(スケジュール)
2026年01月17日 第二回順位確定
2026年01月31日 第二回寸評確定
2026年02月01日 第三回募集開始
6)純文学=不可知 ≠ 自由であること
純文学という枠組みを否定した直後に人はおのれの自由に純文学という名を与える
純文学は今、二つの勢力によって引裂かれている。
一つは、自分が書きたい物をまず書いて、それをあとから純文学だということにする者。もう一つは、先に純文学というものがあって、あとから自分がそこに参加しようとする者。前者はなるべく純文学というものを個人主義的に散開させようと働きかけるだろうし、後者はなるべく純文学というものを先行する作品群から帰納的にマテリアライズさせようと働きかけるだろう。
それは別にどっちだっていい。
問題は、純文学は定義することができない、とする一種の不可知論は、議論自体を停止に追い込み、不可知であることがただちに自由を意味しないにもかかわらず、不可知を自由へと反転させることにある。これにより、実質的に純文学という枠組み自体が消滅させられる。
自分が書いた物がどうあっても純文学でありうる自由(純文学=自由)を守ることによって、その人は、純文学の枠組みの外がわに追い出されている。以来、その人のもとには、その人の主張する自由に十分配慮した言葉ばかりが寄せられるが、一方、純文学的視点に立った突っ込んだ議論は決して提起されなくなるだろう。なぜならすべての純文学的視点から提起される議論は、その人の主張する純文学=自由(議論の不必要性)と衝突するからである。
自由とは、すべての議論の必要性を、作品から没収することである。
もはやその人の自由を脅かすものは何もない。純文学という枠組内における権利と権利の衝突に対する関心から、人ははじめてその人が書いた物を、良きにつけ悪しきにつけ、純文学的作品として捉えるが、純文学は不可知=自由であると主張するのであれば、その人が書いた物は、次の瞬間から、権利同士の衝突の渦中にある本来の意味での純文学的作品としては捉えられなくなるだろう。
かくして純文学=自由は議論の必要性を無効化する。つまりその人が書いた物をめぐって批評を書いたり、議論したりすることの必要性が失われる。その人は純文学に挑んでいるわけではない。純文学という枠組みのなかで鬩ぎ合っているわけでもない。自由という号令一下、雲散霧消させたあとには、純文学という枠組みから解き放たれたその人の自由が佇んでいるだけだからである。
その人は、純文学という枠組みを取り払い、ただひとつ残ったおのれの自由に対して、おのれの自由を束縛するものとして今しがた否定したばかりの名前を与える――"純文学"という名前を。純文学という枠組みを取り払ったあとにただひとつ残った自由に与えられる名が、"純文学"なのである。
――
ここで”場”の定義を見直しておく。
自由の主張は、議論を抑圧する。それも別にどっちだっていいし、各人が思い思いに自由を主張したらいいだろうが、自由の主張は、純文学の枠組内における権利の主張ではないことだけは絶対だろう。こうした自由が席巻する中、一方で、議論の必要性が失われない場があってもいい。品評会は議論の必要性を担保するだろう。
当方は働きかけをしない。誰かが通りがかるのを待っている。誰かが通りがかった時に引っかかるように、部屋の天井の片隅に弱々しい小さなcobwebを張って静かに待ち伏せしている蜘蛛のような存在だ。当方は働きかけをせずに気永に待っている。
ⅰ)場は、働きかけをしない。
場は、純文学は不可知=自由であると主張する者を転向させようなどとはしない。
それは別にどっちだっていい。
ⅱ)場は、はじめから当方と認識を同じくする者が現われるのを待つのみである。
※このノートは「現在純文学が不可能である事由」6)として収め直します