冬の一大イベントといえば、クリスマスを連想するだろう。あの奇怪な真っ赤な衣装に身をまとった白髭の親父が、赤鼻のトナカイを酷使してプレゼントを運ぶというイベントだ。「暗い夜道はピカピカのお前の鼻は役に立つ」と言われたトナカイ氏は、どう思ったのか。私ならば、「お前の禿げ頭はピカピカだから役に立つと言われて、嬉しいと思うか?」と問い返したと思う。
さて、残念ながらクリスチャンでもなければ、だいたい仕事に追われている身でもあり、良い思い出はほとんどない。悪い思い出といえば、交通量が増えて渋滞が発生し、その弊害を実感させられることだろうか。あとは、妙に浮き足立ったカップルを目にして、呪詛でも唱えたくなる気分が湧き上がることもあるが、それはさておく。
どちらかといえば、コミックマーケット――通称コミケの思い出のほうが先に巡る。冬の祭典であるそれは、オタクたちの異様な熱気と、むせ返るような人いきれが会場中を埋め尽くしていた。
私も類に漏れず参加していたわけだが、どちらかというと、強制的に参加させられていたという記憶のほうが強い。寄稿をしたこともあるが、基本的には売り子として手伝っていた。
踊る阿呆に見る阿呆、という言葉通り、祭り特有の高揚感は確かにあったが、売り子側になるとどうにも感じ方が違う。今で例えるなら、カクヨムに作品を投稿したときの気持ちに近いだろうか。売れなければ赤字になる分、ある意味こちらのほうが切実ではあるが、ともかく高尚な趣味であることには変わりはないように思う。
ところで、諸兄は同人誌と聞いて、どのようなイメージを抱くだろうか。おそらく、大半は漫画やイラストを思い浮かべるはずだ。実際、多くはそれに類するもので、文字――しかも小説となると、やはり売れない。
手伝っていた友人の最初の作品は、売上がゼロだった。売れることを想定して書かれたあとがきのもの悲しさといえば、筆舌に尽くしがたい。哀愁漂うその背中に、声を掛けることもできず、缶ビールのアルコールの苦みが、今も舌に残っている。
売れないことは、市場的に言えば失敗だろう。だが、彼は止めなかった。それは自身の愛の表現であり、同時にしっかりと「形に残した」という充足感と満足感を与えていたのだと思う。
数々の作品に触れてきた身として、「エター」は悪であると考える。もちろん、さまざまな理由があったことは想像に難くないが、それでも作品として形にしてほしいと、勝手ながら切に願うのだ。
筆を止めるなかれ。
心が折れることもあろう。読者がゼロで、「何のために書いているのかわからなくなる」こともあろう。
しかしながら、なけなしの給料から出版し、売上ゼロという形になった作品も、確かに存在していたのだ。それと比較して、今の自分の作品はどうだろうか。魂を削っているだろうか。剥き出しの情熱を注いでいるだろうか。誰にも読まれなかった彼のあとがきを読みながら、そんなことを思う。
今は時間的な制約もあり、参加しているわけではない。しかし、SNSなどで情報を見るたびに、頑張れと心の底からエールを送っている。