ここのところ、人称と視点の問題について考えているのですが。
某人気企画主さんの某紹介企画の連載で、一人称から三人称への切り替えについて触れてたので、応援コメで毒吐いてしまいました(テヘ)
小説の書き方が適当で何でもありになってる現状は、ここでヨムヨムしていてわかっては来ました。もはや方法論だけでは説明しきれない手法が当たり前になってしまってる。それは「手法」として認めて良い物なのか? 本当に必要で使っているのか。
新しい技法はどうして生まれるのか? それは基本の力を身に着けたうえで、既存のものの限界を知ったうえで、それでも上へ上へと目指すから編み出されるものではないのか。
そう前提を置いたうえで、問題としたいことを上げていきます。
(1)同一作品内での人称の切り替え。一人称→三人称。
これは既に二十年以上前、ティーン向けの文庫レーベル(ライトノベルとは敢えて言わない)でも何人かのプロ作家さんがやっちゃってました。
傾向として、主人公の一人称でライトに始まった物語がどんどん重くなっていき、登場人物の数も増えて一人称視点ではさばき切れなくなったから、それ故の苦渋の選択っていうのが見えました。長編ゆえの見通しの甘さがあったのではないかと思われる。止むをえず、ですね。物語をまとめるためには仕方なかったのかなと。苦慮の末の選択であるなら仕方ないかな、読者により楽しんでもらうための選択ならありだと思えます。
〈三人称〉なんてト書きが入ってるのは、苦渋の選択だったのだな、と思えたりします。
そうではなくて、構成の段階から人称の切り替えを取り込むのはどうなのだろう? 読んでてどう思いますか?
私ははっきりと混乱します。主人公の一人称視点の物語を読むからには、当然主人公の気持ちに寄り添って読むわけです。それなのに突然主人公の視点から切り離されてしまったら。おいてけぼり感満載です。集中力が途切れてしまいます。その危険を冒してまで書き手が人称の切り替えを用いる理由が分かりません。
どうしても別視点による展開を一人称作品中に取り入れたいのであれば、完結した後に補完的に番外編をやるか、あるいは幕間として差し込めば良いのではと思うのです。
(2)一人称多視点(……ていうか、「三人称神視点」とか誰がこういうネーミングをしたんでしょう? さもこんな技法があるかのように名前をつけたりしたから当然になってしまったのではないかとも思えます)
すみません。一人称多視点というやつですね。
これは、リレー形式で主人公がバトンタッチして物語が進行していくのはありだと思います。その人物にしかわからない情報が次々に開示されていく。とてもスリリングです。
恋愛ものについて例を挙げれば、氷室冴子の連作『なぎさボーイ』『多恵子ガール』『北里マドンナ』は素晴らしかった。
古くは『嵐が丘』も一人称多視点てことになるのかな? 語り手の交代とまた聞きでの語りですね。おそろしく近代的な作品だったのですね。
……そうではなくて。特に恋愛もので見かけるのですが、男女の一人称視点が交互に入れ替わるの。あれのメリットっていったい何なのですか? 二人も三人もの一人称視点をころころ入れ替える。だったら三人称じゃダメなのですか?
別ノートで人称の長所短所について油布さんがまとめてくれました。拝借します。(油布さん(Han Luさんも)事後承諾ですみません)
一人称の利点は、徹底的な感情移入と自己同一化、作者の心と作品の一体化、読者の感情移入が容易なこと。欠点は使えるカットが限定されること。そしてこうも云われてました。
「視点だけでなく、価値観がひとつに安定すること。例えば主人公が見守るキャラクターが必然的に変化し、成長していくこと。それをブレない視線で身近に、温かい視線で描けるのが一人称小説の利点でもあります。」
三人称については、
「三人称小説の利点は、すべてのカットを描ききれることです。主人公以外の人物の視点が必要条件の小説なら、そのスタイルで書くべきです。
欠点は感情移入する作品に仕上げるのが難しいことです。しかし、これは絶望的な欠点ではありません。恐ろしく困難ですが、そのような作品を書くことは可能です。」
そしてまとめ
「結局両方とも著しい欠点と利点があって、欠点を克服することは不可能ではないとしても恐ろしく困難。それが実情であると思います。
だから題材によって、その利点を最大限に生かす手法を選ぶ。手法を選択した場合、欠点を克服するように最大限の努力をする。それが必要であると個人的には思っています。」
私も同意見です。自分の表現したいことに合わせて手法を選ぶ、そして最大限に努力する。それが前提です。
一人称多視点というものを安易に使ってやしませんか? 長所を寄せ集めたもののように思いますか? 確かな力量のある作家であるなら、それぞれの長所を最大限に活かしてものすごい傑作を生み出すかもしれません。
そうでなければ、それは裏を返せば短所の寄せ集めです。一人称の感情移入というメリットを多視点というバラツキでダメにしてませんか? 人称や視点の問題ちゃんと考えてますか?
特にweb小説においては読者に優しく、読みやすくということがしきりに叫ばれてます。それって文章の簡略化や空白を開けるのだけが焦点ですか? 文章をやさしくやさしくって主張する人は多いけど、人称や視点について触れてる人は、私が知る限りほんの一握りです。
読者が混乱せずに作品の世界にのめり込むには、視点の問題は大事じゃないですか。なのに何故議論されないのか。難しいからじゃないですか? 文章の簡略化ばかりに終始して視点の問題は置き去りにする。それは書き手の都合じゃないですか?
私だってホントは触れたくない問題です。面倒ですもん。頭が痛くなる。だけど、活字文化の衰退の原因が書き手の怠慢にもあるのなら、きちんと考える必要があります。
文章や視点の問題をクリアして、より読まれやすく、それでいてクオリティは落とさないエンターテイメント作品を作り上げる。そのためにみんなで考えたいです。
どうか、皆さんの意見をお聞かせ下さい。