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自由はすべての議論の必要性を作品から没収する

(スケジュール)
2026年01月17日 第二回順位確定
2026年01月31日 第二回寸評確定
2026年02月01日 第三回募集開始


6)純文学=不可知 ≠ 自由であること
  純文学という枠組みを否定した直後に人はおのれの自由に純文学という名を与える
 
 純文学は今、二つの勢力によって引裂かれている。
 一つは、自分が書きたい物をまず書いて、それをあとから純文学だということにする者。もう一つは、先に純文学というものがあって、あとから自分がそこに参加しようとする者。前者はなるべく純文学というものを個人主義的に散開させようと働きかけるだろうし、後者はなるべく純文学というものを先行する作品群から帰納的にマテリアライズさせようと働きかけるだろう。
 それは別にどっちだっていい。
 問題は、純文学は定義することができない、とする一種の不可知論は、議論自体を停止に追い込み、不可知であることがただちに自由を意味しないにもかかわらず、不可知を自由へと反転させることにある。これにより、実質的に純文学という枠組み自体が消滅させられる。
 自分が書いた物がどうあっても純文学でありうる自由(純文学=自由)を守ることによって、その人は、純文学の枠組みの外がわに追い出されている。以来、その人のもとには、その人の主張する自由に十分配慮した言葉ばかりが寄せられるが、一方、純文学的視点に立った突っ込んだ議論は決して提起されなくなるだろう。なぜならすべての純文学的視点から提起される議論は、その人の主張する純文学=自由(議論の不必要性)と衝突するからである。
 自由とは、すべての議論の必要性を、作品から没収することである。
 もはやその人の自由を脅かすものは何もない。純文学という枠組内における権利と権利の衝突に対する関心から、人ははじめてその人が書いた物を、良きにつけ悪しきにつけ、純文学的作品として捉えるが、純文学は不可知=自由であると主張するのであれば、その人が書いた物は、次の瞬間から、権利同士の衝突の渦中にある本来の意味での純文学的作品としては捉えられなくなるだろう。
 かくして純文学=自由は議論の必要性を無効化する。つまりその人が書いた物をめぐって批評を書いたり、議論したりすることの必要性が失われる。その人は純文学に挑んでいるわけではない。純文学という枠組みのなかで鬩ぎ合っているわけでもない。自由という号令一下、雲散霧消させたあとには、純文学という枠組みから解き放たれたその人の自由が佇んでいるだけだからである。
 その人は、純文学という枠組みを取り払い、ただひとつ残ったおのれの自由に対して、おのれの自由を束縛するものとして今しがた否定したばかりの名前を与える――"純文学"という名前を。純文学という枠組みを取り払ったあとにただひとつ残った自由に与えられる名が、"純文学"なのである。
――
 ここで”場”の定義を見直しておく。
 自由の主張は、議論を抑圧する。それも別にどっちだっていいし、各人が思い思いに自由を主張したらいいだろうが、自由の主張は、純文学の枠組内における権利の主張ではないことだけは絶対だろう。こうした自由が席巻する中、一方で、議論の必要性が失われない場があってもいい。品評会は議論の必要性を担保するだろう。
 当方は働きかけをしない。誰かが通りがかるのを待っている。誰かが通りがかった時に引っかかるように、部屋の天井の片隅に弱々しい小さなcobwebを張って静かに待ち伏せしている蜘蛛のような存在だ。当方は働きかけをせずに気永に待っている。

ⅰ)場は、働きかけをしない。
  場は、純文学は不可知=自由であると主張する者を転向させようなどとはしない。
  それは別にどっちだっていい。
ⅱ)場は、はじめから当方と認識を同じくする者が現われるのを待つのみである。

※このノートは「現在純文学が不可能である事由」6)として収め直します

15件のコメント

  • 朝尾様
     お久しぶりです。私事、年末に入り、途端に用事が新年の方へ走り去っていったので、私も少しは休筆していた紙を机に上げようかと思います。

     素人だが、と云った前置詞らは最早単なる責任回避に近しいと感じます。これは痛烈に、私にも自覚ある処です。真新しい世界に入り込んだ未熟者は何を読み、感じたのか、静かに観察するでも、世界についてを調べようとも思い立てず、大抵、手の届くところに生える語り草を自由にむしって、時に余計な水を挿してしまうのです。立派なショウウィンドはただ人々の語り場となって、清潔に飾られた生花は養分を奪われて、いずれ枯れ腐ってゆくのみです。

     何が書いてあるか、ではなく読み手が何を読み取ったかにばかり照光が当たるのは、避けるべき事態と感じますが、尤も私は嫌いではありません。書き手としては必要以上のお喋りをせず、口をつぐんで、ある意味で「作者の死」を演じています。井戸端には不在だが、テクストとして存在する語部であり、然し個々とは真摯に対峙する姿勢のような。

     私は純文学をひとつの文派としてではなく、文字に対する態度として示すものであると感じています。自分の首にも冷たい刃先を向け、それを言葉で以て応えるのです。
     素人目であろうと、純文学について語るのは推し図るべきものでありつつも、然し実情は「自由」という免罪符を掲げて純文学を称する群です。誰しもが「純文学」について、語りを辞めてはならない、止めてはならない、聞かなくてはならない。そうして純文学は毅然と生きながらえてゆきながら、常に検討されるべくしてある理想として、我々の旨にあるのだと感じます。
  • かいまさん

     歳末いかがおすごしでしょうか?


     九月半ばに「現代文学の課題とは何か」についてお尋ねしたこと、覚えておいでですか? 僕は品評会を通してそれをぼんやりと把握しつつあります。
    「自己の外がわに広がる非人間的なものへの畏れの欠如」がその一つではないか?
     現代人は対人関係=世間の外がわを喪失しているのではないか? 
     そのため、小説を書くとなると、個人的な内的感覚でもって全世界を覆ってしまう。言語表現を、慣れ親しんだ内的感覚の外がわへとはみ出してゆく契機とせず、全世界的規模にまで内的感覚を肯定的(自己親和的)に拡大、その反映をうけて、羊水の中にあるような安心感に浸りたいという欲求が強い。
     しかしたとえ世間を判断停止に追い込み、内的感覚をどこまでも敷衍して全世界を覆い尽くそうとしても、ふつうは何かが残る。純然たる外部が残る。そのことを現代人は健忘してしまっている。


     同様にカクヨムの課題も見えてきました。
     僕は現代作家の左翼臭がきらいですので、彼らを生み出すシステムをきらっています。文学賞受賞-出版-デビューというお定まりの流れの川上に、彼ら左翼陣営が立ちはだかっており、選考委員は既得権益化しております。
     そのシステムを否定する運動が興ってもいいはず。昔ながらの草の根的な同人雑誌のような。現代文学の商業性を非難する声はよく聞く。けれども運動は興らない。最終選考にのこった際にもらえる数行の講評を、誰もがありがたく押し戴く。
     僕の品評会は既存のシステム(「数が権威を構成する=インプレッション数がその人を成功に導く」というシステム)を否定する動きに思われます。


     まだ二十歳に満たない学生の方々の、文学に対する真摯な姿勢に心動かされる今日この頃です。一方、立派な大人が、文学という合言葉で集まってやっていることは、TwitterやInstagramの発信内容を長文に変更しただけの戯れです。


     作者の死について。

    ≪私の死は、<私>という語を発するのに構造的に必要不可欠である。≫
    ≪「私は生きている」という言表には、私の死=存在〔私が死んでいること〕が伴うのであり、その言表の可能性には、私が死んでいるという可能性が必要なのである。≫
    (ジャック・デリダ、声と現象、ちくま学芸文庫、2022、pp.216-217)

     ご存知かもしれませんが、これは、エクリチュールのもつ意味志向は――<私>という表現は――その意味が指示する実在的な対象に関する体験が与えられていなくても――<私>とは誰なのかが体験として与えられていない、<私>を体験できない私の死後であっても――相変わらず同じものを無限に表象し代理しつづける――相変わらず<私>を表現しつづけることから、エクリチュールが意味志向の対象の実在性を超えてあること――<私>が私の実在性を(私が生きていることを)超えてあることを、デリダが過激に表現したのだと思われます。
    ≪私が死んでいるという可能性が必要なのである≫という一文をさらに激成すると、≪作品において作品の著者である私が死ななければ、作品は生きられない≫というくだりが得られそうです。

     品評会は、作者不在のまま出品された作品の品評会、という性格を帯びつつあります。
     現状、カクヨムでは読者による、テクストを介した=透明化した作者との向き合い方が氾濫し、作品がテンポラリーなものに堕しており、そういう作者を抜きにしたテクストとの向き合い方は圧倒的に不足しております。
     一旦、作者を抜きにした読まれ方がはじめられるや、過去の作品の読み方と寸分違わぬものになり、過去の作品を同じ比較可能な地平に引きこんでくることにより、緊張感が生れるだろうこと、時間錯誤の場がもたらされるだろうことは先日述べたとおりです。

     僕のこの草の根的な取り組みが、場の醸成にいささかでも結びつくか、未知数です。ただまあ、ほんと、残念ながら、やらざるをえません。一応、五年後くらいまでは見てますが。
     個々別々には真摯に対峙する、絶対的な向き合い方を僕も望みます。けれどもそれですと、カクヨムにふらッとやってきて読まれないでさッと去ってしまう方を、つかまえることができませんし、場の醸成にはなかなか結びつきません。

     かいまさんはどう見ますか? 
     何か変だなと思う点、こうしたらいいんじゃねと思う点、そもそも無理じゃねと思う点等ありましたら。
     来年もよろしくお願いいたします。
  • 朝尾様

     謹賀新年、あけましておめでとうございます。旧年度は貴方様と度々の文通を交えまして、私も改めて文学へ立ち直る素晴らしい機会となりました。今年もどうぞ、よろしくお願いいたします。


     私は、世界を認識する上で、個々が得られるのは解釈のみであり、真理はないという思観に立っております。世界という高複次元の様体の、その一部のパースペクティヴのみしか、捉えることが出来ないと。

     そこで朝尾様の云う問題は、我々が五感と言語を過信し、誰しもが自らの捉えたパースペクティヴを真理と確信している点にあると考えています。私たちは自らの五感を通してのみ、世界を認識し、言葉でのみ他者へ自分の認識を伝達できる。言葉は受け手によって万化し、正しく共有されたかは、それもまた、言葉に依るしかないため、確かと出来ない。

     現在ある、内面に陥った自己世界の敷衍は、自らの感覚と文を過信した無自覚さに、その落ち度があると感じます。文学に於ける「作者の死」や静粛性の必要性は、この過信を払い除け、世界の一片のみしか見えない矮小な孔からでも、世界を捉え続けようとする姿勢が必要である事と同義でありましょう。


     プラットフォームの問題に関しては、私は作品をも、世界と同様に多面性をもたせた複次元的な多面体として、通俗面と文学面と云った各々のパースペクティヴを用意することが、如何なる文学プラットフォームにても必要とされる観念であると考えております。

     作者はひたすらに黙って、意図を汲みとった読者が勝手に声を上げるのをしんと待つのです。その為にも、恒時的に読者を絶やさないための、文字のバランス感覚が求められるでしょう。名言と称される文言は何れも、誰でも文章としては理解できる平易なものです。

     例えば、日本文学で最も有名な「吾輩は猫である」の一文は、今となっては端的な自己紹介として受けとられるでしょうが、本来は当時の「猫」という動物への「化けもの」や「不気味さ」という印象から、偉そうで仰々しい「吾輩」なぞという一人称を使う滑稽さや悍ましさと云ったパースペクティヴの攪乱に、漱石のセンスが秘めてあるのでしょう。

     これは私のスタンスですが、表現において、文字としては誰でも理解できるものを目指しています。しかし一方で、文章の長短に関わらず、最大限に回りくどい言い回しを探す作業として、私はこのプラットフォームを利用しております。古典的表現を踏襲するにしても、例えば、徒に古典的かな遣いに直して、読者を無意味に離してしまっては、作者として孤高ではなく、孤独が待っていると予期してしまいます。

     又、回りくどさによって疑似的な伝達の滞留を再現する事が可能となり、人々の多面的な解釈が進むことで、エクリチュールの自律も達成されるのではないでしょうか。これらは、私なりの文学の倫理観とも言えるものやも知れません。
  • かいまさん

     あけましておめでとうございます。
     昨年は当方からの執拗な問いかけにもねばり強く答えていただきまして、深く感謝しております。本年はもう少し自重したいと思います。
     やはりかいまさんはリベラルな感性をお持ちのようです。対して僕は、みっともないほどに余裕のない焦燥を言葉の端々に滲ませてしまっております。

     かいまさんはしばしば読解(解釈)の”多面性”という言葉を用いられました。
     これに対して僕は”多面性”という言葉自体がリベラルな幻想ではないかと考えております。多面性が担保されるためには表現されねばならず、表現されていないことが恰もあるかのように信ずることによって多面性が担保されるわけではない、と。
     カクヨムに批評の類が少ない以上、僕は読解(解釈)の”多面性”が実際にたしかにあることを容易に信ずることができません。
     ないものを恰もあるかのように奥行きありげに見せかけたのが、テレビ(映像媒体)であり、左翼メディアの過剰な演出によって、人生には意味があり、生きていることそれ自体がすばらしいというようなプロパガンダが、我々の自然状態の前景に上書きされてしまっています。このことを疑うこと自体がタブー視され、疑い且つあばき立てるところの言語が衰退させられました。大衆にとってはその方がのぞましいので、言語の衰退は、メディアと大衆との共謀ではなかったかと考えることもできます。
     言語にあらわされていないところに個性を見出そうとする一傾向を、僕はいたるところに見ています。個性的な言語の扱い方は訓練を要します。映像は「形容しがたい」「言葉ではあらわせない」「言おうようない」などというような、言語が言語自身に言い聞かせられる屈辱的な無力な表現を言語に強要し、言葉では言い表せないもの=存在という暗黙知を作り上げました。それで必然的に言語表現というものは二義的なものになります。
     しかしながら、言語表現そのものによってはあらわされない個性を信じつつ、言語表現という手段に訴えるという態度では、文学はできません。
     或る程度の言語化以上は差し控えねばならないという暗黙知から、すべてをあらわにすることができないという言語の無能力という臆見が定着してきたかのようにも思われます。
     僕の焦りと苛立ちは、言語は無能力であるという奇妙な共通認識に対するものです。
     もし僕が敬遠されるとすれば、旧仮名遣いや回りくどさのためではなく、或る程度の言語化以上は差し控えるという暗黙知を踏み越えてゆくからではないか、と考えております。
    ――
    ≪世界の一片のみしか見えない矮小な孔≫とありましたが、僕はもう少し、エクリチュールの忠実な模倣を通して、言語表現の可能性に望みをかけております。
     個人的な内的感覚に基づいたエクリチュールのほかに、たとえば公文書のエクリチュール、新聞記事のエクリチュール、哲学的エクリチュール、新書のエクリチュール、ブログのエクリチュール、Twitterのエクリチュール、もちろんこれに古い時代の文書類のエクリチュールを含めて、それらを模倣することにより、管見とよばれるにふさわしい視座を増やし、多地点的にし、それからそれらを一つの文体において綜合することで、個人的な内的感覚に依拠したエクリチュールから脱出することができると考えます。
  • 朝尾様

     謹賀新年、いかがお過ごしでしょうか。新年度も貴方様との交流を楽しみに、私めも真摯に文学と対座して参ります。

     朝尾様が私の立場をリベラルと仰るのは、おそらく私の言葉不足によるものでしょう。私は、朝尾様の云う個人の内面を脱した世界の真なる正体があると信じております。その上で「多面性への逃避」ではなく、言語の欠落した構造に対する諦観によるものでありました。

    世界→五感(矮小な孔)→個人(感性)→言語(独自構造)→他者(感性)

     この様に、世界の正体は様々なフィルタを通して他者へ伝達される に至ると、私は考えております。人それぞれに異なる感性や感覚があり、完全に統合された意識を持つことは不可能であり、例え実現できたとしても、それを確か付ける証明が言語によって出来ない状態であります。よって世界を正体として会得するには、本来、言語に背負いきれない問題(アポリア)であると考えてしまうのです。

    「ひとつの林檎がある」
    →「ひとつ」「林檎」「ある」とは?どんな?いつ?どこに?だれが?と問いが連続(ソシュールやデリダ的記号論に近い)
    →言語の渦動的循環=システムの欠落

     我々が世界から得た風景も、匂いや手触りも、文字へ完全に起こすことは不可能でありましょう。全てを正しく記述しようとすると、不可説に情報量が多過ぎますし、言葉それぞれにも多様な解釈が同時に存在してしまうためであります。又、言葉の定義に言葉を用いなければならないため、言語は構造として独立したもので、元として、伝達手段としては信憑性のないものだと考えています。然も、この姿勢では単なる記述体として、朝尾様も恐れる文学の情報の羅列化に陥ってしまいます。私にとって、世界はまるで形而上的に存在する理想体であり、それを個々人の狭い孔から得た文字を綜合に捉える”試み”こそ我々の文学であると思っております。

     そのために、朝尾様のあらゆるエクリチュールから倣い、綜合することで、個人の内面を離れた世界の普遍性をうつす志は、尤も言語への信頼性が高い故に表れたものでありましょう。

     無論、私も多々のエクリチュールから感銘を受け、幾度となく世界についての認識を改めた身でありますが、言語自体を疑ってしまって仕方ない訳です。文学を愉しむ身として、情けない限りでありますが、私なりの文学への誠実さによるものであると信じて頂きたいです…。

     朝尾様と私めの文学への「世界を捉えんとする」姿勢は同じく思いますが、相違点は言語そのものへの信頼性でしょう。朝尾様は如何お考えでしょうか。
  • かいまさん
     
     なるほど……かいまさんは"多面性"という言葉をかなりネガティブに使っておられたわけですね。字面が同じでも、読み手が得手勝手に表象するものは"どうしても"ずれてしまう、という意味において。

     たとえば「道端にひとつの林檎がある」という一文を受け取る際にも、
    ある人は「無人販売所の棚に林檎がある」と受け取り、
    ある人は「道端の会社の敷地内に大きな林檎のモニュメントがある」と受け取り
    ある人は「子供がお尻ぺんぺんをされて真赤に腫れた臀部がある」と受け取り
    ある人は「今にもサザエさんが割って出てきそうだ」と受け取る。
     物語を一通り読み終わったあとの構造物に対してほどこされる解釈が"多面的"である、と仰っていたわけでなく、物語を構成する一文一文を読み起こすだけでも、表象されるものには齟齬が"どうしても"生じてしまう、という意味で仰っていたわけですね。
     これは失礼をいたしました。もし物語全体を読み終えての解釈が"多面的"であるというふうに、ポジティブな意味で仰っているとしたら、これは"多様性"という言葉の響きによほど似通っているので、ややリベラルだなと思いました次第です。撤回いたします。
    ――
     もし物語を一通り読み終わったあとの構造物に対してほどこされる解釈が"多面的"であると仰るのでしたら、僕はそれについては懐疑的です。
     ある読者が物語を一通り読み終わったところで、作者が訊ねます。
    作者「どうでした?」
    読者「いやあ、さまざまな解釈ができそうな、多面的な物語でした」
    作者「そうですか。で、あなたは実際どういった解釈をなされるのですか?」
    読者「それは…その、言葉では表現できませんし、あえて言葉にしたくもありません」
     ないものをあることにしたいがために、ある程度の言語化以上を差止めて、解釈が多面的であるという幻想を守護しにかかり、幻想を共同でもり育てるために相手にそれ以上追及しないことを暗黙知として要求する傾向が、昨今は強いと、僕は感じるわけです。表現以前の解釈の存在のほのめかしは、表現以前の個性の存在を盲信することと、パラレルである気がします。三島由紀夫『旅の墓碑銘』にも、

    「僕の思念、僕の思想、そんなものはありえないんだ。言葉によって表現されたものは、もうすでに、厳密には僕のものじゃない。僕はその瞬間に、他人とその思想を共有しているんだからね」
    「では、表現以前の君だけが君のものだというわけだね」
    「それが堕落した世間で云う例の個性というやつだ。ここまで云えばわかるだろう。つまり個性というものは決して存在しないんだ」

    とあります。個性という幻想をもり育てるためにある程度の言語化以上を差止め、相手もそれを察して、相手の中に表現以前の個性があることを信じこもうとする風潮は、メディア主導で行われてきた刷り込みではないか、そしてとりわけ二十一世紀において亢進している病理ではないか、と僕は考えております。
    ――
     たしかに僕は、言語に対して厚い信頼を寄せております。それはおそらく、僕の言語がどこまでも”まずは自分自身に読ませるもの”だったからかも知れません。こうしたお手紙のやりとりではもっぱら”伝達作用”に重きを置いていますが、いざ、創作となると、”伝達作用”に含まれている”他者への関係”をはじめッから当たり前のように捨象しているから、まだその言語の伝達における根源的な不安定さに、頭を悩ませたことがないのかも知れません。

    非-現前性としての<他者への関係>は、表現の不純性である。
    (ジャック・デリダ、声と現象、ちくま学芸文庫、2022、p.90)

     僕はある意味、この言葉を地で行っています。
  • 朝尾様

     私は独自に言語論理の論を構築し、その結果として矢張、言語と云うシステムには構造的不完全性が前提として在ると結論付けました。勿論、私にも言葉に対する絶対的な忠誠がありますし、悲観的に諦観に陥った訳でもなく、ただ単に誠実さがそう姿を現したに過ぎませんでした。

     そして作品に対する批評や、語るべく場に於いては無論、構造物の全体像を必ずしも把握しきれていないと云う粛々とした自覚を持った上で、そこには無制限の解釈や考察の余地が残されている事を前提として捉えると、より立体的(多元的)な議論、理解が促進されるのかと考えております。尤も、ひとつの作品についてであれど、完全な解剖は有り得ず、常に捉え続けようとする"試み"にこそ、文学たる神髄であると感じている次第であります。

     私の場合、論理の非情さから旨とするは、言葉にすることを取押えて論議を拒絶する事ではなく、自らの感性(個性)へも刃(言葉)を突き立て、多元的で捉え切れない構造物の全容についての討論を前進させ、よって、個性を構造物を表すひとつの断面図(論評)として昇華させることであります。私はここに、言葉に対する責任をもって取り組むべきであると自らに強く律しております。

     朝尾様の言語に対する「自らにも読ませるもの」と云う感覚は、まさしく私の述べた言語と云う独立した循環性の構造が、自らの感性から昇華された姿である、と云う考えとも似通ったものでありましょう。さしあたり、私は「自己が最も近い他者」であると捉えているので、文字をかえして自分に問う工程もひきくるめて論評でありますし、そう云った意識が文壇に不純性が介さないよう作用すると思っております。
  • 注釈:「個性」について、私は、個々人が五感から読み取った感覚(感性)、及びその感覚によってなされた発想や表現を指して用いました。

     つまり、五感として捉える感覚が各々で異なるため(もしくは全く同一であるか確認が出来ない(言語の不完全性)ため)、「個性」として表象すると捉えております。朝尾様の云う「個性」は主観を逸脱しない幻想であると切り捨てられておりますが、私に言わせると、照合不可の物差でしかなく同じく幻想と言われても已む無しやも知れません。しかし他方、自らの尺度(感性から生まれた発想や表現)を失った文学に於いて、作品を測量することも全く出来なくなってしまいます。最早、言葉で世界を確かめる事は根源的に不完全であると感じる私めの立場からすると、「個性」の希釈と淘汰は、文壇の多様な議論をも取り留めてしまうのでは、と恐れてしまうのです。
  • かいまさん

     思いがけなく議論が白熱してしまっておりますけれども、ここは、体よく折れ合う必要もないところかと存じます。
     かいまさんの仰っていることは理解している心算です。全てを捉えきることはできない=一つのパースペクティブに拠らざるをえないこと、映画館で一同に見せるように言語が完全に統一された表象を読者にもたらすことはできないこと、それゆえ《無制限の解釈や考察の余地が残されている》ことは、勿論、僕も認めるところです。ただ、おのおのが培った《解釈や考察》を、人に伝わる形で言語のなかに落とし込む努力をし、且つ、それを表沙汰にする勇気を持つことができるかどうかは別問題だということを僕は申し上げたいわけです。
     かいまさんがそうした努力をいとわず、難なく表沙汰にできる胆力をお持ちだということを僕は夙に知っております。しかしながら、すべての人がかいまさんのようにできるわけではありません。
     もし《解釈や考察》を表沙汰にしない人のなかにも、潜在的な《解釈や考察》を認めるようなことにでもなれば、ありもしない《解釈や考察》の幻想が膨れ上がってゆくような感じがしませんか?

     個性は、"すでに表現されたもの"からさかのぼって、その表現者の内部にまで訪ね歩いて行ったとき、はじめてその存在が類推されるようなものであると考えます。すなわち、何かが表現されてはじめて、個性は類推されます。それと同じく、解釈は、その解釈がすでに表現され、表沙汰にされたときにはじめて存在しはじめる、と僕は考えます。したがって個性においては、"表現しようとする努力"が必要であり、解釈においては、その解釈を"言語化して表沙汰にしようとする努力"が必要です。
     いずれも"表出させようとする努力"を必要としており、表出する前からその人のなかに漠然と漂っているものではないと考えます。
     もし"表現以前の個性"を信ずるならば、《個性とは、何ら努力とはかかわりなく、滲み出るものだ》という解釈が成立ちますし、この解釈をもって言語表現に臨むともなれば、《表現以前に個性はあるのだから、何ら努力するまでもなく、小手先の表現技法に訴えるまでもなく、言語表現のがわに自分の個性は滲み出てきて、ひとりでに個性的な表現になるにちがいない》という考えに必ずや到達することでしょう。
     しかしながら、"表現以前の個性"を信じるあまり、表現媒体じたいの研究をなおざりにしていると、逆説的に、没個性的な表現を量産する羽目におちいるのではないでしょうか。内なる個性を信ずれば信ずるほど、外なる表現は没個性的になるという皮肉な構造を、表現媒体はもっているのではないでしょうか。
     むしろ、個性的な表現は、自分の内なる個性を信ぜず、自分の外なる既存の表現のなかにこそ個性を見出し、それらを模倣しつづけた末に獲得されるものではないでしょうか。個性は、表現においては、逆説的に模倣に模倣を重ねた末に見出されるものなのではないでしょうか。内なる個性の問題ではなく、ただ、”表出されるもののとば口”である言語表現の型の問題なのではないか、と割り切った人間のほうが、皮肉にも個性的な表現を手にするのではないでしょうか。僕が純文学を”形式の争い”と呼ぶのはこの意味においてです。
     かいまさんは注釈において「内的感覚=個性」と措定されました。これは「肉体的差異=個性」と措き直すこともできるかと思います。
     すると「内的感覚が付着したエクリチュール=個性的なエクリチュール」という式が得られます。《感覚が各々で異なるため(…)、「個性」として表象する》とあるのを敷衍しますと、肉体的差異は”直接的に過不足なくそのまま”エクリチュールの差異として表象する、という風に換言することできるのではないでしょうか。
     しかし、かいまさんのお手紙をさかのぼってみますと、《我々が五感と言語を過信し》《自らの感覚と文を過信した無自覚さに、その落ち度がある》とあります。ここに矛盾はないでしょうか?
     僕は「内的感覚=個性」という措定の仕方はかなり危ういと感じます。
     個性(内的感覚)を信ずれば信ずるほど、実際に外がわに出力されたところの、表現どうしの差異は縮まってゆく。なぜなら、表現媒体じたいの研究がなおざりにされるから。

     一応こまかい点にも反論しておきますと、僕は《「個性」は主観を逸脱しない幻想である》と述べている心算はなく、「個性」は結果から類推される原因である、と考えており、何ら結果という果実をもたらさない原因としての「個性」は幻想ではないか、とついでに述べている次第です。
     また僕は《「個性」の希釈と淘汰》を期してはおりません。表現以前の個性を互いに容認し合った(何ら結果をもたらさないにも関わらず、その人のなかに何かしら不活性の原因があるかのように互いに認め合った)結果、表現媒体そのものへの関心が薄れ、研究が等閑に付され、逆説的に表現に占める個性的な部分が希釈されてしまうことを危惧しているのです。
  • かいまさん

     結果としての作品群があるので、僕は原因としての純文学のイデーを信ずることができます。ところが、その場を占める大半の人が、原因としての個性のなかに閉じこもって結果としての解釈を明かさない場合――結果としての解釈群がともなわないので、僕は原因としての個性を信ずることができません。
  • 朝尾様

     例によって返事が大変遅れてしまい、申し訳ございません。精読いたしまして、朝尾様の御返事に大まかに同意する処です。

     我々は五感に依ってのみ世界を認知しますから、同じくして、その表象がなければ、我々の解釈もあり得ないでしょう。エクリチュールとして表出する結果が無ければ、まるで死体のない殺人です。そこに探偵の出番はありません。文壇に於いても、エクリチュールなくして批評は生まれませんし、読み手も沈黙せざるを得ないでしょう。もし語ることがあるならば、それこそ朝尾様が仰る「ありもしない幻想」の肥大でしか無いでしょう。朝尾様と私の差異は恐らく、目的でありましょうか。朝尾様は言語への絶対的な信頼のもとで、定着したエクリチュールから個性を探りますが、私は個性の存在を前提に文を頼るのです。後者に於いては、怠惰な為体からよるものと自覚ある処であります。

     言語という論理構造(文法)にのったラベル(語彙)の総体について。言語は、過去にヒトがひとつひとつ単語を設けて、文法にのせる手法の事であり、文学を嗜む者であれば過去を訪ねる事で、それらラベルやその連体(表現)についてを蒐集し、新たな作品を創る(朝尾様に云う綜合)にあたると考えております。過去を訪れるを怠ると、何れも同じラベルばかりの並ぶ大量生産時代へと陥ることでありましょう。

     「自らの感覚と文を過信した無自覚さに、その落ち度がある」とは、つまり、未熟な自分を認めつつ、過去を訪ねるを厭わぬ静粛さに、私自らにあるべき誠実さと定めた次第であります。つまり、文学の過去を訪れるを怠らず、個性を表象せんと努めることが私の不足であると感じているのです。

     朝尾様の仰る通り、測りとしての個性はあれど、個性を客観的に測量する手立として、文字が必須である事は、私も強く旨としております。語る処、朝尾様と私は必ずしも等しい立場と言えずとも、文学への姿勢については、全く同じくしていると感じました。
  • かいまさん

     ここで意見が割れるとは、ちょっと意外でした。たしかに、かいまさんは個性の存在を前提としており、僕は、表現されなかったところにこそ何か貴重なものが隠されている=大切なことは言葉では言い表せない、という弁解の余地を残さないために個性の存在を認めておりません。

    かいまさんの見方:

    肉体的差異 = 内的感覚の差異 = エクリチュールの差異
     ↑個性      おのずから流露↑

    僕の見方:

    肉体的差異 = 内的感覚の差異 // エクリチュールの差異
           表出せんとする努力↑     ↑個性

     表現以前の個性、表現以後の個性というものに、僕は今僕が(ちょっと何となく気に入らなくて)槍玉に挙げている「言語に先立つイメージ」「言語表現‐後も温存されるイメージ」と似た構造を看取しましたので、少し拘泥してしまいました。かいまさんとの意見のちがいがはっきりできて、よかったと思います。

     とは言えたとえ《言葉は受け手によって万化》するとしても、解釈は《受け手によって万化》するとは言い切れないだろうと思われるのは、以下の場合です。

    Q.三島由紀夫「金閣寺」第五章にA.永遠に化身した瞬間、B.瞬間に化身した永遠、とあるが、これは具体的に何を指しているのか。(100人が回答)

    A=実在性、B=反復可能性   …… 3人
    A=経験、B=イデア      …… 1人
    A=肉体の快楽、B=観照の快楽 …… 1人
    わからない・無回答      …… 95人

     さてこのとき、解釈は何通りであるか。
     解釈は100通りである=解釈は万化する、と言えばかなりリベラルな発想であり、解釈は3通りである、と言えば現実的でしょう。数パターンの回答しか得られないのだから、事程左様に解釈は少ないと僕は考えております。
     そもそも解釈とは、言語化のプロセスを経てはじめて形成されます。仮にわからないと答えた95人のなかにも潜在的な解釈が眠っているとしても、そもそも、言語化のプロセス=表出しようとする努力に取りかからなければ、「彼等自身にとってすら不鮮明で不確定なもの」の領域から、一歩も外へは出られないでしょう。僕はそうした表出しようとする努力すらしない人のなかにも解釈の存在を認めることには、あまり乗り地ではありません。
  • 朝尾様

     我々の相違について明確に図式化して頂いて、再考が捗ります。ありがとうございます。

     朝尾様は「解釈の万化」が、沈黙と云う表現の放棄の盾として扱われる事を危惧されて居るのかと思います。このことに関しては、私も共感する処でありますが、私の立場はやや比較文化論的視点に近しいものであったのでしょう。

     現代に於いて、文学研究では、他の文学作品や他学問の研究領域の知見(尺度)をかりることで、より総体的かつ包括的な検討の試みがなされ、そう云った方法論が一般的とされております。例えば、私の露文や仏文への批評に於いては、他文学者や哲学の内容を跨いで推敲させて頂きました。

     朝尾様は具体に、三島由紀夫『金閣寺』の五章を引いて実証論的に有限な解を指して下さいましたが、私からすれば、『金閣寺』中のどの文脈に着目し、それをどの立場・視点から研究するか、に於いて学術的個性が発現するものと考えております。研究には無制限の余地があり、つまり解釈に十分と云う状態があり得ないと思う処なのです。各々の斜光が、作品のどのパースペクティヴに当たるかを検討しつつ、正体を「捉え続けようとする試み」そのものが文学の神髄である、と信じて居るのです。

     然し一方で、朝尾様の仰る「95人の沈黙」が文学界に於いては、存在しないも同義であり、それは私の云う様な本来の「多様性」から乖離し、内的感覚だけを頼りに測量を行う傲慢さと惰性による、文学への冒涜でありましょう。

     こう云った病理がカクヨムのみならず、文学プラットホーム内で流行して居ることは、私も強く自覚する処であります。朝尾様の問題意識は、私の様に無責任に放棄するでもなく、全体としての解決を図り、行動する胆力に裏打ちされたものであると感じます。心より尊敬いたしております。
  • かいまさん

     解釈がコンテクストの切り出し方からはじまっていて、そこにすでに個性の閃きがあるというのは、たしかにそうですね。しかしそれにしても、如何せん、解釈は能動的な働きかけであり、それ自体創造的な行為ですから、すべての人が何か受容するときの、受動‐感官における万化、と同列に扱うことはできませんね。

     かいまさんと僕の考え方のちがいがこうして明確化されたのも、もとはと言えば、お互いに言語化のプロセスを経て表出し合ったからだと思います。そこには相反する部分と同時に、溶け合う部分もありました。
     もし最初ッから「僕には僕の」「私には私の考えがある」と言って、考え方を言語化して表出し合いさえしなかったら、自分の考えが他者の考えと大部分において溶け合っていることすら、知らずに終わります。考えとして形すら成さない不定形なものが“多様性”という括りでパッケージングされ、人々は大部分において溶け合っているそれを後生大事に抱え、他者の考えを排斥=自分の考えを言語化以前のオリジナリティに押しとどめようとしています。
     しかし、言語化以前に彼等が抱え込んでいるものは、考えとすら呼べないアメーバのようなもので、“多様性”という言葉は彼等の言語化のプロセスを猶予し、彼等を堕落させます。
     “多様性”という概念がもたらした病理はかくも深刻なものですね。
  • 朝尾様

     受動-感覚に於ける万化は、アイデアらしい発想そのものに結び付けられたものかと感じております。作中のどの文脈に焦点を当て、解釈を行い、言語化する。この一連性には、根幹たるアイデア(パロール的イデー)の存在が不可欠でありましょう。

     作品に於ける無際限の潜在性のどのパースペクティヴに着眼するかの由来は、個々人のナラティヴや思考性など様々に万化するでしょうが、それこそが解釈の総体化の足掛かりとして役立ってくれると考えております。

     然しその際に留意すべきは、やはり真実を捉えた気にならず、自らのアイデアやコンテクストに慢心せず、他の学論や他者の批評を分析し、より明瞭で多面的な理解を目指そうとする試み、にこそ文壇にあるべき態度であると感じます。

     朝尾様は、コンテクストからのみ、ヒトは読むことが出来ると云う信念のもと、言語化以前のアイデア(またその流露)を不信と感ずるのでありましょう。これは尤もでありますが、やはりコンテクスト自体も万別であり、言語化に際しての配慮さえ伴えば、光りたつ個性も表象してきます。

     自身のアイデアを過信せず、その部分に於いて広く人々と共有される自覚をもち、伝える工夫を怠らぬ姿勢にこそ、私は文学者の面立ちを見出すのです。

     朝尾様も、私の正体を見出そうと、私の拙い文節から読み取って下さりました。常に他の個性の様態に意識をもち、自身の見解を含めて検討して下さる態度は、まさしく文学者でありました。短絡的な会話ではなく、このエクリチュールによる精神的交差が、文学としての愉しさでありました。

     「多様性」と云う言葉を隠れ蓑に不定形の群像が正当化されるのは、看過できない所存でありますが、一方で拙くともアイデアに思い上がらず、方々に耳を傾け、研磨せんと努力する方へは、尊意をもって読んでゆきたく思います。
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