・はじめ
19世紀フランスでは復古王政、七月王政、第二共和政、そして第二帝政といった社会制度の大きな変遷のうちにあった。シャルル・ボードレール(1821-1867年)はその激動の時代において、新たな近代詩を確立させた。ボードレールの記した、時代によって改造されてゆくパリでは、伝統の解体と近代都市の整備の進む資本主義的な支配への道を進んでいた。そのなかで、彼が「詩」を通じて追及したのは、一体どのようなものであったのだろうか。本論ではボードレール『パリの憂鬱』(訳:富永太郎)にみられる彼の芸術と現実の関係性に基づいて考察してゆく。
・現実の忘却
「酔へ!」より
「絶え間なく酔つてゐなければならない。…酒でも、詩でも、道徳でも、何でも君のすきなもので。が、とにかく酔ひたまへ」
ここに云う「酔ひ」とは、単なる陶酔状態ではなく、「君の身体を地に圧し曲げる恐ろしい「時」の重荷」を忘却し、「時」に生きる苦悩から解放されるための精神的手段として描かれている。ここに表される避けるべき「時の重荷」とは、同作にて「王宮の階段の上や、堀端の青草の上や、君の室の陰惨な孤独の中」と主張されている。つまり忘却されるべきは、パリの憂鬱に包まれた「時」の巻き込む全土であり、我々に知覚される「時」に支配された痛々しい現実であるということである。このことに対して、ボードレールはその忘却の手段の一つとして「詩」を挙げている。本作では「酒」「詩」「道徳」を相対等価的に示していることからも、「時」を忘却するための手段として、「酒」「詩」を対等なものとして扱っている。しかし一方で「道徳」、つまり社会通俗的に構築される文化要素を挙げていることは、ボードレール自身が自著『悪の華』を出版後、社会的に非道徳な内容と批判されている件からも意外である。彼は、「酒」で肉体的な感覚を麻痺鈍麻させること、「詩」で文字に耽り精神感覚を鋭角に変化させること、「道徳」と云う単なる社会的枠組を謳うことが等しく同じであるということを、社会的現実を忘却するためのものという共通の目的の下に挙げている。つまり、ボードレールに云わせれば、「道徳」とは単なる虚構であり、現実とは本質的に無関係であるということではなかろうか。社会的に構築される文化要素であれども、現実とは無関係であるという主張は、等しく並べられている「酒」や「詩」にも適応されることであろう。「酒」「詩」「道徳」が現実の社会的に構成、迎合されていたとしても、それを行う主体からすれば現実を忘却するための手段として用いられることを端的に示唆している。「酒」は資本主義、「詩」は古典芸術、「道徳」は歴史社会によってつくられるが、実際にそれに「酔ひ」を求める主体にすれば、これらの社会的要素とは全く無関係な存在であり、単に現実を忘却するための手段となるのではないだろうか。
「『時』に虐げられる奴隷になりたくないなら、絶え間なくお酔ひなさい!」
社会的現実を忘却するための手段に、社会的文化によって構築されたものを用いるという矛盾した構造に対する、皮肉が込められているとも感じられるだろう。
・現実からの脱却
「射的場と墓地」より
「『死』を除いては、すべてが如何に空しいものだかを知つたなら、お前達はそんなに疲れきつてはゐなからうに、勤勉な生物いきものよ、そしてずつと以前に『目的』を―厭ふべき人生の唯だ一つの真実の目的を達してゐる人達の眠りをこんなに度々妨げることはなからうに!」
ボードレールはこの一節にて、現実においては「死」のみが唯一の明確な「目的」であるとしている。現実で称揚される「勤勉」である者達が、疲弊してまでも手に入れるものは全て虚構であり、またそのことで墓地に眠る「死」と云う目的を果たした者達すら妨害する結果となるという。つまり、ボードレールは「死」のみが目的である現実において、何かしらの手段で酔うことで現実を忘却し、その「死」までの「時の重荷」を耐え続けることを示している。その構図は、
「彼は入つて行つて、墓地に向つて一杯のビールをのみ、それからゆつくりとシガーを一本吸つた。すると、幻想が彼を駆つて墓地の中へと降りて行かせた」
という一節に端的に表されている。現実に在った者が「酒」に酔ってみると、幻想が彼を「死」と云う目的まで誘ってくれることは、ボードレールが現実に生きる虚しさを痛烈に嘆くものと捉えられる。忘却は幻想を生み、幻想が「死」を助長するという、現実からの解放までの道程が一直線上に表されている。
「Anywhere out of the world」より
「どこでもいゝわ! 此の世の外なら!」
この現実への絶望と倦怠の憂鬱、そしてそれを出発点とした理想への焦がれは、ボードレールの直接的な現実に対する嘆きの声であろう。「人生は一つの病院である」という主張には、一切の救いなき苦悩に満ちた世界に生きる者達が、「死」までの「時」を、苦しまぎれの理想を信じて、ただ社会に横たわっている様子を表している。
・麻酔からの覚醒
これまで語ってきた様に、「酔ひ」による忘却と「死」と云う唯一確かな目的までの道筋の中で、ボードレールは「詩」の何処に救済を求めていたのだろうか。
「午前一時に」より
「俺の愛した奴らの魂よ、俺の歌つたやつらの魂よ、俺を強くしてくれ、俺を支へてくれ、いつはりと此の世の瘴気とを俺から遠ざけてくれ。それから、あなたは、あゝ主なる神様! 私が一ばん劣等な人間でないことを、自分の軽蔑した人たちにも劣つたものでないことを私自身に證するために、数篇のよき詩を書くことを許させたまへ」
ここでは現実から逃避することを願いながらも、彼は同じく詩を通じて「此の世」に対して抵抗しようとする意志を示している。この一見すれば逆説的な主張には、「死」までの「酔ひ」による一時的な慰めではなく、虚構としての現実に生き続け、また現実に抗う意志としての「詩」における昇華の責務、自己肯定の主張として位置付けられている。これは生粋のダンディズム(精神的貴族性)であり、ボードレールは自身の散文詩において、多く古典主義的な形式を踏襲している。これは、この現実の「忘却」のために現実を「詩」によって再構築するという、現実の絶望と理想への救済を橋渡しする役割としてボードレールは「詩」を用いていたと考えられるだろう。
・おわり
ボードレールは「酔ひ」による忘却が、「死」という唯一確かな目的が果たされるまで必要であると主張するが、一方で彼が「詩」を通じて追究したのは、そのような必要性に満ちた時代の変容、つまり痛々しい絶望にある現実のなかの自己を見つめながら、古典的な芸術「詩」の形式へと昇華し、新たな芸術として再構築することで自らの抵抗の意志を現実に対して表すことにあったと考えられる。つまり、ボードレールからすれば、真なる目的は「死」ではなく、「詩」による抵抗とそれに直結する自己陶酔の面にあったのではなかろうか。