉を足すことは、補完ではなく侵入になる。
書かないという判断は、自制ではなく理解の結果だ。
この整理だけでは説明しきれないのが、「ひぐらしのなく頃に」だ。
「ひぐらし」には、事実として余白が多い。
心理描写、論理構造、世界観の説明など、未処理の部分は枚挙にいとまがない。にもかかわらず、ひぐらしは同人・商業の両面で二次創作が非常に盛んだった。この事実は無視できない。
ここで重要なのは、「二次創作が盛んだった理由」である。
ひぐらしは、世界観やキャラクターを『素材』として切り出しやすい作品だった。日常パートの再配置、狂気の増幅、パロディ化、別ジャンルへの転用など、キャラや設定を部品として扱う創作との相性が極めて良かった。
一方で、ひぐらしの余白の多くは、「解釈を委ねる余白」というより、「未処理のまま投げ出された空白」に近い。
読者は意味づけの権利を与えられるというより、後始末の負担を感じさせられる。
その結果、「これは自分が言葉を引き受けるべき領域ではない」と判断する書き手も、確実に存在した。
さらに、作者である竜騎士07が明確に二次創作を歓迎していた点も、この感覚に影響している。
本来、二次創作は許可によって生まれるものではない。
衝動として内側から立ち上がり、言葉を奪い取るようにして成立する行為だ。
「どうぞ二次創作してください」という姿勢は、文化的には開かれている。
だが書き手によっては、創作を衝動から依頼へと変質させてしまう。余白は挑戦ではなく委任となり、書くことは解釈ではなく補修に見える。
そのとき、感動はあっても、自分の言葉として書く必然性は失われる。
余談だが、ひぐらし最盛期には、この作品を解剖・解体しようとする「謎解き」サイトが乱立した。
結果としては――まあ、その努力の多くが水泡に帰したわけだが。
当時の管理人たちは、今も元気だろうか。
閑話休題。
この構図を、TYPE-MOON作品に当てはめると差異はさらに明確になる。
「Fate」は、設定そのものが二次創作向きに設計されている。
聖杯戦争という再利用可能なフォーマット、サーヴァントという引用前提の存在、複数ルート構造。世界観は増殖することを前提としており、二次創作は自然拡張として正当化される。
一方、「月姫」は扱いが難しい。
感情と世界観が密着しているため、少し触れただけで「月姫ではなくなる」危険がある。それでも月姫が二次創作され、実際に書かれてきたのは、設定ではなく感情の余白が読者側に強く残るからだ。作者の視線でしか語れないはずの感情が、読者の内部にも滞留してしまう。
その未処理の感情が、「書く資格」を発生させる。
以上を総合すると、二次創作における「書く/書かない」を分ける基準は、かなりはっきりしてくる。
それは、二次創作が盛んだったかどうかでも、余白の量でもない。
その余白が、読者に『意味を引き受ける資格』を与えているかどうか。
そして、書く行為が、敬意になるか、肩代わりになるか。
だから、愛しているから書かない作品があり、面白かったからといって書かない作品もある。
この選別は、二次創作を長く続けた者ほど無意識に、しかし厳密に行っている。
それは創作放棄ではなく、作品との距離を正しく測った結果なのだと思う。
もちろん、「流行ってるから書きます!」という人もいた。
彼はそれを「おかず」と呼んだ。毎日食べれば飽きる――なるほど、である。
それはそれで、市場的にみると正解なのかもしれない。