日記は続かない。
曖昧に繰り返す日常を記す習いは、どうも生活の一部にしようとすると上手く滲んでくれない。
読書記録は割と。
不定期に本を一冊読み終わる毎に書き連ねている読書記録(大江健三郎に感化されて始めた)は、生活の浮き沈みも遺してくれる。心体のどこかに支障をきたしている時は、本を読むことができない。毎朝本は手に取るのだけど、どうにも網膜に字面だけが滑っていくことが多々ある。そういう日は諦めて外を眺めるのだけど、何も見ていない。
私は紙とペンが好きだ。高校からパソコンを手に入れて、授業中の板書やレポート、論文の執筆にはワープロ(死語?)を使うのだけど、何も見ていないような感覚に陥る。結局、勉強には白紙の紙とペンを使うし、Kindleで本を読むのは諦めた。
小説を読むということは、死者と対話することである。でも、ページを繰ることで、死の世界は確かに動いている。行間を読むというけれど、私たちは「あわい」で生きて、その「あわい」のズレを遺し、認識するのだろう。「あわい」を揺らす生き方をしたい。
突拍子もなく思ったことを書いた。論理の飛躍も人の性だと信じる。