牛若は清盛によって処刑されたのである。常磐の息子だった牛若は、常磐が清盛の娘を産むと、清盛の妻・時子は許すことができず、清盛を問い詰めた。
時子は微笑みながら清盛に牛若の処刑を言い渡す。時子の言い分は国家権力を預かる者として子供たちに憎しみの感情を抱かせてはならないとのこと。
常磐と清盛の娘は廊の御方と言われる。それは清盛が常磐を一条長成に預けたからだ。そして娘は長成の子供として義子と呼ばれた。牛若は重盛によって斬首されたのだ。それを命じたのは重盛の母、時子であった。
時子は兄妹で源氏と平家に分かれ争うことを憂いた。時子は牛若が頼朝のようにならないことを望んだ。頼朝を生かしておいたのは、清盛の生涯の不覚となったのだ。それは時子の力が池禅尼に及ばなかったからだ。清盛は平家の棟梁としては完成されてなく、先が読めてなかった。そして二位となった時子は重盛を清盛以上の棟梁とするため、牛若の処刑を命じたのだ。
時子、常磐御前、重盛の前に牛若が連れてこられる。牛若は数えで十歳にもならない幼子であった。手をうしろに縛られ泣く猶予もあたえられずに、ひざまずかされた。時子は重盛に牛若の父である義朝の形見の短刀で首を斬らせた。返り血を浴びた重盛の形相は、泣いた赤鬼のようだったと語られている。