• 現代ドラマ
  • 歴史・時代・伝奇

アンヌ世界編年史、紀元前209年から205年夏まで

🎀「新たな秦王朝・長安変奏曲」資料 ー 補足としてまとめていたものを古代中華の資料として一つにしました。、https://bit.ly/49oDWJg
 アンヌ世界編年史、紀元前209年から205年夏まで
 https://x.gd/SffaO

アンヌ世界編年史、紀元前209年から205年夏まで

【紀元前209年~206年】
秦の咸陽を陥落させたが、それに項羽は激怒、なんとか言い逃れして命は助かる劉邦。
漢中王として巴・蜀・漢中の僻地を領地として与えられ、事実上の左遷。しかし、諦めない。
蕭何に推されて漢軍の大将軍になる韓信。
蜀の僻村尾頭村でアンヌと出会い、彼女を成都にお持ち帰り。

【紀元前206年8月、漢中】
韓信は「明修栈道、暗度陳倉」の策で項羽を油断させ、
劉邦が巴蜀漢中(関中ではない。関中は咸陽周辺)から出ないようにお目付け役となっていた三秦をたった三万人で攻略する。
※秦朝滅亡後、項羽が亡秦関中を三分して雍・塞(さい)・翟(てき)の三国とし秦の降将を封じた。
雍王章邯、塞王司馬欣、翟王董翳の元秦の将軍を王に封じた。
関中制圧後、旧秦兵や降伏者を吸収し、漢軍は急速に膨張した。
紀元前206年、10月、洛陽へ入城した劉邦は項羽の義帝惨殺の報を聞き、
声を上げて哭き、喪を発して三日間服喪、項羽討伐の檄文を諸侯に送った。
この檄は、項羽の不義を天下に喧伝する強力な大義名分だった。

【前205年春、洛陽】 👈️ 今ここで季節は1月。
前205年春、劉邦は洛陽に入城し、正式に項羽討伐を宣言。
洛陽入城直後、劉邦は自軍の基盤である漢中・巴蜀の直属兵、関中の旧秦兵、
そしてこれら降伏諸侯の兵を基に東進を開始。

【紀元前205年夏】
劉邦軍は、旧秦系諸侯の塞王司馬欣、翟王董翳、殷王司馬卬、西魏王魏豹、河南王申陽などを討伐、
趙の陳余が援軍を派遣し、張耳ら趙の勢力も協力、燕王臧荼らも日和見から参集へ傾いた。
諸侯が雪崩を打って参集し、漢軍は五十六万の巨軍に膨れ上がった。
漢軍連合軍は、項羽の主城、彭城に進撃した。

【紀元前205年夏、斉】
一方、項羽は斉の大地を血で染めていた。
田栄が反乱を起こし斉を再統一し、自ら斉王を称した。
項羽の進撃は容赦なく、斉の城を焼き払い、降伏した兵を生き埋めにし、老弱や婦女を捕らえて虐待した。
その時、彭城陥落の急報が項羽のもとに届いた。西楚の都が、劉邦の五十六万巨軍に占領された。
項羽は即断した。部下の将軍たちに斉の残党討伐を任せ、自らは全軍から精鋭を選りすぐり、
わずか三万の兵を掻き集めた。

【紀元前205年夏、彭城】
彭城を占領した劉邦の漢軍連合軍は、勝利の余韻に溺れていた。
城内の財宝を略奪し、美女を追い、日夜酒宴に興じる。
項羽の三万が彭城の西に到着したのは、夜明け前だった。
項羽自らが先頭に立ち、怒気の権化となった兵たちは、連合軍を一瞬で恐慌に陥れた。
誰も踏み止まる者なく、連合軍は東へ東へと潰走した。
項羽は追撃して連合軍を追い、十万余りを斬り殺した。
さらに南の睢水まで追撃を続け、追い詰められた連合軍は川に飛び込み、溺死者続出した。
史記は「死体が川を堰き止めるほど」と記す。惨状の凄まじさを物語っている。
劉邦は西へ逃れ、沛に立ち寄った。家族は故郷沛に留まっていたが、楚軍の追撃はすでに沛まで達していた。
劉邦の父劉太公と妻呂雉は、馬車で逃げようとしたが、楚軍の斥候に発見され、
楚兵は沛県の劉邦旧宅を包囲し、太公と呂雉を捕縛した。
劉邦は逃亡途中で長男劉盈と娘(魯元公主)に出会い、馬車に乗せて逃げた。
韓信は散逸した漢兵をまとめ、滎陽で劉邦と合流し、追撃してきた楚軍を迎撃、項羽の西進を初めて阻止した。
劉邦は関中へ退いて再起の機を窺った。

【秦末漢初の編年史: 始皇帝の死から呂雉の死まで】
① 紀元前210年
② 紀元前209年
③ 紀元前208年
④ 紀元前207年
⑤ 紀元前206年
⑥ 紀元前205年 👈️ 今ここで季節は1月。
⑦ 紀元前204年
⑧ 紀元前203年
⑨ 紀元前202年
⑩ 紀元前201年
⑪ 紀元前200年
⑫ 紀元前196年
⑬ 紀元前195年
⑭ 紀元前180年

コメント

コメントの投稿にはユーザー登録(無料)が必要です。もしくは、ログイン
投稿する