創作スクールでは、しばしば「時代性を意識しましょう」と言われるらしい。
もっと現代的な題材を。今の読者に届くテーマを。社会の変化を作品に取り込みましょう。
言いたいことは分かる。だが、この助言にはどこか奇妙なところがある。
そもそも、文学における時代性とは、作者が作品の上に後から貼りつけるラベルのようなものなのだろうか。
たとえば、SNSを登場させれば現代的なのか。AIを題材にすれば時代性があるのか。格差やジェンダーや孤独や分断について書けば、作品は「今」を捉えたことになるのか。
そんなはずはない。
時代的な小道具はいくらでも置ける。しかし、小道具が新しいことと、作品が現在を捉えていることとはまったく別の問題である。
むしろ文学における時代性は、作者が意識して入れるものではない。
作者が人間を描こうとしたとき、その人間をどう見るかという視線そのものに、すでに時代が入り込んでいる。
何を欲望と呼ぶのか。
何を幸福と考えるのか。
何を恥と感じるのか。
何を成功とみなし、何を失敗とみなすのか。
何を自然な家族と感じ、どのような関係を恋愛と呼ぶのか。
そのどれ一つとして、時代から完全に自由ではない。
つまり作家は、時代の外から時代を描いているのではない。
自分自身が時代によって作られた存在として、その内部から世界を見ている。
ここで、普遍性という問題が出てくる。
文学の名作には、しばしば「時代を超えた普遍性がある」と言われる。
たしかにそうだろう。
何百年も前に書かれた作品を読んで、そこに自分と同じ嫉妬や執着や羞恥や孤独を見ることがある。社会制度も宗教も家族観も違う。それでも人物の感情が妙に近く感じられる。
すると、普遍性とは人間の奥底にある不変の本質であり、時代性とはその表面に現れる特殊な形なのだ、と考えたくなる。
これは半分は正しい。
愛されたい。
認められたい。
見捨てられたくない。
自分には価値があると思いたい。
誰かより優位に立ちたい。
失ったものを取り戻したい。
こうした欲望や葛藤は、時代を越えて何度も現れる。
しかし、その欲望のあり方まで完全に普遍的だと考えると、話はそれほど簡単ではない。
人間は何を欲望するかという点においても、社会から自由ではないからだ。
「自分らしく生きたい」という願い一つ取ってみても、それを当然の欲望として経験するためには、そもそも「自分には固有の内面があり、それを実現することが望ましい」という人間観が必要になる。
それは決して、あらゆる時代に同じ形で存在した考え方ではない。
だから普遍性とは、時代から独立した純粋な人間本性そのものではない。
むしろ、異なる時代、異なる制度、異なる価値観の下でも繰り返し形を変えて現れる、人間の関係や欲望の構造に近い。
欲望には反復性がある。
だが、その欲望が何に向かい、どのような言葉で理解され、どのような行為として実現されるかは、時代によって変わる。
承認されたいという欲望は古い。
しかし、ある時代にはそれが宮廷での寵愛として現れ、別の時代には社会的地位として現れ、また別の時代には昇進や所有として現れ、現代にはフォロワー数や自己表現や「自分らしさ」の承認として現れるかもしれない。
欲望は古く、その衣服は新しい。
だが重要なのは、衣服が単なる装飾ではないということである。
人間は、その時代に与えられた制度や言語を通してしか、自分の欲望を経験することができない。
だから時代性とは、普遍的な欲望の上に薄く塗られた表面ではない。
時代は欲望そのものの形を変える。
ここで作家性が重要になる。
作家は、人間一般を直接描くことはできない。
「孤独」そのものを書くことも、「愛」そのものを書くことも、「嫉妬」そのものを書くこともできない。
書けるのは、一人の人間が、ある場所で、ある相手を前にして、ある仕方で孤独になり、愛し、嫉妬する姿だけである。
つまり文学は、普遍を直接描くことができない。
文学にできるのは、徹底して特殊なものを書くことだけである。
ここが、文学の奇妙なところだ。
抽象的な意味では、「人間は孤独である」という言葉は普遍的である。
だが、小説としてはほとんど何も言っていない。
それに対して、午前二時、相手がメッセージを読んだことだけは分かるのに、返事が来ない。その人物が何度も画面を点けては消す。
これはきわめて特殊な状況である。
通信技術も生活習慣も、人間関係の作法も、その時代に強く規定されている。
だが、その特殊な状況を十分深く描けば、そこに見捨てられる恐怖や、相手の心を支配できない苦痛や、自分の価値への疑いが現れる。
そしてそこに、別の時代の読者でさえ自分を見出す可能性が生まれる。
普遍性は、特殊性を捨てた場所にあるのではない。
特殊性を掘り抜いた先にある。
このことを考えると、「普遍的なテーマを書こう」という創作上の助言も、かなり怪しく見えてくる。
普遍を意識しすぎた作品は、しばしば抽象的になる。
愛。
死。
孤独。
家族。
生きる意味。
言葉だけなら、どれも壮大である。
しかし文学は、概念の壮大さによって強くなるわけではない。
むしろ、一人の人物の取るに足らない欲望や、他人には説明しにくい羞恥や、本人すら認めたくない嫉妬を正確に描くことによって、はじめて人間一般に接近する。
普遍性とは、作者が作品に注入するものではない。
読者が特殊な他者の中に自分を発見したとき、結果として生じるものである。
この意味で、時代性と普遍性は対立しない。
むしろ両者は、特殊性という一点でつながっている。
作家が具体的な一人の人間を描こうとする。
すると、その人間の欲望には時代が刻まれる。
その時代には固有の制度があり、言葉があり、倫理があり、恐怖があり、幸福の像があるからだ。
作家はそれらを完全に超越することはできない。
そして、その時代的に特殊な人間を深く描いたとき、今度はそこから時代を超えて反復する人間の構造が立ち上がる。
つまり、
時代性とは、特殊性に刻まれた歴史である。
普遍性とは、特殊性の深部で発見される反復である。
では作家性とは何か。
それは、作家が特殊なものを見る固有の方法である。
同じ嫉妬を書いても、誰も同じ作品にはならない。
ある作家はそれを身体感覚として書く。
ある作家は会話のずれとして書く。
ある作家は権力関係として書く。
ある作家は滑稽さとして書く。
ある作家は破滅として書く。
作家性とは、奇抜な文体や変わった設定のことではない。
世界のどこに亀裂を見るかという、その人固有の認識の癖である。
そして、その認識の癖もまた、時代から完全に自由ではない。
作家は時代を見る。
しかし同時に、時代によって見させられている。
ここに、作家と時代の奇妙な往復運動がある。
作家は時代を描く。
時代は作家を通して自分を描く。
この関係が極端な形で現れる作家の一人が、マルキ・ド・サドだろう。
サドが「十八世紀末フランスの時代性を描こう」と考えて作品を書いたわけではない。
彼が扱ったのは、快楽、自然、宗教、道徳、自由、支配といった問題である。
だが、それらを極端な地点まで押し進めることで、結果として彼の時代が抱えていた矛盾まで作品の中に露出した。
自由を徹底すれば何が起きるのか。
自然を道徳の根拠とするなら、自然の残酷さをどう扱うのか。
神を否定したあと、善悪を何によって支えるのか。
サド自身が、後世の思想史家のように「私は啓蒙思想の内部矛盾を表象している」と考えていたわけではないだろう。
しかし、彼が自分の問題を徹底して掘った結果、その時代の思想そのものが作品の中に映り込んだ。
ここに、文学における時代性の本質がある。
本当に重要な時代性は、作者が「時代性を入れよう」として挿入した部分には現れない。
むしろ作者が疑うことなく当然だと思っている場所に現れる。
何を自由だと考えるか。
何を正常だと考えるか。
何を異常だと考えるか。
何を幸福だと考えるか。
作者が説明せずに通り過ぎた前提の中にこそ、その時代がいる。
だから作家に必要なのは、「時代性を意識すること」ではない。
正確には、自分がどのように時代によって作られているかを疑うことである。
自分が当然だと思っていることを疑う。
なぜ、この人物は結婚を望むのか。
なぜ、この人物は仕事で成功したいのか。
なぜ、この人物は孤独を恐れるのか。
なぜ、この人物は自分らしくありたいと思うのか。
その欲望を「人間だから」で済ませない。
そこには必ず制度があり、歴史があり、他者の視線があり、時代固有の価値観がある。
しかし同時に、それを社会学の説明にしてしまっても文学にはならない。
文学が扱うのは、「現代社会において人間は孤独である」という命題ではない。
その孤独を生きている、固有名を持った一人の人間である。
だから作家に必要なのは、時代を代表することでも、普遍的人間を描くことでもない。
一人の人間を徹底して見ることだ。
その人間の欲望がどこから来たのか。
本人はそれをどう誤解しているのか。
何を恐れているのか。
何を欲しながら、それを欲していないふりをしているのか。
どの瞬間に自分自身へ嘘をつくのか。
そこまで掘れば、時代は勝手に出てくる。
なぜなら、その人物は時代の中でしか生きられないからだ。
そして、そこまで掘れば、普遍性もまた勝手に出てくる。
なぜなら、人間の特殊な欲望の奥では、別の時代の別の人間が何度も同じように傷ついてきたからだ。
だから、作家が最初から時代性を狙う必要はない。
普遍性を狙う必要もない。
狙うべきものがあるとすれば、それは特殊性である。
いま、ここにいる、この人間。
この人物が、この時代に、この場所で、この相手を欲し、この理由で傷つき、この仕方で嘘をつく。
それを最後まで誤魔化さずに書く。
時代性とは、その特殊性に刻まれた現在である。
普遍性とは、その特殊性を読み抜いた後世の読者が発見するものである。
そして作家性とは、その特殊性を他の誰とも違う仕方で見る視線である。
だから創作における順序は、おそらく逆なのだ。
時代性を意識するのではない。
自分の時代を疑う。
普遍性を描こうとするのではない。
一人の人間を描き切る。
作家性を演出するのではない。
自分がどうしても世界をこう見てしまう、その認識から逃げない。
そうして書かれた作品だけが、結果として一つの時代を映しながら、その時代の外へ出ていく可能性を持つ。
時代を超える作品とは、時代を捨てた作品ではない。
むしろ、その時代から逃げなかった作品である。
普遍的な作品とは、人間一般を語った作品ではない。
一人の人間を、あまりにも具体的に描いてしまった作品である。
そして作家とは、普遍を知っている人間ではない。
特殊なものを見つめ続けた末に、そこから逃げ場のない人間そのものに出会ってしまう人間なのだ。