こんばんは。通院モグラです。
異世界ファンタジー、書いてみたいけど全然設定が練れないや…と思いながら、夢オチだったらなんでも許されるという愚かな発想で生まれた小話です。
仕事に疲れ切った30代独身女がでかいもふもふに癒される話にしようと思ったのに、微妙に違う感じになってしまいました(笑)
一夜の夢のお供にどうぞお楽しみください。
◤Eden/異世界編
「徹夜明けに狼犬を拾ったと思ったら夢だった件」◢
ベッドに倒れ込んだ瞬間のことは、よく覚えていない。
白衣のまま靴も脱がず、ポケットの中ではペンライトと駄菓子みたいにしわくちゃになった栄養バーが腿に当たっていたはずだった。ナースステーションの灯りがまだ脳の裏に焼き付いていて、モニター音が耳の奥でぴ、ぴ、と亡霊みたいに鳴っていた。
徹夜。連続。何時間寝てないのかも数えるのをやめた頃だった。患者の顔とカルテの文字と血液ガスの数値が、もうほとんど雪みたいに混ざっていた。
だから、目が覚めたとき最初に見えたのが、空だったのも無理はない。
天井じゃなかった。白くも青くもない、薄く灰を溶いたような空が、やけに低く頭上へ垂れていた。雲が近い。風は冷たいのに、湿っていない。草の匂いと、石の匂いと、獣の匂いがした。
「……は?」
声が出たので、自分が死んではいないらしいことだけはわかった。
身体を起こす。背中にあったのは病院のベッドじゃなく、乾いた苔の生えた地面だった。周囲には見たこともない白灰色の岩場が連なっていて、その隙間を、背の低い針葉樹みたいな木々がねじれて立っている。遠くには黒い尾根。さらにその向こうは、霧。世界がまだ完成していないみたいに、曖昧な輪郭で沈んでいた。
「えっ、ちょ、なにここ。無理無理無理。搬送依頼出して。誰か。トリガー? エデン? 聞こえてたら返事して。ねえ、冗談でしょこれ」
返事はなかった。
代わりに、すぐ後ろで、ふす、と重い鼻息が聞こえた。
ハンニバルは飛び上がるように振り返った。
そこにいたのは、狼だった。
いや、犬だった。いや、やっぱり狼だった。犬の顔をしていない。けれど完全な野生の狼とも違う。灰白色の毛並みは、雪と煙を一緒に梳いたみたいな色で、肩までの高さがハンニバルの胸を超えている。頭がでかい。脚が太い。目は薄い金色で、じっとこちらを見ている。耳はぴんと立ち、尾は低く静かに揺れていた。
「…………」
「…………」
「えー……。噛む?」
狼犬は一歩、こちらへ寄った。
「待って待って待って待って、そういうの確認してから来て。初対面の距離感じゃないって」
さらに一歩。
ハンニバルは咄嗟にその場の石を握ったが、投げる前に、巨大な鼻先が彼女の膝にぐり、と押しつけられた。
冷たい。重い。湿った鼻が遠慮なく白衣に押しついて、次の瞬間には全身の体重でぐいぐい甘えてきた。
「うわっ、うわ、え、ちょ、重っ……! おっき! でかい! でかすぎるって!」
立て直そうとした体勢のまま押し倒され、ハンニバルは草の上にひっくり返った。狼犬はその上からのしかかるように胸元へ顔を突っ込み、髪や頬や首筋を容赦なく舐め始めた。舌がでかい。熱い。ざりざりする。
「やっ、ちょ、やめっ、冷た、くすぐった、あはは、待って待って待って! 患者さん! 患者さん暴れてます! 保定! 誰か保定して!」
誰もいないので自分で巨大な頭を抱え込むしかなかった。
首元へ回した腕の下で、狼犬の喉が低く鳴っていた。まるで遠雷みたいな音だった。威嚇じゃない。安心しきった獣の、満足そうな振動だった。あまりにもまっすぐ懐かれていて、逆に意味がわからない。こっちは初対面だ。そっちは違うらしい。昔から知っていました、みたいな顔でぴたりと寄り添い、鼻先で腹や手を押してくる。
「……なに。私、前世で肉でもあげた?」
狼犬は金色の目を細めて、もう一度喉を鳴らした。
結局その日から、旅が始まった。
どこへ向かう旅なのか、ハンニバルには最後までさっぱりわからなかった。ただ、狼犬は必ず彼女より半歩前を歩き、ときどき振り返り、ついて来いと言うみたいに耳を動かした。立ち止まれば待った。転びそうになれば肩を差し出した。夜になれば風下じゃなく風上に伏せ、焚き火の代わりに巨大な体温をくれた。
白灰色の大きな塊がすぐそばにいるだけで、妙に心が静かになった。
ああ、かわいいな、と思った。
でかい。野生。圧が強い。明らかにそのへんの病院に持ち込めないサイズ。なのに、時々する仕草だけが犬なのだ。水辺でこっちを振り返って、飲んでいいぞ、みたいな顔をしたり。岩場を越えた先で花みたいな青い木の実を見つけると、食べられるかどうかわからないくせにわざわざ運んできたり。眠れない夜には、鼻先で肘をつついて、こっちが毛の中に手を埋めるまで動かなかったり。
「……はいはい、わかったわかった。撫でればいいんでしょ。甘えん坊かよお前」
毛は見た目より密で、指を沈めると下のほうは驚くほどあたたかかった。頬を埋めたくなるような冬毛だった。耳の後ろを掻いてやると、長い体が少しだけ崩れて、満足そうに息を吐く。そのくせ、気配が変わると一瞬で立ち上がる。やわらかさの下に、張り詰めた鋼が入っているみたいだった。
その緊張が本当に獣じみて発揮される瞬間を、ハンニバルは旅の三日目で知った。
渓谷みたいな裂け目を迂回していたときだった。霧の中から、鹿に似ているのに鹿じゃない、肩の高い黒い獣が現れた。角が多すぎた。肋骨のあたりが不自然に盛り上がって、口の端から妙に長い歯が覗いていた。飢えている目だった。
ハンニバルが「うわ」と言ったときには、狼犬はもう前に出ていた。
喉の奥で鳴った音が低く、地面まで震えた気がした。
「待って、待って待って、喧嘩しないで、話し合お?」
無理だった。
黒い獣が飛びかかる。灰白色の巨体がそれを横から弾く。ぶつかった音が骨に響く。草が薙がれ、霧が巻き上がる。牙が閃く。前足が抉る。あっという間だった。あまりにも大きい生き物同士の殺意は、外科じゃなくて災害に近い。
「ギャー! やだやだやだ、ちょっと、ストップ! ストップって言ってるでしょ!」
当然止まらない。
狼犬は相手の首元へ食らいつき、そのまま地面へ組み伏せた。黒い獣が暴れ、後肢で腹を裂こうとする。ハンニバルはそこらの枝を拾って駆け寄り、本気でどうにかなると思っていないのに叫んだ。
「こらー! 離して! 離しなさいって! 食べるな! ダメ! そういうの病気もらうから! あと後味悪い!」
狼犬が一瞬だけこちらを見た。
その顔に、微妙な不服そうな色があった。
「何その顔! こっちはお前の衛生管理も担当なんだよ! 勝手に野良肉を口にするな!」
言葉が通じるはずもないのに、狼犬はほんの数秒あと、首から牙を外した。黒い獣はもうほとんど動かなかった。霧の中へ血の匂いがじわっと広がっていく。狼犬は喉元を真っ赤にして立ち、まだ呼吸の荒いまま、褒めてくれと言いたげにこちらへ寄ってきた。
「褒めないよ! 全然褒めない! こわっ……。いや助かったけど! 助かったけど怖っ!」
そう言いながら震える手でその頬を掴んでしまうあたり、ハンニバルもだいぶ慣れていた。
そして狼犬の左肩には、三本、深く爪傷が入っていた。
「……は?」
さっきまで自分の心拍数しか聞こえていなかった耳に、血が落ちる音が急にはっきり入ってくる。灰白色の毛が、裂け目の周りだけ暗く濡れていた。
「ちょっと待って待って、怪我してるじゃん! 馬鹿! えっ、深い? 深いなこれ、縫う? 縫うレベル?」
狼犬は何でもないみたいに首を振ったが、その動きでさらに血が散った。
「動くな! 動くなって言ってるでしょもう!」
そこからが大変だった。
まず保定が難しい。でかい。力が強い。痛いことをされる予感には鋭い。ハンニバルが裂けた毛を掻き分けて創部を見ようとしただけで、耳を伏せ、鼻に皺を寄せて後ずさる。唸りはしないが、全身から「いやだ」が出ていた。
「嫌じゃない。嫌だけどやる。はい、こっち来て。来なさい。先生怒るよ」
狼犬は二歩下がった。
「怒るよ、ほんとに」
さらに半歩下がった。
「よーしわかった、そういう態度ね。じゃあ私も医者としての優しさを捨てる」
ハンニバルはにっこりして、荷物代わりに背負っていた不思議な革袋から、旅の途中で集めた布、針、糸、煮沸済みの小刀、よくわからないけど消毒に使えそうな強い匂いの透明液を並べた。
「選びなさい。大人しく処置されるか、押さえつけられて処置されるか。どっちも処置はされる」
狼犬はじっと見ている。
「あと、逃げたら追いかけるからね。お前あんだけでかいのに、なんで注射前の五歳児みたいな顔するの」
結局、処置は半分格闘だった。
まず前脚に腕を回して体重をかけ、首元を抱え込み、膝で肩を固定する。巨体がびくっと震えるたびにハンニバルの細い体がぶれる。耳元で低い唸りに似た不満の音が鳴る。息は熱い。筋肉は岩みたいに硬い。痛いのを堪えているのがわかる。暴れないだけ偉い。だがじっともしない。
「えらいえらい、でも動くな! そこまでいったら我慢しろ! はい、洗うよー。しみるよー。しみるっていうか絶対痛いよー」
透明液をかけた瞬間、狼犬は全身を跳ね上がらせた。
「だよねー!」
ハンニバルも一緒に揺れた。
「知ってる! 痛いよね! でも汚染創放置のほうがあとで地獄だから!」
毛の奥の傷は思ったより深かった。爪が筋肉の表層まで掠っている。筋束の断裂はなさそうだが、周囲の組織損傷が広い。縫合するしかない。麻酔はない。説得も通じない。根性だけがある。
「よし。数えるよ。いち、に、で刺す」
狼犬が振り向こうとする。
「見なくていい! 見たら余計怖いから!」
針を通す。皮膚が寄る。熱と緊張で、ハンニバルの指先も震えていた。狼犬は喉の奥で悲鳴に近い息を漏らしたが、噛まなかった。ただ前脚で地面を掻き、尾をきつく巻き込み、耳を伏せて耐えた。
「そう、そう。そのまま。いい子。めっちゃいい子。偉い。偉いから終わったらいっぱい撫でる。肉はないけど褒めるのはある。ほら、もう一針」
そのたびに、狼犬の金色の目が横目で彼女を見た。
責めるみたいでもあり、縋るみたいでもあった。
その視線を受けるたびに、ハンニバルの胸の奥で何かが変にやわらかくなった。徹夜明けの疲労で麻痺していたはずの部分が、この奇妙な旅ではむしろよく動く。守られている実感と、守らなきゃいけない実感が、同時にある。でかい獣なのに。どう見ても自分より強いのに。怪我をされると嫌だった。血を見ると腹が立つ。傷を縫いながら、誰に対してかわからない怒りがじくじく湧いた。
「……次、私の前で怪我したら、相手のほうじゃなくてお前を叱るからね」
狼犬の耳がぴくりと動いた。
「聞いてる? 助けてくれるのは嬉しい。めちゃくちゃ嬉しい。でも、怪我したら嫌なの。わかる?」
意味がわかったのかは知らない。ただ、最後の結紮を終えて手を離すころには、狼犬は不思議なくらい静かになっていた。鼻先をそっと彼女の手首へ押しつけ、処置で汚れた指を、今度は遠慮がちに舐めた。
「……ん。よし。許す」
その夜、焚き火の代わりに寄り添って眠った。
風は尾根を越えて笛みたいに鳴いていた。空には月が二つあった。ひとつは青白く、もうひとつは欠けた骨みたいな色をしていて、現実じゃないことを思い出させるには十分だった。けれど狼犬の腹に頬をつけていると、そんなことはわりとどうでもよくなった。規則正しい呼吸。胸郭の広がり。毛の下を流れる血の温度。生きている大きなものは、それだけで毛布より安心できる。
「ちょっとだけ思う。ここ、嫌いじゃないかも」
狼犬の脇腹が、ゆっくり上下した。
「お前がいるからだけど」
それからも旅は続いた。
灰色の森を抜け、ひび割れた白い湖底を歩き、空に浮いているみたいな石橋を渡った。時々、妙に美しい場所へ出た。花が咲いているのに匂いがなく、川が流れているのに音だけ遅れて届く場所。そんなところでは狼犬も警戒を解いて、水辺に伏せてこちらを見ていた。ハンニバルが靴を脱いで浅瀬へ足を入れると、冷たさに悲鳴を上げるのを面白がるみたいに、鼻先で脛をつついてきたりした。
「押すな! 落ちる!」
ざばん、と派手に転ぶ。狼犬がぎょっとした顔をする。次の瞬間には、水の中へまで入ってきて引っ張り上げようとする。その必死さが可笑しくて、ハンニバルは腹を抱えて笑った。
「っはは、ちょ、濡れる濡れる、お前も濡れてる! 何その顔、私が溺れるわけないでしょ浅いんだから!」
狼犬は納得いかないらしく、びしょ濡れのまま岸まで彼女を押し戻した。
夜にはまた、寄り添って眠る。
朝になると、鼻先で起こされる。
大きな獣に世話される生活なんて、現実なら絶対に成立しない。なのにここでは成立してしまう。成立してしまうから、だんだん、自分の中の疲労のかたまりがほどけていくのがわかった。何日も張り詰めていた背中が緩む。誰かの呼吸を確認しなくても眠れる。呼ばれなくても起きなくていい。血圧もSpO2も時間も責任も、いったん全部、霧の向こうへ置いていける。
そのかわり、獣は来る。
巨大な鳥。足が異様に長い狐。岩の割れ目に潜む、毛のない四肢の生き物。どれもこちらを獲物として見る目をしていた。そしてそのたびに、狼犬は前へ出る。風向きが変わる前に気づき、耳の角度ひとつでハンニバルを背後へ追いやる。守るという行為が、呼吸みたいに自然だった。
「ちょっと待って、ちょっと待ってってば!」
それが始まると、ハンニバルは毎回同じことを叫ぶ。
「殺しすぎ! 食べるなって! あーもう口拭くからこっち来て! 待ちなさい! やめなさい!」
医者なのに、戦闘後の大型犬の口周りを拭く係になっている。どうしてこうなったのか。
しかも、狼犬はだんだん賢くなった。ハンニバルが本気で怒ると、少し離れたところで座る。耳を伏せる。目だけ上目遣いになる。反省してます、みたいな顔をする。絶対わかってやっている。
「その顔やめて。かわいいから怒りづらい」
しっぽが、どさ、と一度だけ動いた。
「反省してないでしょ」
どさ、どさ、と二回動いた。
「してないなこれ」
それでも傷つけば処置する。
裂けた耳。噛まれた前脚。脇腹の浅い擦過傷。どれも処置のたびに嫌そうな顔をした。だが逃げなくなった。ハンニバルが「見るだけ」と言えば、見るだけのときもあると学習した。洗浄の前には眉間を撫でれば少しだけ落ち着くこともわかった。耳の後ろを掻きながら「はいはい、すぐ終わる、あと二針」と言うと、諦めたように寝そべる日もあった。
「成長してる……えらい……。患者教育って大事だねえ」
狼犬は迷惑そうに鼻を鳴らしたが、頭は膝に乗せたままだった。
そんなふうに、忙しないのに奇妙に穏やかな旅が続いて、ある朝。
ハンニバルは、また目を覚ました。
今度は見慣れた天井だった。
病室ではない。自室の天井。白い塗装の、端に細かいひびがあるやつ。カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいた。遠くで救急車のサイレンが鳴っている。空気は消毒液とコーヒーと紙の匂いがした。現実が、何事もなかった顔でそこに戻ってきていた。
「……あ」
自室のベッド。脱ぎ捨てた靴。積んだ書類。世界は何事もなかったみたいに、元の場所へ戻っていた。
夢。
そう思うには、感触が残りすぎていた。指先がまだ毛を覚えている。腕の中にあの重さがある。頬に、ざりざりと舐められた感じまで残っている気がする。
「……夢、かあ」
起き上がろうとして、ハンニバルはふと動きを止めた。
ベッド脇の椅子に、エデンがいた。
無言のまま背筋を伸ばして座っている。片手には未開封の水のボトル。もう片方には、いつの間にかまとめられていたハンニバルの書類の束。完全に、徹夜明けで倒れた上官の管理をする顔だった。
ハンニバルは寝起きのぼんやりした目で彼を見た。
「……エデン」
「はい」
「いた」
「います」
あまりにも当然の返答だった。
そこで終われば普通だったのに、まだ夢の余熱が残っていたせいで、ハンニバルの身体は勝手に動いた。
夢の内容はもうひどく曖昧だった。ただ、あたたかくて大きくて、耳の後ろを掻くと落ち着く何かがいた記憶だけが、感覚として残っていた。
だから彼女は無意識に手を伸ばした。
「……ん」
「?」
エデンの頭の横へ、ふらりと。
髪の上の、何もない空間へ。
指先が宙を探る。何か立っているはずの場所を、確かめるみたいに撫でる。付け根の感触を探すように、そっと。
エデンが固まった。
「……少佐」
ハンニバルは聞いていない。半分閉じた目のまま、今度は反対側にも手を伸ばす。空を撫でる。何もない。なのに、そこに耳がある前提で動いている。指が小さく掻く。寝惚けたまま、ひどく真面目な顔で。
「……あれ」
エデンの困惑が、目に見えて深くなった。
「少佐。何を」
「……耳……」
「耳?」
「んー……」
ハンニバルは眉を寄せた。夢の輪郭がもう崩れかけている。なのに手だけは納得していないらしく、今度はエデンの後ろへ回そうとする。腰のあたり。背中の下のほう。何か太くてふかふかしたものがあるはずの位置を、ためらいなく探る。
ぴたり、と空気が止まった。
エデンの身体がわずかに強張る。
「……少佐」
「……しっぽ、どこ……」
「しっぽ」
「え、あれ、ない」
「ありません」
「うそでしょ」
「ありません」
寝起きのハンニバルは、そこで初めてしっかり目を開けた。
目の前には、灰白色の巨大狼犬ではなく、いつものエデンがいた。長身。無表情。琥珀色の目。律儀に座ったまま、しかし明らかにどう反応していいかわからない顔をしている。頭の横を撫でられ、背中の後ろを探られた青年の顔だった。
数秒の沈黙。
「…………」
「…………」
ハンニバルはゆっくり手を引っ込めた。
それから、自分の顔を片手で覆った。
「……ごめん。たぶん今、すごい寝ぼけてた」
「……そう、見えました」
「夢見てた気がする」
「はい」
「なんか、おっきい犬? 狼? そういうのがいた気がする」
「……はあ」
エデンは相槌を打ちながらも、まだ微妙に警戒していた。再び耳を探られる可能性を捨てきれていない顔だった。
ハンニバルはその顔を見て、数秒後、堪えきれず吹き出した。
「っ、あは、ちょっと待って、やば……その顔なに……」
「……困っています」
「だよね! 知ってる!」
肩を震わせて笑うハンニバルに対し、エデンは本気で困惑していた。困惑しながらも逃げない。上官が徹夜明けで壊れていることは理解しているから、たぶん耐えている。
「少佐」
「うん……」
「水、飲んでください」
「はいはい……」
差し出されたボトルを受け取って口をつける。冷たい水が喉を落ちる。そのあいだも、エデンの視線はどこか慎重だった。触られる前の動物みたいに、ほんの少しだけ身構えている。
それがまたおかしくて、ハンニバルは飲み終えたあと、ボトルを抱えたまま笑い混じりに言った。
「安心して。もう耳も尻尾も探さないから」
「……最初からないです」
「うん。でもなんか、ありそうだったんだよねえ」
「ありません」
「そんな即答しなくてもよくない?」
「ないものは、ないです」
妙にきっぱり言い返されて、ハンニバルはまた笑った。
笑いながら、けれど胸の奥には少しだけ名残があった。灰白色の毛。熱い体温。金色の目。守られた感覚。守った感覚。全部、もううまく思い出せないのに、指先のどこかだけがまだ知っている。
だからふと、手が動きかけた。
今度は本当に意識して止める。
そのかわり、ハンニバルはベッドの上からエデンを見上げた。
「……エデン」
「はい」
「ちょっとだけ」
「?」
「頭、撫でてもいい?」
エデンは一瞬、完全に止まった。
さっきまで耳を探られていた男の警戒としては当然だった。だが断らない。断れないというより、断る理由を探しているうちに遅れた、みたいな沈黙だった。
その隙に、ハンニバルは手を伸ばした。
今度はちゃんと、何もない空間じゃなく、彼の髪へ。
灰色の髪をくしゃりと撫でる。耳も尻尾もない、人間の頭だ。けれど指の下の温度はちゃんと生きていて、そのことがなんだか少しだけ嬉しかった。
「……ん。よし。いた」
「……何がですか」
「こっちの話」
エデンは最後までよくわかっていない顔をしていたが、撫でる手は振りほどかなかった。むしろほんのわずかに、されるままじっとしていた。だからハンニバルは、寝起きの掠れた声で笑って、もう一度だけその頭を撫でた。
そのあとでぼそっと、
「でも、絶対あったんだけどな。耳……」
と呟いてしまい、エデンに本気で一歩引かれた。