あまり面白いものではないかも知れないけれど、過去に私が書いた紙片をそのまま投稿させて頂きます。ご興味のある方だけ、御閲読ください。
・はじめ
現代社会において「結婚は人生の墓場」であると揶揄されることがある。恋愛の情熱が冷め、日常となることによる愛情の倦怠。更に性愛による欲求の減退と形骸化した関係性。配偶者との理解不一致による義務と犠牲の強要。確かに、結婚にはこのような場合に陥る可能性もある。それは自由による幸福ではなく、誓約による制約が自らを縛り付ける苦悩につながり、結果的に自己を破滅へと導くだろう。その主な原因は、結婚が愛欲を満たす場という誤解から始まり、この命題はトルストイ『アンナ・カレーニナ』『クロイツェルソナタ』にても明確に表されている。
・トルストイ主義(『アンナ・カレーニナ』より)
アンナとカレーニン、ウロンスキーの関係性は、社会的虚構に生きる欲望の暴走による精神的破滅による死である。これはまさしく「墓場」と表現される結婚の末路であろう。一方、本作で対照的な役割を担うレーヴィンとキティの関係性は、精神的尊重と信仰に基づく結合を目指し、幸福と再生による生活が表されている。しかし、ここでもある種の結婚による「墓場」が存在している。
先ずアンナ(また『クロイツェルソナタ』のポズドヌイシェフ)の「墓場」は、自身の欲望を満たすことを目的とするものであるのに対し、レーヴィン・キティは相手を尊重し精神的に結合することで相手と共により善く生きることを目的とする、愛と人格の実践の云わば「揺籃」である。またこの段階で、レーヴィンは自己中心性の死を、神への道程と位置付けており、それは神に仕える者としての生の肯定である。つまり不要な自我を埋葬し、両者の精神的結合による新たな自己意識(信仰と理性)の発芽が起こっている。この意味では自己中心性・一方的な欲望の「墓場」として結婚が機能すると示唆している。自我の死を以て、神の意志と合一するための試練というトルストイの理想主義的な見解が表されているだろう。
・ドストエフスキー主義
1. 『白痴』より
ムイシュキン公爵はトルストイ『アンナ・カレーニナ』レーヴィンの立場と似ており、キリスト的善と純潔を最重要に捉え、女性を「精神の光」として理想化している。この傾向はトルストイ自身に類似しているだろう。しかし、ナスターシャはアンナと同様、社交界の虚構と性愛に蝕まれており、魂の救済への欲動を起こし、激しい愛欲・自己破壊的欲望のもとムイシュキン公爵を巻き込んで堕落してしまう。ドストエフスキーはムイシュキン公爵、つまりトルストイ主義の理想愛と現実にある欲望の破綻を表している。自己中心的な欲望のない人間などいないという、トルストイの理想とする「純潔」よりも非常に現実主義的な罪の意識に基づいた当事者意識が介在している。
2. 『カラマーゾフの兄弟』
イワンは「神の正義」が疑問であり、子供の苦悩はキリスト的な絶対愛と正義に矛盾すると主張している。それに対して、ゾシマ長老やアリョーシャは人間の愛は神を信仰することでなく、隣人の罪を背負うことによって実現されると答えている。
「自分はあらゆる人々の前に、万事につけて、いっさいの罪、あらゆる人類の罪、世界の罪、個人の罪に対して義務を負うていると自覚した暁には、われわれの隠棲の目的が達せられるというものです」
「罪悪を許してやるのは、われわれが彼らを愛するからだ。その罪悪に対する応報は、当然われわれ自身で引き受けてやるのだ。そうしてやると、彼らは神様に対して自分たちの罪を引き受けてくれた恩人として、われわれをますます崇めるようになる」
つまりドストエフスキー的現実主義による見解では、罪を負わない人間は存在せず、愛の実践のためにはまず個々人が自身の罪を自覚し、それらを隣人同士で赦し合うという精神的対話の継続によって達成され、この相互補完の関係のひとつに結婚があたると『白痴』にて示唆している。ドストエフスキーに言わせれば、結婚は罪の「墓場」であり、贖罪に向けた道程であると捉えられるだろう。
・おわり
トルストイ主義とドストエフスキー主義を比較して「結婚は人生の墓場」であるか再構築を試みたが、その「墓場」の多様さがうかがえる結果となった。大きく二つの意図に分ければ、破滅と死を意味する「墓場」と新生と再生を意味する「墓場」となる。その中でも、後者の「墓場」はトルストイ、ドストエフスキーの間でも異なる見解がなされている。
トルストイ的理想主義の結婚は目指すべき境地、つまり神との結合であり、一度自己の欲望や自我を埋葬する「墓場」を経由する必要があると主張している。しかしこの主張には極限の理想化があり、現実味がないとドストエフスキーは『白痴』にて示している。
ドストエフスキー的現実主義によれば、結婚は罪の自覚、隣人同士の赦し合い(精神的対話の継続)が必要であり、罪の「墓場」として機能することが表されている。
このような理想と現実という両者の視点から、トルストイ主義による理想実現のための現実的なプロセスに、ドストエフスキー主義による贖罪と相互補完としての段階(結婚)があると考えられるだろう。しかし両者が同じく結婚の目的とするのは、自我の墓場、罪の墓場を経た後に存在する愛の揺籃とも云える新たな自己意識の形成と、信仰・理性に基づいた新生と再生そのものである。結婚は通俗的に理解される「墓場」ではなく、人生において新しく生まれかわるための「儀礼」である。